メインコンテンツへスキップ
見出し画像

見えない場所でわたしが輝くということ⑲

    第19話(最終話)   新しいビルの朝

     新しいビルが完成したのは、契約から一年ほど経った秋だった。

     リノベーションされた一条ビルは、外壁が明るくなって、エントランスが広くなっていた。でも、骨格は同じだった。古い場所の記憶を残したまま化粧直しをしていた。


    ここへ来るまでに、いろんなことがあった。

     工事が始まる前には、上杉くんから連絡が来ていた。

     「最終日、川村さんたちと最後の清掃をしました。テナントの方々から差し入れや手紙がたくさん届いて。相澤さんにも見せたかったです」

     写真が何枚か添付されていた。清掃スタッフルームに並んだ紙袋と菓子折り、手書きのメモ。几帳面な字、走り書きの字、いろんな字があった。

    「いつもありがとうございました」

    「おかげで気持ちよく仕事ができました」

     私はその写真を、しばらく見ていた。

     上杉くんはまだあの会社にいた。この一年で見違えるほど動けるようになったと、現場で一緒になった知人から聞いていた。そして今回、新しいビルのチームへの異動を希望しているとも。
     「今度は最初から、一緒に立ち上げる側でやってみたい」と言っているらしかった。
     その言葉が、じんわりと嬉しかった。



     完成から間もない、まだテナントが入り始めたばかりの朝。

     誰もいないロビーに、私は立っていた。新しい床は傷一つなくて、光を反射していた。でも、よく見ると、搬入作業でついた小さな汚れが、端の方に残っていた。

     私は掃除道具をを取りに戻り、そこから始めた。
     誰も見ていない場所ほど、汚れはこびりつく。あのころの一条ビルで、はじめてそう思った。早朝のひと気のない廊下にモップをかけていた自分が、今の私に手を振っている気がした。掃除する手の感覚は同じだった。

     しばらくすると、後ろから靴音が聞こえてきた。振り返ると、霧島さんがいた。スーツではなく、作業着姿だった。

     「おはようございます」と私が言うと、「おはようございます」と霧島さんが返した。

     霧島さんは私の隣に来て、モップを動かし始めた。手つきはぎこちなかったけれども、丁寧だった。

     「フロアの奥から手前へ、U字を描くように動くと、戻り歩きが減ります」

     私が言うと、霧島さんは「なるほど」と言って、動き方を変えた。

     しばらく、二人でロビーを拭いた。会話は少なかった。でも、まだ距離感のあった出会った頃とは、少し違った。

     「相澤さん」
     霧島さんが、モップを動かしながら言った。

     「私、現場を知らなかったんだと思います。数字は見ていたけれど、ここで働く人の実態が見えてなかった」

     私は何も言わなかった。

     「あなたが見ていたものを、少しずつ教えてもらえますか」

     「はい」と私は答えた。
    「一緒にやりましょう」

     霧島さんが小さく頷いた。それだけでわかり合えた。



     廊下の奥から、人影が近づいてきた。一条さんだった。手にゴミ袋を持っていた。

     「おはようございます」

     「おはようございます」
     一条さんはゴミ袋を片手に、ロビーをゆっくり歩いた。床の隅に落ちていた小さなゴミを拾って、袋に入れた。それだけのことなのに、その所作が、この場所に自然に馴染んでいた。

     三人で、誰もいない朝のロビーにいた。
     特別なことは何もない。ただ、それぞれが手を動かしていた。
     モップが床を撫でる音が、新しいビルに静かに響いている。

     私たちの仕事は、いつも誰かの明日を担う今日だ。
     口元に微笑みを浮かべながら、私はモップを動かし続けた。


    __
    了
    #創作大賞2026 #お仕事小説部門
    #創26仕事
    ◀︎前の話はこちら

     
     
    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

    あなたへのおすすめ