
見えない場所でわたしが輝くということ⑥
第6話 ヒールの音が、遠ざかる
改修工事の準備が本格的に動き始めると、ビルの中の空気が変わった。
業者の出入りが増え、各フロアでは図面を広げた打ち合わせが行われるようになった。テナントへの説明会も開かれ、「工事期間中の不便」について文書が配られた。清掃の動線も一部変更になり、川村さんの指示がいつもより細かくなった。
そんな中で、少しずつ気になることが増えていった。
道具置き場のバケツが、いつも私の使いにくい場所に置かれている。補充したはずの洗剤が、気づくと別の棚に移されている。作業の段取りを組んでいると、直前になって川村さんから「そっちじゃなくてこっちから始めて」と変更が入る。
意図的なのかどうかは、わからない。ただ、そんなことが積み重なっていた。
ある朝、二階の廊下を担当していた田中さんと森さんが、予定より早く切り上げているのを見た。
「もうここ終わったんですか」
私が聞くと、田中さんが「だいたいでいいって言われたから」と答えた。
廊下の端を確認すると、窓際の埃がわずかに残っていた。雨の跡がガラスについたままだった。
私は黙って、自分のクロスを出した。
「何してるの」
田中さんの声が少し低くなった。
「気になったので」
「川村さんに言われてないでしょ、そこ」
「でも、ここ、テナントの人が毎日通る場所なので」
田中さんは黙って行ってしまった。
拭きながら、思った。ここは誰かの仕事場だ。私たちの職場でもある。小さな埃なんて、ほんのちょっとしたことだからだいたいでいいって気持ちはわかる。わかるけれども、それが度重なって誰もやらなくなれば、塵も積もるものだ。私はここを皆が快適に過ごせる場所にしたい。
でも、それを口に出すのはどうなんだろうと思って、クロスを動かし続けた。
休憩室に戻ると、森さんが立ったままお茶を飲んでいた。私が入ると、少し間があった。
「相澤さんさ」
森さんが言った。五十代で、口数が少ない人だ。川村さんの言うことにはいつも従うが、自分から誰かを責めることはない。その森さんが、珍しく続けた。
「こんな古いビルなのに、あなただけ燃えてて何になるの」
責めているわけじゃなかった。どちらかというと、疲れた人の本音だった。
私は少し考えてから、「そうですね」と言った。そうするしかなかった。
森さんはお茶を飲み干して、カップを洗った。
その言葉がしばらくこころに残った。
このビルが改修されたら、清掃の契約はどうなるのか。テナントが減ったら、シフトが変わるのか。川村さんも、田中さんも、森さんも、みんなそれを気にしている。それでいて、毎日来ている。
燃えていられるのは、まだ失うものが少ないからなのかもしれない。そう思うと、自分が大事にしているものとの間に、少しだけ温度差を感じた。
霧島さんが、私が提出した作業スケジュールに変更を加えてきたのは、その週のことだった。
担当フロアの一部が「改修準備エリア」として清掃対象から外され、代わりに業者の出入りが多い一階の管理が追加された。一階は人の出入りが多く、汚れ方が早い。しかも業者が資材を運ぶたびに、やり直しが生じる。
霧島さんからの指示は、川村さんを通じて来た。直接ではなかった。
私は黙って従った。進言できる立場にないのはわかっていた。ただ、やり直しのたびに、少しだけため息が混じった。
ある日の夕方、エレベーターホールで霧島さんと二人になった。
霧島さんは書類を持ったまま、エレベーターのボタンを押した。私はカートを脇に寄せて待った。しばらく、二人とも何も言わなかった。
扉が開いた。霧島さんが乗った。私はカートがあるので次を待つつもりだった。
でも、霧島さんが扉を押さえた。
「乗ってください」
私はカートを押して乗り込んだ。
扉が閉まった。
「一条さんが、あなたの意見をよく取り上げるようになっていますね」
霧島さんが前を見つめたまま言った。
私は「そんなことは」と言いかけた。
「いいとか悪いとかじゃなくて」霧島さんは続けた。
「現場の声を計画に入れることで、責任の所在が曖昧になる。それは言っておきたかった」
エレベーターが止まった。霧島さんが降りた。
私はそのまま扉が閉まるのを待った。
責任の所在。その言葉が、胸の中に落ちた。私は何かを間違えたのだろうか。
でも、霧島さんの言っていることが間違ってるとも思えなかった。
翌日、霧島さんと一条さんが廊下でなにか言い合っているのが、少し離れたところから見えた。
なにを言っているのかはわからなかった。でも、霧島さんの表情は、いつもと違った。あの整然とした表情が、少しだけ崩れていた。霧島さんが口を開くたびに、一条さんが短く返していた。やがて霧島さんが書類を持ち直して、歩いていった。一条さんはその場に残って、廊下の窓のほうをしばらく見ていた。
私はカートを押して、その場を離れた。見てはいけないものを見た気がした。
私のせいかもしれない、とふと思った。気になることを伝えただけのつもりだった。それがきっかけだったのなら。そう思うと、胸の奥が少し苦しくなった。
エレベーターに乗りながら、霧島さんの横顔を思い返した。何があったのかはわからない。ただ、霧島さんと一条さんは、長い時間をかけて築かれたビジネスパートナーのはずだ。その関係に、どこか揺らぎが見えた気がした。
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