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見えない場所でわたしが輝くということ②

    第2話 手帳の人

     川村さんのやり方は、合理的だ。
     決められた時間に、決められた場所を、決まった手順でこなす。長年この仕事をしてきた人の、無駄のない動き方だと思う。同僚の田中さんや森さんたちも同じだ。定時が来たら切り上げる。持ち場が終わったらそれ以上はやらない。それがここのルールだと、暗黙の了解で教えられた。

     私はそのルールを、たぶん守れていない。
     誰もやりたがらない場所が、目に入ってしまう。階段の踊り場の隅、窓枠の桟、エレベーターのボタン周りの黒ずみ。そういう場所は、持ち場の外だったり、時間外だったりする。それでも、手が自然に動いてしまう。

     ある早朝、三階のトイレで床を磨いていた。膝をついて、タイルの目地に入り込んだ汚れを小さなブラシでかき出していた。誰も来ないと思っていた。

    「そんなところ、誰も見てないのに」
     声がして、顔を上げた。

     入口のところに、スーツ姿の男性が立っていた。三十代くらいだろうか。手帳を持って、ビルの壁や天井を確認するように見て回っている。テナントの人にしては、どこか違う。

    「見てなくても、使う人はいますから」
     答えながら、少し恥ずかしくなった。膝をついたまま上を向いて話すのは、妙な格好だ。

     男性は少しの間、私を見ていた。それから、かすかに笑った。

    「そうか」
     それだけ言って、手帳に何かを書きつけた。「邪魔したね」と言い残して出ていった。


     その人がちょくちょくビルに現れるようになったのは、それから間もなくのことだ。私はいつの間にか、その人を心の中で*手帳の人*と呼ぶようになっていた。
     清掃チームに話しかけてくることもあった。

    「最近何か気になることはありますか」
    「このフロア、使い勝手はどうですか」
     川村さんは愛想よく返しながら、後で「変わった人ね」とつぶやいた。テナントの担当者か、管理会社の人か。私にはよくわからなかった。

     ある日の休憩時間、私がゴミ置き場の消臭対策を試していると、*手帳の人*が通りかかった。排水溝の近くに重曹を薄めた水を撒いて、においの元を少し抑えようとしていたところだ。

    「それ、効くんですか」

    「少しは。完全にはならないですけど」

    「誰かに言われて?」

    「いえ、自分で考えました」

     その人はまた手帳に何かを書いた。それから、「ありがとう」と言った。報告を受けた上司みたいな言い方だった。少し不思議だったけれど、気にしなかった。

     その後、廊下の照明が一部交換され、ゴミ置き場に簡易の換気扇が取り付けられた。私の工夫とは直接関係ないかもしれない。でも、タイミングは重なっていた。


     変化はゆっくりと、しかし確かに起きていた。
     トイレの手洗い場に小さな観葉植物が置かれた。廊下の掲示板が整理された。私が提案したわけではないが、私が気になっていた場所が、少しずつ変わっていった。テナントの女性から「最近きれいになりましたね」と声をかけられることが増えた。

    「いつもきれいにしてくれてありがとうね」

    ビルの通用口にいる警備のおじさんが、私の帰り際にそう言った。
    ありがとう、なんて、最近ほとんど言われた記憶がない。誰か一人でも、「ありがとう」と言ってくれる人がいる。それだけでじゅうぶんだ。

     ある朝、*手帳の人*が川村さんたちにいくつか質問をしていた。

    「いつも一番早く来ているのは誰ですか」

    「このトイレ、前より明るく感じますね、何か変わりましたか」

     川村さんが答える前に、田中さんが「相澤さんが色々やってるみたいですよ」と言った。悪気はなかったと思う。

     その人は私を見た。
    「そうですか。丁寧にやってくれてるんですね」
     私は小さく頭を下げた。川村さんの口元が、一瞬ちょっと固くなった。


     終業後のことだ。
     気になっていた非常階段の踊り場を、一人で掃除していた。うっすらと埃を被った手すりを拭いていると、下から足音がきこえてきた。

     川村さんだった。
     私を見て、川村さんは一瞬止まった。それから、何も言わずに上がっていった。

     翌日の休憩室は、いつもより静かだった。私が入ると、会話が途切れた。田中さんが目を合わせなかった。森さんが立ち上がって、自分のコップを洗いに行った。

     何かが変わった、と思った。何が、とは言えない。ただ、その場の空気が、すっと冷えた。


     その日の夜、私はビルの一階で水漏れを見つけた。トイレの奥の壁際、床との境目がじわりと湿っている。排水管のどこかが傷んでいるのかもしれない。
     報告しようとして、現場責任者に連絡を入れた。折り返しを待っている間に、廊下を*手帳の人*が歩いてきた。

    「あの、すみません」
     呼び止めた。少し迷ったけれど、放っておけなかった。

    「ここ、見ていただけますか。床が湿っていて、このままだと腐るかもしれないので」
     *手帳の人*はすぐにしゃがんで、壁との境目を確認した。手で触れて、においを確かめた。

    「これは早めに対処した方がいいな」
     手帳を出して、場所と状況をメモし始めた。
    「業者に連絡します。ありがとう、気づいてくれて」

     そのとき、私はなぜか「このビル、好きなんです」と言ってしまった。言うつもりはなかった。

    「古いけど、朝は静かで。ここを使ってきたいろんな人の思いが詰まってる気がして」

     *手帳の人*は手を止めて、私を見た。

    「そういうふうに見てる人が、ここにいるんですね」

     独り言みたいな言い方だった。私は何てこたえればいいのかわからなくて、
    「すみません、変なこと言って」と言った。
    「いや」と*手帳の人*は言った。

    「参考になりました」


     翌日、川村さんに呼ばれた。

    「相澤さん、昨日オーナーと話してたでしょ」
     オーナー。その言葉で、初めてわかった。あの人が、このビルのオーナーだったのか。

    「ちょっと水漏れが気になったものだから声をかけただけで、私は何も——」

    「そういうことじゃなくてね」
     川村さんの口元は笑っていた。笑っているのに、目は笑っていなかった。

    「あなたがサービス残業したら、私たちまでやらされるようになるって思う人もいるの。わかる? チームってそういうもんだから」

     私は「すみません」と言った。それ以外に何を言ったらいいのかわからなかった。

     川村さんは小さく頷いて、休憩室に戻っていった。

     廊下に一人残って、私はしばらく動けなかった。

     間違ったことをしたのだろうか。でも、水漏れを放っておくことが正しいとも思えない。丁寧に掃除することが、誰かの迷惑になるとも思えない。ただ、時間外労働を許可なくやってはいけないことはわかった。

     気持ちと、場の空気は、ときどきズレてしまう。
     それはわかっている。わかっていたけれど、こんなにも近い距離でぶつかると、少しだけ息苦しい。

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    #創作大賞2026 #お仕事小説部門
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    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

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