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見えない場所でわたしが輝くということ⓾

    第10話   笑って、去った

     ビル再開発の説明会は、平日の午後に開かれた。

     テナントの社員たち、管理会社のスタッフ、そして清掃や警備の現場スタッフも出席するようにと通達があった。川村さんは「一応行っておいて」と言った。私は作業着のまま、会場になった一階の会議スペースに入った。

     壇上に一条さんがいた。
     スーツを着て、マイクの前に立って、資料を手に話している。いつもビルの廊下で手帳を開いていた人が、別の場所にいるみたいだった。壇の上と、パイプ椅子に座る私の間に、なんとも言えない距離があった。遠い、というより、最初からそういう立場にいる人なのだと、改めてわかった。

     説明会の内容は半分も頭に入らなかった。ただ、一条さんが話すたびに、会場の人たちがちゃんと聞いているのはわかった。この人の言葉には、人を動かす力がある。それはずっと感じていたことだったけれど、こうやって壇上の人を見つめると、改めてそう思う。


     説明会の後、一条さんの母親と兄が現場を視察に来た。
     母親は上品な装いで、物腰が柔らかかった。兄は一条さんより少し歳上で、会長に似た目の鋭さがあった。二人とも、ビルを隈なく見て回りながら、管理会社のスタッフに質問していた。

     私は三階の廊下を清掃していた。一条さんと、廊下の窓際で少し話をしていたとき、角を曲がってきた兄と目が合った。彼は一瞬だけ私たちを見て、それから視線を外した。

     その日の夕方、川村さんに「相澤さん、ちょっといい」と呼ばれた。

     「一条家の方から、連絡があったみたい」

     それだけで、わかった。


     後で聞いた話では、その夜に一条家で話し合いがあったらしい。誰かが廊下で撮った写真が、その場で出されたという。清掃スタッフと親しげに話しているところを、見られていた。

     数日後、清掃会社の上司から呼ばれた。

    「相澤さんには、別の現場に移ってもらうことになりました」

     上司の言い方は事務的だった。理由は「現場の人員調整」とだけ言われた。私は「わかりました」と答えた。
     川村さんは私を見なかった。田中さんも、森さんも、何も言わなかった。


     その日の帰り道、一条さんからメッセージが来た。

    「話せますか」

     私はしばらく画面を見ていた。それから、「大丈夫です。ご心配なく」と返した。

     返信が来た。「そういうことじゃなくて」

     私はもう一度、その言葉を飲み込んだ。
     話したい、という気持ちがなかったわけじゃない。でも、話してどうなるのか。一条さんが家族に逆らったとして、それで何かが変わるのか。変わったとして、その先に何があるのか。

     私には想像できなかった。

    「あなたの足を引っ張りたくないので」と打った。送信する前に、少し指先が止まった。それから、送った。

     返信は来なかった。


     翌朝、最後の出勤をした。

     道具置き場で自分のモップを取り出した。いつもより丁寧に、最後のフロアを拭いた。トイレの隅、窓枠の桟、階段の手すり。自分が時間をかけてきた場所を、一つひとつ確認するように。

     チームリーダーの川村さんが通りかかった。立ち止まって、私を見た。

    「お疲れさん」

     それだけだった。私も「お世話になりました」とだけ言った。

     笑って言えた。自分でも少し驚いた。泣くかもしれないと思っていたのに、笑えた。
     エントランスのガラスドアを最後に磨いて、カートを片付けた。朝の光が、内側から差し込んでいた。

     ここが、私の最初の舞台だった。ありがとう。
     そう思いながら、ドアを押して外に出た。光の中に、私を迎える次の場所があるはずだと信じながら。

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    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

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