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見えない場所でわたしが輝くということ⑮

    第15話 指導する責任

     午前八時前、依頼先のビルの廊下にはまだ夜の冷気が残っていた。

     私はモップを片手に、三階のトイレに立っていた。床に残った水滴、鏡の拭きムラ、便器の縁の奥にうっすら残る水垢。どれも、一般の人なら「きれい」と思って通り過ぎる程度のものだ。けれど、私は無意識に息をのんだ。

    「これで『完了しました』って報告したの?」

     背後で気配が動き、若い新入スタッフの真由ちゃんがびくりと肩を揺らした。

    「はい……一応、全体は拭いて、消毒もして……」

     声は小さいが、反論の気配がある。昨日までは、こういうとき私は笑って自分でやり直していた。

    「じゃあ、ここに立って鏡を見てみて」

     私は一歩下がり、真由ちゃんを鏡の前に呼んだ。朝の弱い光が窓から差し込み、拭きムラがくっきりと浮かび上がる。

    「……あ」
     真由ちゃんの口から小さな声が漏れた。

    「お客様は、こういう角度で自分の顔を見るの。うちの名前が入った作業報告書を見て、この状態を『普通』だと思う?それで本当にいい?」

     言葉を選びながらも、私の声は思った以上に硬くなっていた。


     数ヶ月前まで、私は一人で現場を回っていた。自分で取ってきた仕事を、自分のやり方で、丁寧に仕上げる。そうして評判が広がり、この小さなビル管理会社からも声がかかるようになった。気づくと一週間、一カ月先まで予定が入っている。嬉しかった。でも、一人で回せる限界が見えていた。依頼を断るたびに、申し訳ない気持ちと、ほっとする気持ちが同時にあった。体がもたない、とわかっていたからだ。

     スタッフを誘い始めたのは、知り合いからだった。
     子育て中で、でも働きたいという女性が何人かいた。フルタイムは難しいが、午前中だけなら動ける。そういう人たちに声をかけた。最初は三人だった。

     教えること、部下を育てることが、こんなに難しいとは思いもしなかった。
     私がやれば自分のやり方でできる。人を雇う苦労も人件費もかからない。でも、自分だけがやり続けたら、会社にならない。頭ではわかっていた。でも現場で、新しいスタッフが手間取っているのを見ると、つい手と口を出してしまった。

    「こうした方が汚れは早くきれいに落ちるの」

    スタッフの表情が、少しずつこわばっていった。

     二ヶ月目に、一人が辞めた。「自分には合わなかった」とだけ言って、連絡が来なくなった。私のせいだと思った。でも、どうすればよかったのか、すぐにはわからなかった。私は頭を抱えた。


     品質のばらつきが出始めたのも、その頃だった。
     私が入った現場はリピートが続く。別のスタッフが入った現場からは、クレームが来た。

    「前の人と違う」

    「仕上がりが雑だった」

    依頼人の言葉は正直で、だからこそ容赦がない。

    もう私一人では回しきれなくなって、スタッフを雇ったのは、嬉しい悲鳴のはずだった。

     教えるときは、嫌な人だと思われたくなくて、また辞められたくなくて、つい言葉を飲み込んでいた。

    「まあ、次、気をつけてくれれば」

    「新人だから、最初はこんなもんだよね」

     そうやって自分でやり直し、仕上げてしまう。「厳しい社長」より「感じのいいお姉さん」でいた方が場も丸く収まる。

     けれど、現場が増えるにつれて、ひずみははっきりと見え始めた。報告書に「完了」と書かれていても、実際に見に行けば洗い残しか拭き残しがどこかに一つはある。「また相澤さんに頼みたい」と言ってくれる古いお客様ほど、最近は私ではなく部下が入る現場に不満を漏らすようになった。

    「相澤さんが来てくれてたときは、本当にピカピカだったんだけどねぇ」

     電話口でそう言われた日の夜、私は初めて、机に突っ伏してしばらく動けなかった。

    「私が、甘くしてた結果だ」


     真由ちゃんがバケツと新しいクロスを取りに走っていった。戻ってきたときの彼女の手つきは、いつもより少しだけぎこちない。

    「さっきの、どこがまずかったか、自分で説明してみて」

     私はモップを横に立てかけた。

    「えっと……鏡の拭き方が雑で、ムラになっていたのと……床の水滴も、そのままにしていて……」

    「どうして、それがだめなのかまで、言ってみて」

     真由ちゃんは言葉に詰まり、鏡を見つめた。数秒の沈黙が、トイレの狭さを物語る。

    「……お客様が見たときに、不安になるから、ですか。ちゃんと掃除されてないのかなって」

    「そう。トイレって、建物の『顔』みたいな場所。ここが曖昧な仕上がりだと、他も全部、雑なんじゃないかって思われる」

     言いながら、私は自分の胸の奥がひりひりしてくるのを感じていた。指導する言葉ほど、何気に自分自身に跳ね返ってくる。
     やり直すだけじゃなく、どうすればムラにならないかも教える。

    「クロスはこう折って、力の入れ方は……」

     自分一人だったら無意識でやっていた手の動きを、ゆっくりと確かめるように言語化していく。真由ちゃんは真剣な目でそれを見つめ、何度も同じ軌道をなぞろうとする。

     ふと気づくと、時間が予定よりも大きく押していた。

    「社長、今日この後、四件回るんですよね。大丈夫ですか」

     真由ちゃんが、おそるおそる時計を見る。

    「大丈夫じゃないよ。だから、あなたに覚えてもらわないと、私はこの会社を回せない」

     ややきつすぎたかもしれない言い方だと、自分でもちょっと思った。でも、真由ちゃんは意外にも、きゅっと口を結んでうなずいた。

    「……はい。覚えます」


     その日の夕方、私は事務所で、真由ちゃんの評価シートを前にペンを止めていた。書き込み欄には、いつもの癖で「明るく素直」「飲み込みが早い」といった言葉が並ぶ。だが、本当に書くべきなのはそこではない。
    「基準に届いていないのに『よくできました』と書いたら、何も変わらない」

     自分に向けて言い聞かせるように、ゆっくりとペンを走らせた。

    「清掃品質の基準に対する理解がまだ浅い。特にトイレ、洗面スペースについては、仕上がりに対する目線を上げる必要あり」

     紙に残った文字を見て、胸の奥がじくじくと痛む。甘く書いてあげた方が、きっと気持ちは楽だ。けれど、彼女の仕事には、会社の名前が乗る。自分一人の失敗で済んでいた頃とは、もう違う。

    「嫌われても、ここはちゃんと伝えないと」

     そう思った瞬間、自分が心のどこかで「好かれる経営者」でいたかったことに、はっきり気づく。それは、現場で一人踏ん張っていた頃より、ずっと楽で、同時に無責任なポジションだった。


     帰り支度をしていた真由ちゃんを呼び止め、私は一日の振り返りを始めた。

    「今日の三階のトイレ。あれを『大丈夫です』って送り出したら、あなたはきっと、あのレベルを『うちの標準』だと思ってしまう」

     真由ちゃんは、小さくうなずく。

    「私が厳しく言うのは、あなたを困らせたいからじゃない。どこに行っても『てのひら清掃のスタッフに頼めば安心ね』って言われる人になってほしいから」

    「……正直、怖かったです。怒られてるのかなって」

     真由ちゃんが、ぽつりと打ち明けた。

    「うん。怖がらせたと思う。ごめん。でも、あそこで曖昧に笑って流したら、多分あなたは、いつか別の現場に行ってもお客様に同じこと言われる」

    「『前の人の方がきれいだった』って、ですか」

    「そうかもしれない。私が言うのと、お客様に言われるのと、どっちがいい?」

     少しの沈黙のあと、真由ちゃんは苦笑いを浮かべた。
    「……社長に言われる方が、まだマシです」

     私は、その素直な言葉にほっとしながらも、自分の中に一本、細い芯が通るのを感じた。

    「じゃあ、これからも、言うよ。その代わり、できるようになったら、『もう任せられる』ってちゃんと言うから」

     部下を育てる厳しさは、嫌われる覚悟よりも、相手の未来を信じて責任を持つ覚悟なのだと、私はようやく腑に落ちた気がした。

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    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

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