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見えない場所でわたしが輝くということ⑯

    第16話 なぜ磨くのか

     マニュアルを作った。細かく、丁寧に。でも、マニュアル通りに指示しても、なぜか差が出た。技術じゃなくて、心構えの問題だと気づくのに、しばらく時間がかかった。

     どうやって磨くかじゃなくて、なぜ磨くのか、が伝わっていなかった。それからは、「やり方」よりも「在り方」を重点的に、理由を伝えながら指導するようにした。私も時間の許す限りスタッフと一緒に依頼元に出向いた。仕上がりをチェックし、依頼主に確認した。スタッフの目には私が細かいことに厳しい人だと映っただろう。わかってくれることを願いながら、辛抱強く続けた。


     方針を変えたのは、ある夜の懇親会も兼ねた勉強会がきっかけだった。

     スタッフ全員で集まって、最近あったことを話し合った。クレームの話、うまくいった話、困ったことの話。私は聴く側に回った。

     真由ちゃんが「最初、なんでこんなに細かくやるのかわからなかった」と言った。

    「でも、依頼人のお母さんが『ここがきれいになって、父が喜んでる』って言ってくれて、やっと意味がわかった気がした」

     私は「そう。それならよかったです」と言った。

    「技術は後からついてくる。まず、その感覚を大事にしてほしい」

     マニュアルで縛るのをやめた。代わりに、私の体験を通した創業理念を繰り返し話した。なぜこの仕事をするのか。なんのためにきれいにするのか。答えは人それぞれでいい。でも、自分なりの答えを持っていてほしい、と伝えた。
     一人でやるにしても、チームで動くにしても、必ずその向こうには人がいるってことを忘れないようにしたいという自戒も込めて。

     少しずつ、現場の空気が変わっていった。


     その年の暮れに、地元のフリーペーパーに取り上げられた。小さな記事だったが、問い合わせが増えた。大掃除の時期と重なって、予約がさらに埋まった。口コミサイトの評価も上がった。

     嬉しい。でも、正直に言うと、しんどかった。
     経営と現場と、家のことを同時にこなしていた。父の食事を作って、請求書を処理して、新しいスタッフの研修をして、現場にも入る。どれか一つでも手を抜くと、どこからか崩れる気がして、ずっと気が張っていた。

     ある夜、請求書の処理をしながら、気づいたら泣いていた。理由はわからなかった。疲れなのか、不安なのか、それとも別の何かなのか。ただ、涙がこぼれた。しばらくそのままにしていた。

     翌朝、真由ちゃんからメッセージが来た。

    「先日の現場、依頼人の方にとても喜んでもらえました。この仕事、続けてよかったです」

     それだけで、また動けた。私はなんて単純なんだろうと思った。でも、そんな自分を抱きしめてあげたくなった。


     年が明けて、この春、新しく入ったスタッフに、初めて現場を教えた日のことだ。

     二十代の女性で、前職を辞めたばかりだと言った。不安そうな顔をして、道具の持ち方から確認していた。
     私はトイレの隅を見せながら言った。

    「誰も見ない場所ほど、汚れは残るんですよね。だから、そこから始めましょう」

     彼女は「なぜですか」と聞いた。

    「見える場所なら誰でもきれいにするでしょう?誰も見てない汚れがこびりついた場所って、ずっと『助けて』って言えなかったところだから。そこを先にきれいにしてあげると、部屋全体の空気が変わるのよ。そうするとその後の掃除もラクになるしね」

     私は洗剤を含ませたスポンジで、汚れの境目を小さく円を描くようにこすっていった。
    こびりついた層が一枚、また一枚とはがれていくたびに、下から鈍い銀色が、少しずつ光を取り戻して顔を出す。

    「ほら、息できるようになってきた。」

    「ここを使う人の一日が、少しでも軽やかになればいいから」

     そう言いながら、かつての一条ビルを思い出した。早朝の誰もいない廊下で、無心にモップをかけていたわたし。あの頃の自分がいたから、今の私がここにいる。

     「その想いがある場所なら、きっとこれからの一日が、もっと素敵になりますね。丁寧に整えていきます。」
     彼女はこっくりと頷いて、ブラシを手に取った。

     なんだか、胸が熱くなった。
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    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

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