
見えない場所でわたしが輝くということ⑦
第7話 上杉くんのこと
上杉くんが来たのは、十月の終わりだった。
清掃会社の中途採用で、前職はデスクワークだったと自己紹介した。細身で、声が少し高くて、作業着がまだ体に馴染んでいない感じがした。川村さんへの挨拶は丁寧だったが、どこかぎこちなかった。
「よろしくお願いします」と頭を下げたとき、目が合った。同い歳くらいだとすぐにわかった。
川村さんは「即戦力は期待してないから、まず見て覚えて」とだけ言った。上杉くんは「はい」と答えた。
最初の一週間、上杉くんはひたすら川村さんの後ろをついて歩いた。メモを取りながら、時々小さく頷いていた。でも、手が追いついていないのは見ればわかった。ゴミ袋の結び方が甘くて、運搬中にほどけた。川村さんに「また」と言われて、上杉は「すみません」と頭を下げた。何度目かの「すみません」だった。
休憩室で、上杉くんが一人で業務マニュアルを見直しているのを見かけた。ゴミ袋の結び方を、自分なりに図に起こしていた。不器用な絵だったが、丁寧だった。
私は何も言わなかった。ただ、自分のお茶を入れながら、一度だけ手元を見せるように袋を結んだ。それだけだ。
数日後、上杉くんが「今日はこの結び方でいいですか」と言ってきた。私が見せた結び方だった。「はい」とこたえると、ぎこちないながらも確実に結んでいた。その日、袋は一度もほどけなかった。
帰り際、通用口で堀田さんが「最近、廊下がきれいで助かるよ」と声をかけてきた。上杉くんは少し驚いた顔をして、それから「ありがとうございます」と言った。まるで、初めて感謝の言葉をもらったみたいな声だった。
十一月に入って、雨の日が増えた。
雨の翌朝は、玄関と一階の廊下が特に汚れる。泥と水が混じって、乾く前に踏まれると取りにくくなる。川村さんの指示では、そのエリアは週に三回の清掃で十分だということになっていた。
ある雨の朝、出勤ラッシュが一段落した頃、上杉くんがすでに一階の廊下でモップをかけていた。誰にも指示されていないはずだった。
「もう始めてたんだ」と声をかけると、「雨だから、きっと今日はここが汚れると思って」と言った。照れているのか、少し早口だった。
その日の昼、テナントの男性社員が「今朝、靴が汚れなかった」と同僚に話しているのが聞こえた。
上杉くんはそれが耳に入っても黙っていたけど、頬が少し赤かった。
「よく気づいたね」と私が言うと、
「このビルのクセがちょっとわかってきました」と答えた。恥ずかしそうに笑った。
言われたことをやる人が、先回りして動ける人になった。その変化が、さりげなく、確かに感じられた。
ある日の終業後、上杉くんが「少し話せますか」と言ってきた。
通用口の脇で、二人で立ったまま話した。
「川村さんに何を言われるより、ちゃんと教わらないことの方が不安で」上杉くんは少し言葉を選びながら言った。
「細かいところまで指導してくれるのは、先輩だけなので」
私は「そんなことない」と言おうとして、やめた。そんなこともあるよね、と思ったからだ。
「自分、まだまだ下手ですけど」上杉くんが続けた。
「先輩に教わってから、クレーム一件も出てないです」
私は「ありがと」とだけ言った。それ以上うまい言葉が出なかった。
誰かの土台になっている、という感覚が、じわりと胸の奥に広がった。守られる側じゃなくて、誰かを支える側に、いつの間にかなっていた。それがこんなに静かな喜びだとは。
その頃から、霧島さんの動きが変わり始めた。
一条さんの父、つまりこのビルのオーナー一族の会長が、大規模改修後の案件をめぐって、霧島さんに「コスト優先で動け」と圧力をかけているらしいと、川村さんから聞いた。詳しいことはわからない。ただ、霧島さんがビルに来る頻度が増え、清掃のチェックが細かくなった。
そして、フロアの一部が「清掃省略エリア」に指定された。
川村さんから説明を受けたとき、私はすぐに「わかりました」という言葉が出なかった。省略エリアに指定されたのは、夜間に働く人が多く使う廊下と、一階の共用トイレだ。
「このラインは落としたくないです」
気づいたら、口に出していた。
川村さんが私を見た。
「感情論はいいから」
「感情じゃなくて、残っているテナントの人が毎日使う場所なので」
川村さんは何も言わないで自分の持ち場に行ってしまった。
翌日、霧島さんに直接話す機会があった。廊下で二人になったとき、私は言った。
「省略エリアの件ですが、夜間のテナントの方が使う場所が含まれています」
霧島さんは書類から目を上げた。
「理想論はわかります」
霧島さんは静かに言った。
「再開発後の大型契約を取れれば、ここにいる全員の雇用を守れる。数字が出なければ会社ごと沈む。それも現実です」
私には反論できなかった。霧島さんの言っていることは間違っていない。間違っていないのに、どこかが引っかかった。
その夜、上杉くんからメッセージが来た。
「今日のやりとり、少し聞こえました。僕にできることがあれば手伝わせてください」
上杉くんが翌朝持ってきたのは、A4の紙が数枚クリップでまとめられたものだった。
「前の仕事で、こういうのだけは得意だったので」と言って、遠慮がちに差し出した。
見ると、どの時間帯にどのフロアが一番汚れるか、テナントから声をかけられた言葉の一覧、清掃省略によって想定されるクレームリスクの簡単な試算が、表にまとめられていた。
「いつの間にこんなに」
「ちょこちょこメモしてたんです。前の職場でも、現場の声をデータにする役割をやってたので」
私はその紙をしばらく見ていた。上杉くんが現場で積み上げてきたものが、そこにあった。
「これ、使えるかもしれない」
上杉くんが小さく頷いた。
「僕も、この仕事をやる意味を知りたいんです」
その一言に、背中を押された。
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