
見えない場所でわたしが輝くということ⑪
第11話 父の手
実家に戻ってから、しばらくは時間だけが私を追い越していった。
正確に言えば、自分から新しい何かに向けて動き出すことはなかったが、父の食事を作り、洗濯をして、掃除をした。一条ビルでの仕事が終わって、次の現場が決まるまでの間、私は母親代わりの家事をしながら、自分がなにをしたいのかよりも、どうありたいのかをぼんやりと考えていた。
父は特に何も聞かなかった。
仕事はどうしたのかということも、理由も。ただ、夕食のとき、いつもより少しだけ多くご飯をよそってくれた。その優しさがありがたかった。
ある夜、父がテレビを消した。珍しいことだった。父はいつもテレビをつけたまま、眠くなると寝室に行ってしまう。
「一条ビルって、再開発になるんだろう」
父がぽつりと言った。私は味噌汁の椀を持ったまま、顔を上げた。
「ニュースで見た。駅前の再開発計画の一環だって」
「そうみたい」
父はしばらく黙った。湯飲みを両手で包むように持って、テーブルの木目を見ていた。
「あそこ、もう行かないのか」
「うん、現場が変わるの」
「そうか」
台所の時計の音だけが、部屋で頷いていた。
父が駅前で文房具店を開いたのは、私が生まれる前のことだ。三十年近く、あの商店街の角に店を構えていた。私が小学生の頃、店の奥の机で、父と母の働く後ろ姿を見ながら宿題をしていた記憶がある。父はいつも事務所にいるか、車で納品に行っていて、店では気立ての良い母がレジ係や接客をしていた。
再開発で立ち退きになったのは、私が高校に上がる前だった。父はそのことをほとんど話さなかった。引っ越しの日、納戸に仕舞われた古い看板を、父は一人で運んでいた。手伝おうとしたら「いい」と言った。猫背になった父の背中がやけに小さく見えた。
今も、納戸の奥に看板はある。
翌朝、父が珍しく私よりも早起きしていた。ダイニングでお茶を飲みながら、新聞を広げてた。
「父さん」
私が声をかけると、父は振り返った。
「……あのビル、好きだったんだろう?」
聞かれた瞬間、少し驚いた。父が私の仕事のことを、そんなふうに言ったのは初めてだった。
「うん。好きだった。あのビル、朝一番に私が行くと、ちょっと機嫌いい気がしてさ。撫でてやりたくなるビルだった」と私は答えた。
父は頷いた。窓の外の、どこか遠くを見ている目をして。
「そういう場所って、なくなっちゃうんだよな。気づいときには」
独り言みたいに呟いた。私に言っているのかどうかは、わからなかった。
私は父の隣に座って、一緒にお茶を飲んだ。ふたりとも、しばらく何も言わなかった。
窓の外に、朝の光が伸びていた。遠くで、工事が始まる音がした。この街のどこかで、また何かが変わろうとしている。
父の手は、湯飲みをゆっくりと包んでいた。お釣りを数えるときの、あの手つきじゃなかった。ただ、温かいものを持っている手だった。
この人も、自分の居場所を失くしたことがある。そのことを、今頃になってちゃんと思った。
失った場所への想いは、なくした人にしかわからない。私も、そうなのかもしれない。
「次の現場、決まりそうなの?」と父が言った。
「うん、会社からの指示待ち」
「そうか」
父はそれだけ言うと、お茶を飲み干した。湯飲みをシンクに持っていって、軽くすすいだ。それから、自分の部屋に戻っていった。
私は一人、台所に残った。
父が聞いたのは「次の現場」のことだけだった。一条ビルを離れた理由も、これからどうするつもりかも、問わない。自分の子どもを信じて任せる。それが、父らしかった。
「あのビル、好きだったんだろう」
その一言だけは、ちゃんとこの胸に届いていた。
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