
【実話】祖父は戦後、日本に帰らなかった|第9話「死んだ女の部屋で」
第9話:死んだ女の部屋で
その部屋に一年住んで、何も起きなかった。
起きなかったのは——誰も教えてくれなかったからだ。
教えられた日から、何かが始まった。
高邮に越してきたとき、祖母はその部屋に噂があることを知らなかった。 知らないまま荷物を解いて、子どもたちを寝かせて、 知らないまま眠った。 翌日も、その翌日も、何事もなく過ぎた。
一年ほど経ったころだった。 周囲の人間が、ぽつりぽつりと言い始めた。
最初に聞かされたのは、職場の同僚だった。
「老張、あの部屋に住んでるんだって? 怖くないか」
何のことかわからなくて、祖母は聞き返した。 すると男は、声を落として教えてくれた。 あの部屋で以前、妊婦が亡くなったのだと。 しかも、大きなベッドの下には小さな赤い靴が残されているのだと。
翌日、また別の人に聞かれた。
「老張、夜は眠れているか」
また翌日。また聞かれた。
「老張、本当に怖くないのか」
一人に聞かれるたびに、何かが祖母の中に積み重なっていった。 昼間は平気だった。日が暮れてからが、だめだった。
* * *
ある夜のことだった。
大雨が降っていた。 扉が活き板のようにぎいぎいと軋んで、今にも倒れてきそうだった。 祖母は布団の中で固まった。 それから、限界が来て、大声で叫んだ。
保衛の男が飛んできた。 扉を確かめて、周囲を見回して、こう言った。
「何でもない。ただの雨だ」
それから、にやりと笑って付け加えた。
「でも、明日子どもが一人いなくなっても——俺は知らんぞ」
その夜は眠れなかった。 子どもたちを両腕に抱いて、朝まで目を開けていた。
* * *
深夜、何かが耳元で吹いた。
しー、し——
子どもを連れて、厠へ行きなさい。
祖母は飛び起きた。 子どもの手を引いて、部屋を出た。 廊下は暗かった。 誰もいなかった。 風も吹いていなかった。
翌朝、入り口の伝達室にいる老爺爺が、祖母の顔を見て言った。
「ゆうべ、何かあったか」
祖母が話すと、老爺は静かに頷いた。 そして、低い声で言った。
「あんたたちは男の子が二人でよかった※。 以前あの部屋に住んでいた事務長夫婦はな、 夜中に寝ていたら、二人揃って 宙に浮いて床に叩きつけられたんだ」
※中国の民間信仰では、男の子は陽の気が強く、陰の気——霊気の濃い場所でそれを遠ざけると言われている。
祖母は何も言えなかった。
それ以来、午後になると部屋に入れなくなった。 三人で、伝達室の老爺爺のそばに寄り添って過ごした。 夕飯も、朝ごはんも、そこで食べた。
* * *
祖父が戻ってきた日、祖母は玄関先でこう言った。
「出ましょう。今すぐ」
「なぜだ」
「行ってから話します。とにかく行って」
祖父は理由を聞かなかった。
黙って荷物をまとめた。
また揚州へ戻った。
「本来は何もなかったのよ」と祖母は後年、笑って言う。「私ね、そういうことはあまり信じないほうなの。でもこれだけは、邪門だと思うわ」
祖母は少し間を置いた。
「知らない間は、一年何もなかった。知った途端に始まった。あの女の人はね、きっと私たちを困らせたくなかったのよ。ただ、みんなが言うから私が怖くなって——そうしたら、その怖さに引き寄せられてしまったのかもしれない」
笑いながら言うが、目は笑っていなかった。
揚州へ戻った二人を、また別の試練が待っていた。今度は幽霊ではない。もっと現実の、もっと冷たい話だった。「張栄才」という名前が、二人の運命を再び縛ろうとしていた。
【全話目次】
序章 ある夜、私は祖母に聞いた(本記事)
第1話 旗袍の女
第2話 戦争の中で、二人は出会った
第3話 名前を聞かれた日
第4話 あてもなく
第5話 どこにもいなかった
第6話 見つけた、その先で
第7話 最後の一足
第8話 苦い日々にも、火は消えなかった
第9話 死んだ女の部屋で
第10話 張栄才という名前
第11話 娘が、父を牢へ送った
第12話 拾われた命