
見えない場所でわたしが輝くということ⑤
第5話 紙一枚を、差し出す
発注書の束を抱えた霧島さんが、会議室に入っていくのが廊下から見えた。今日は朝から人の出入りが多い。エレベーターが何度も上下している。
川村さんから「今日は会議があるから、廊下の清掃は早めに終わらせて」と言われていた。私はいつもより三十分早く動き始めた。
会議室の前を通るとき、中から声が聞こえた。数字と、工期と、業者の名前。扉一枚隔てた向こうで、このビルの行方が話し合われていた。
私が関わる話ではない。でも、このビルのことだと思うと、足が少しだけ遅くなった。
昼過ぎに、川村さんに呼ばれた。
「相澤さん、ちょっといいですか」
珍しく敬語だった。嫌な予感がした。
連れて行かれたのは、小さな会議室だった。霧島さんと、一条さんがいた。
「座ってください」と一条さんが言った。
私は作業着のまま、スーツの二人と向かい合った。椅子が、少し高かった。
「現場のヒアリングをしたいと思っています」
一条さんが言った。霧島さんは手元の資料を見ていた。
「清掃スタッフの方に、普段気になっていることを聞かせてもらいたい。改修計画に反映できることがあれば、取り入れたいので」
霧島さんが顔を上げた。
「あくまで参考意見として、ですが」
私は「はい」と言った。
その夜、私は書き留めてきたメモを広げた。
日々の作業の中で気になっていたことを、少しずつ書き留めていたものだ。トイレの換気が弱いフロアのこと。雨の日に滑りやすくなる玄関マットのこと。ゴミ置き場の扉が重くて、一人では開けにくいこと。テナントの女性から「更衣室の鍵が古くて閉まりにくい」と聞いたこと。
誰かに見せるために書いたわけじゃない。ただ、書き留めておかないと忘れてしまうから。
これを持っていっていいのだろうか。
しばらく考えて、新しい紙に清書することにした。自分の言葉でうまく話せる自信はなかった。でも、こうすれば渡せる。
翌週の会議に、私は呼ばれた。
テナントの代表者が二人、霧島さん、一条さん、清掃会社の上司、そして私。場違いだとわかっていた。作業着で来るべきか迷って、結局作業着で来た。他に着るものがなかった。
テナントの代表者が、いくつか要望を述べた。霧島さんが資料をめくりながら、予算の話をした。数字が飛び交うたびに、私には関係のない話が続いていた。
「清掃スタッフからは何かありますか」
一条さんが私を見た。
全員の視線が集まった。
私は書き留めてきた紙を取り出した。テーブルの上に置いて、両手で少し前に押し出した。
「まとめて書いてきました。言葉で説明するのは得意じゃないので」
一条さんがそれを手に取った。霧島さんが隣から覗き込んだ。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「換気の件は、設備の見直しで対応できますね」と霧島さんが言った。資料にペンを走らせた。「玄関マットは素材の変更で。ゴミの搬出扉は……これは設計に入れましょう」
淡々とした口調で事務的だった。でも、読んでくれていた。
一条さんが「更衣室の鍵の件、テナントさんから直接聞いていますか」と私に聞いた。
「はい。三階の田所さんから」
「何度くらい?」
「三回ほど。同じ方から」
一条さんはメモに何かを書き加えた。
「テナントが直接言いにくいことを、清掃スタッフが拾ってくれているんですね」
独り言みたいな言い方だった。胸の奥が、少しだけあたたかくなった。
会議が終わって、廊下に出た。
川村さんが壁際で待っていた。
「どうだった?」
「まとめた紙を渡しました」
「それだけ?」
「はい」
川村さんは少し黙った。それから「ご苦労さん」と言って、先に歩いていった。
「ご苦労さん」という言葉には、どんな意味が含まれるのだろう。そこまではわからなかったけれど。
エレベーターを待ちながら、さっきの会議室を思い返した。場違いだという感覚は最後まで消えなかった。でも、ずっと書き留めてきたものを読んでもらえた。それだけは確かだ。
口に出せないことでも、書いたら言えることがある。
そのことを、今日初めてちゃんとわかった気がした。
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