
烙印 第11話「破滅の鐘が鳴る」
何故、二人の姿が階上へと消えたとき不安になったのだろう。追わなくても良かったはずだ。しかし、追ってしまった。重い、エイジの荷物を担いで。
遠くに行きそうだったからか。もう戻らないような気が、したからか。
安心して荷物番など出来なかった。この距離感はおかしいんじゃないのか。姿が見えないだけでこんなに不安になるなんて、ガキじゃあるめえし…。どうして、俺は。
だって俺は、ただのあいつの友達で、恋人でもなんでもねえ、第一、俺は、そんな趣味はねえはずだ。何が、恋人だ。何考えてやがる。
そんな思いが脳裏をよぎる。しかし、考える間もなく体が、動いていた。
今なら間に合うんだ、もうすぐ桜子さんのステージだ、荷物が重いんだったら、俺が全て背負うって言ってんだよ、早く。早くしないと間に合わねえ。二人は柱の陰にいる、何であんなところに。
連れ戻して、遅いと言って、あいつがまだ酒でふらつくようなら手ぇ、引いて…。やる事なんか決まっている。だが、あれはなんだ。
今、声をかけようとして…。俺は…。
なぜ聴いてしまったのだろう。何故、隠れてまで、耳を傾けたのだろう。聞くべきではなかった。エイジの声、エイジの叫びを。
会話の大半は聴き取れなかったが、意味は伝わった。そして、悟った。
マサは思う。エイジは、俺を拒んでいる。誰も巻き添えなんかに出来ない。降りて来るな。俺のところまで降りようとするなと、踏み込んだら許さないと、叫んでいた。
それは拒絶以外の何物でもなかった。髪をかきむしり、自分であることをひどく憎むように歯を食いしばるあの表情は一体何だ。そして、俺はエイジのあんな姿を見たことがない。
それなのに、ルイの前では見せるのか。ルイの前でだけ、取り乱していたというのか。普段自分に見せている、冷静沈着で、機転の利いて、優しくて、一緒に笑いあえる仲間としてのエイジの顔は、作り物だとでもいうのだろうか。
(俺が本当のエイジだと信じて一緒にいた人間は初めからいなかったのか。)
(なぜだ。)
(なぜそいつじゃなければならなかったんだ。)
(俺には整った姿以外、何も見せなかった。)
マサは愕然とする。こんなに近くにいたのに、俺は何もエイジをわかっていなかったと。
やがて、抑えられない震えが、足元から駆け上る。荷物を掴んでいた手が、外れる。力が抜けて、しっかりつかんでいられなかったのだ。
そして、その荷物はこの手を離れ、重力の法則通りに、どしゃりという音を立てた。ルイのいる柱を隔てた、この場所で。
ルイがその気配にふと驚いたように、振り向き、何のためらいもなく弾かれた様にエイジをかばい、その姿を隠そうとする。
何から守ろうとしている?
「なぜ来た。…聴いたのか。」
ルイの押し殺したような低音の声が、張り詰めた空気に伝播する。怒りではない。ただ守ろうとして敵を牽制している時の声だ。
エイジはマサの姿を見つめたまま、顔面から血の気を無くしていた。
聴かれた。一番見せたくない傷口を、覗かれた。
押し寄せるのは怒りより何より、全てが崩れていく恐怖だった。
そして、コンサート会場の熱気は最高潮に高まっていた。そして、その音楽が、風に乗ってここまで届いてくる。それは桜子の歌う、透明感のあるラブソングだった。緊迫した今の空気に不釣り合いなそれは、恋の喜びを歌っていた。
「あなたが生まれてきてくれた日、世界は光を産み落とし、その光は、何年もかけて私まで届いているの。愛しいあなたに触れるとき、私も光に触れている。生まれてきてくれて、ありがとう。あなたを愛せる、喜びだけで、私も、光になれる。」
そして、その歌詞に、頭を強く殴られた様に、顔を歪めるエイジは、ありありと苦悩の表情を浮かべて、マサを見つめて震えていた。
その目は明らかに、怯え、しかも、敵から目を離せない捕食される動物に似た眼差しだった。そんな顔をさせたのが自分だというのか。
マサはたじろぐ。そして、この三人には、暖かな日光は全く差してはいなかった。時は夕暮れだが、その光さえも分厚いコンクリートの屋根に遮られて、薄闇が三人を包んでいた。桜子の歌声は、冷ややかな廊下にさえも、
まるで別世界のもののように澄んでいた。
「生まれてきてくれて、ありがとう――」
その言葉が、
エイジの胸を鋭く抉る。
生まれてきてよかったと、
一度でも思えたことがあったか。
誰かにそう言われたことがあったか。
自分が生まれたことで、まともに愛し合うことで、目の前の
誰かが発光するように喜びに満ちたことがあったか。
――ない。
妻の美紀が俺を求めてきたとき、俺の体は反応できなかった。
愛したい気持ちはあった、だが、体が、俺を裏切った。そんな俺を、美紀は激しくなじって、非難した。
そして、失業し、金づるとしての機能すら果たせなくなった途端、俺を捨て、浮気相手の元へ、血のつながってもいない俺の息子を…連れて行った…。空っぽの部屋で俺は、引き裂かれる痛みに叫んだ…。
何も、誰も、護れなかった。
俺は、夫としても、父親としても、役割を果たせない男だと
あの日の俺は、はっきり認識してしまった。
優しかったあの美紀をそうさせたのは…俺だった。
まともに…まともに愛せる能力さえあれば
誰一人、失わなくて済んだんだ。
お前らも…いつか、俺を裏切るのか。
優しい顔を、しながら。
ああ…苦しい…頭が…割れる…!
エイジの顔が歪む。
鈍い痛みが、形を持ったかのように
喉の奥で息が詰まる。
その表情を、
マサは見てしまった。
怯えた目。
拒絶の目。
捕食される側の動物の目。
エイジは、自分を見て、あんな顔をした。今にも殺されそうな、獣のような顔を。
マサの胸が、締め付けられて悲鳴を上げた。
(俺が……エイジを、あんな顔にさせたのか。)
(俺は……エイジにとって“敵”なのか。)
ルイはエイジの前に立ち、
完全に庇う姿勢を崩さない。
その背中は、
エイジを守るためだけに存在していた。
マサは理解してしまう。
(ああ……俺じゃないんだ。)
(エイジが本音を見せるのは……
俺じゃない。)
(俺には……何も見せなかった。)
マサの胸の奥で、去来する、エイジの笑顔。
「次はきっと、大舞台に行けるぜ、マサ!おまえはきっと、大器晩成型なんだよ。」街頭に立っても誰も足を止めず、落ち込んだ時にかけてもらったエイジの励まし。
それが胸の奥で静かに崩れ落ちていく。剥離し、色褪せた古いフレスコ画のように、この現実が、色を無くしてゆく。
エイジは震えていた。思考は停止状態になっていた。
マサを見つめたまま、
逃げることもできず、
声も出せず、
ただわなわなと震えていた。
その震えが、まるで
マサには“拒絶”にしか見えなかった。
「……マサ、…来るな。」
やっとのことで絞り出したエイジの声は、
掠れていた。
それは拒絶ではなく、
恐怖が滲んだ声だった。
しかし、
マサにはそう聞こえなかった。
(来るな……?
俺に……来るなって……?)
呼吸が浅くなる。そして、足元が揺らぐ。必死で、言葉を紡ごうとする。
「……そういうことか。」
ひきつれた喉から発する声は、
マサ自身、自分でも驚くほど弱弱しい声だった。
エイジの視線が揺れる。
何か言おうとした。
しかし言葉にならない。
その沈黙が、
マサには“答え”に思えた。
(俺は……いらなかったんだ。)
遠ざかっていく自分自身を見るような分離した思いが、マサの胸を突き上げて来る。必要とされていなかった。俺が、エイジだと思っていたものが虚像だったように、俺自身もエイジにとっては、自分の欠乏を埋めるための単なる道具でしかなかったのではないか。
俺でなくても良かった。誰でも良かった。俺である必然性などどこにもなかった。しかし、そんなエイジにとって目の前のルイだけは違っていたのだ、ルイでなければならない必然を、生じさせていたのだ。
俺を置き去りにして。
叫びたかった。殴りたかった。襟首をつかんで、引き戻したかった。お前はこっち側なんだと、エイジに訴えて、認めさせたかった。
しかし出来ない。
エイジが…壊れるからだ。
壊したくなかった。
マサは、息も出来ずに、後ずさった。そして、走り去る。
それ以外出来る事は何もなかったのだった。
エイジの息遣いは、浅く、早かった。そして思う。
俺は、走り去るマサを追わなければならなかった、しかし出来なかった。
頭が、割れそうに痛くて…、俺は、マサになんて姿を見せたんだ。
マサは、何も悪くないのに。見せたくなかった、ルイの前でなら、どんなにみっともなくても構わねえ。そういう関係だからだよ。ルイは俺を受け止められる、どこか、他人ごとのようにな。俺はそれに甘えていたんだ、こいつなら壊れないって。
けど、お前、そうじゃないんだろう?気持ち悪いものなんか、視界にも入れたくないんだろう?わかってる、だから頑張ったよ、俺。役に立てるように、お前が嫌じゃないように。マサ。お前の、お前の前でだけは、俺は、輝いていたかった。お前の自慢の友達でいたかったんだ。それだけが俺の居場所だったんだ、頼む。嘘くせえ、優しいふりをする俺でもいいんだ、それが一生お前を欺く演技でも構わねえ、本当の俺なんかいらない、…偽物でいいから、俺なんか偽物でもいいから。
見捨てないでくれ!
「…ルイ…。助けてくれ…。マサに、嫌われ…。俺…、俺は…もう…。」
天井が歪んで見える。ぐしゃりと、灯りが潰れて見える。
甘いラブソングは終わり、破滅の鐘のようなピアノソロが、ステージから、鳴り響いていた。
次回、逃走したマサの行方、そして、未だ開かされざるマサの内面、秘められたる思慕が明らかに⁉待たれよ、更新!なおまとめ読みは上記リンクから!!更新は明日!!午後八時以降を予定!!
https://note.com/prime_lemur1632/n/n101d092de82e 第1話
https://note.com/prime_lemur1632/n/nffe878333923 第2話
https://note.com/prime_lemur1632/n/n70230ea1ca35 第3話
https://note.com/prime_lemur1632/n/n8673917ba9cf 第4話
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