
見えない場所でわたしが輝くということ⑱
第18話 同じ方向を向いて
結果が出たのは、一週間後だった。
メールで通知が来た。件名を見た瞬間、少し手が震えた。開くまでに、深呼吸を一回した。
「一部フロアの清掃業務委託について、てのひら清掃様にお願いしたく……」
最後まで読まずに、画面を閉じた。それからもう一度開いて、最初から読んだ。
受注できた。一条ビルの、二フロア分。全部じゃない。でも、確かに任せてもらえた。
父に「決まった」とだけ送った。既読がついて、返信はなかった。それでよかった。
正式な契約締結の場は、一条ホールディングスの会議室だった。
霧島さんと、一条さんと、会長が揃っていた。私は一人で出向いた。
書類を確認して、印鑑を押した。会長が書類に目を通しながら、ふと顔を上げた。
「君があの時の子か」
低い声だった。確認するような言い方だった。
「はい」と私は答えた。
会長はしばらく私を見ていた。何を考えているのかはわからなかった。複雑な表情だった。否定でも肯定でもない、何かを測るような目だった。
「よろしく頼む」
それだけ言って、書類に戻った。
一条さんの母親も同席していた。契約の場には直接関係のない立場だったが、来ていた。私が頭を下げると、母親は微笑んだ。以前の、値踏みするような笑顔とは少し違った。プロとして来た人間を見る目だった。完全に変わったわけじゃないかもしれない。でも、何かが少しだけ動いた気がした。
契約が終わって、廊下に出た。
霧島さんが隣に並んだ。
「相澤さん、立ち上げチームのサブリーダーをお願いできますか」
思いがけない言葉だった。私は「私でいいんですか」と聞いた。
「あなたがいいんです」
霧島さんは迷わず言った。以前の、感情を見せない口調とは少し違った。
私は「わかりました」と答えた。
霧島さんが先に歩いていった。その背中を見ながら、あの早朝のエレベーターを思い出した。二人きりになって、霧島さんが「責任の所在が曖昧になる」と言ったあの日。あの頃の霧島さんと、今の霧島さんは、同じ人なのにどこか違った。私も、たぶんそうだった。
その夜、一条さんからメッセージが来た。
「屋上で少し話せますか」
ビルに戻ると、一条さんが屋上の入口で待っていた。
扉を開けると夜風が冷たかった。
一条さんが話し始めた。
「なんであれ、君が一番時間をかけてきたことが、あなたの強みだ」
私は黙って聞いていた。
「どんな底辺の場所にあっても、そこから何かをつかみ取って立ち上がろうとする強さをこそ、僕は認めたい。ずっとそう思ってきた」
風が、髪をなでた。
「僕は一度逃げた。君と別れてしまったけれど、これからは逃げるんじゃなくて、どんな問題でも真剣に向き合いたい。君と同じ方向を向いて、一緒に生きてゆきたい」
私はしばらく、何も言えなかった。ただ、その言葉が胸にせまって、受けとめるのに少し時間がかかった。
「ここに来る前の私には、精神的な居場所がどこにもなかった」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「だから、自分で自分の居場所を作った。あなたと初めて出会った日から、私はどうしたって今ここ、自分のいる場所からでしか始められなかった。私はこの仕事を通して、自分の輝ける場所を見つけた。だから私はこれからも掃除を続けて生きていきます」
一条さんが私を見ていた。
「それでもよかったら」
私は見つめ返した。
「それがいい」
一条さんは少し笑った。
ふたりの間に、もう言葉はなかった。私たちは並んで、同じ景色を眺めていた。街の灯りが遠く広がっている。これからも変わりゆく街。いくつもの出会いと別れがある街。愛おしい、私たちの街。
__
#創作大賞2026 #お仕事小説部門
#創26仕事
▶︎次の話はこちら
◀︎前の話はこちら