
見えない場所でわたしが輝くということ①
あらすじ
高卒で就職に失敗した相澤沙希は、古びた雑居ビルで清掃員として働いている。誰もいない早朝、トイレや廊下を黙々と磨く毎日。同僚との軋轢、管理側との温度差、唯一の理解者との別れを経験しながらも、沙希は“見えない場所を整える仕事”に誇りを見出していく。
やがてビルの再開発が決まり、合理化の波が現場を飲み込もうとする中、沙希は小さな清掃会社を立ち上げ、かつて働いていたビルのコンペに一人で挑む。
誰にも気づかれない場所で、誰かの今日を支えて働く人たちがいる。これは、清掃という仕事の先にある、人の尊厳と再生を静かに描いた物語。
第1話 朝、誰もいない場所で
朝の空気は、少し冷えているくらいが落ち着く。胸の奥がじんと痛む日は、なおさらだ。
タイムカードを押す指先に、わずかな緊張が走る。高卒で就職に失敗し、正社員になれなかった自分を、この小さな清掃会社が拾ってくれたのは、二週間前のことだ。
「今日もよろしくね、相澤さん」
事務所の奥から顔を出した先輩の声に、思わず背筋が伸びた。
自分の名前が、ちゃんと呼ばれる。それだけのことが、こんなに胸にしみるとは思わなかった。
呼ばれない時間のほうが、きっと長かった。
ここには、父さんの声も、元同級生たちの笑いも届かない。
狭い更衣室に入り、自分のロッカーを開けて作業着に着替える。曇った鏡を拭くと、自分の顔がくっきり浮かび上がった。寝不足で目の下にクマができていて、髪も跳ねたままだ。それでも、さっきよりは少しましな顔に見えた。
鏡の中で、小さく笑った。
「バイトなんてさあ」
「正社員になれないと終わりだよな」
同窓会で、ふと聞こえてきた言葉を思い出す。
胸の奥に、あの時の熱がじわりと蘇った。
でも、ここでは、必要とされている気がする。床の汚れを落とすたび、トイレの匂いが少し柔らぐたびに、「やってよかった」と、誰にも言わずに思える。
たとえそれが、履歴書には大きく書けない仕事でも。何かを失い続けてきたみたいな人生の中で、今、手の中にあるこの小さな感覚だけは、捨てたくはなかった。たとえ、それがどこまで自分のものか分からなくても。
誰も見ていない場所ほど、汚れはこびりつく。
床の目地に入り込んだ黒ずみ、洗面台の縁に積もった石鹸カス、換気扇の羽根の裏側にへばりついた埃。そういうものは、誰かが気づいて取り除かない限り、静かにそこに居続ける。まるで最初からそこにあったかのように。
モップや洗剤が詰まったカートを押してビルの廊下を進む。誰もいない早朝のフロアには、白い蛍光灯の光が静かに広がっていて、歩くたびに自分の足音だけが響く。
私はモップを絞り、廊下の端から丁寧に拭き始めた。
午前五時四十分。一条ビルディングのニ階は、まだ誰もいない。エレベーターホールの蛍光灯が一本だけ、かすかに点滅している。窓の外はまだ暗く、駐車場のアスファルトが夜の湿気を帯びて光っていた。自動ドアの向こうから、遠くを走る車の音が低く届いてくる。それだけだ。
私はこの時間が好きだ。誰もいない廊下を、自分のペースで歩ける。カートのキャスターが立てる小さな音と、モップが床を撫でる音だけが続いて、それがひとつのリズムになる。
チームリーダーの川村さんは「早朝は体がしんどい」と言う。同僚の田中さんは「深夜より眠い」と言う。それはたぶん本当なんだと思う。私だって最初の一週間は、目覚ましが鳴るたびに布団の中であと五秒だけ目を閉じていた。でも今は違う。今はこの時間に、自分だけのものがある気がしている。
トイレに入り、個室のドアを開けて、便器の裏側を確認する。前の担当者が拭き残した水垢が、縁に薄く付いていた。私はブラシを手に取り、丁寧に落とした。誰も見ないところだ。利用者は便器の裏なんて見ない。でも汚れは確かにそこにある。
ここを使う人が、気持ちよく一日を始められたら、それでいい。
認めてほしいわけじゃない。ただ、この場所がきれいであることに、清々しさがあると思っている。誰かの一日の、ほんの小さな一コマが、ちょっとでも軽やかになったらいい。それだけだ。
モップを動かしながら、昨夜の父のことを思った。
夕食のとき、父はテレビを見ながら「また駅前が変わるらしいな」とつぶやいた。ニュースで再開発の映像が流れていた。父は箸を止めて画面を見つめ、それきり何も言わなかった。私は「そうだね」と返して、湯飲みに急須を傾けた。
父、相澤勝は今年六十五になる。母が病気で亡くなったのは、私が中学生の頃だった。それからずっと、二人暮らしだ。若い頃、父は駅前で小さな文房具店を営んでいた。納戸の奥にはまだ古い看板や伝票の束が仕舞い込まれている。再開発で立ち退きになったのは、私が高校に上がる前のことだ。ただ、お釣りを渡すときみたいな、何かを数えるあの独特の手の動きだけが、今も変わらない。
私は時給千二百円で、父の年金と合わせて、二人でなんとか暮らしている。将来のことを考えると、遠くにぼんやりと霧がかかっているような感じがして、その先については、深く悩まないことにしている。
午前八時を過ぎると、ビルに人が増え始める。
私はカートを押して廊下を移動しながら、スーツ姿の人たちとすれ違う。みんな歩くのが速い。視線はスマートフォンか、まっすぐ前を向いているか、そのどちらかだ。私のカートが少し邪魔になる場所では、こちらが壁際に寄る。それが暗黙のルールになっている。
三階の廊下を拭いていたとき、前から歩いてきたスーツの男性が私の横を通り過ぎた。その瞬間、私の足元に何かが舞い落ちた。コンビニのレシートだ。風で飛んだのではなく、ポケットに手を入れたら滑り出た感じだった。
男性は振り返らなかった。そのまま歩いていく。
私はモップを脇に置き、レシートを拾った。カートのゴミ袋に入れて、また作業を続けた。
少し離れたところで、別の女性社員がその様子を見ていた。彼女は男性の背中を見て、それから私を見た。一瞬、口を開きかけた。
男性が振り返り、女性と目が合った。
「いいのいいの、ああいうのも仕事のうちだから」
男性は笑いながら言い、エレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まる。
女性社員は一瞬その場に立ち止まり、何も言わずに歩いていった。
廊下に私一人が残った。
憤りなど、ない。正確に言えば、そんな気力があれば別のことに使いたい。この廊下をきれいにすることに。次のフロアに移る段取りを考えることに。
午前九時。テナントの出勤が一段落して、廊下が静かになった。そのとき、廊下の奥からスーツ姿の女性が近づいてきた。胸元に管理会社のIDカードをさげている。年齢は三十代後半ほど。足音が静かで、背筋が伸びていた。
女性は私をちらりと見た。見た、というより、視界に入った、という感じだった。
「清掃の方ね。今日から定期清掃が入ることになります。何かあれば現場責任者に報告して」
それだけ言って、通り過ぎた。私は「はい」と返事をした。女性はもう早い足取りで先に行っていた。
少し後で、川村さんから教えてもらった。その女性はビル管理会社のマネージャーで、霧島さんという名前だと。大規模な改修の事前調査で来たらしい。オーナーとも顔なじみで、腕利きらしかった。
私にはそれ以上のことは関係がない。
午前十時。私は道具を片付けながら、一階エントランスのガラスドアを最後に磨いた。内側から、朝の光が差し込んでいた。
スーツの人たちがこの光の中を歩いていく。
私は作業着のまま、ガラスの内側からその光景を見ていた。
ここが、今の私の居場所だ。華やかではないし、誰かに賞賛されるわけでもない。でも確かに、ここに立っている。この仕事をしているのは私だ。他の誰でもない、私が選んでここにいる。
そう思うと、朝の光が少しだけ違う色に見えた。
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