
【実話】祖父は戦後、日本に帰らなかった|序章「ある夜、私は祖母に聞いた」
あらすじ
一九四三年、中国・泰州。日本軍に徴兵された二十三歳の青年・安田幸四郎は、酒精工場の警備として派遣され、上海帰りの中国人女性・秀英と出会う。言葉も国籍も違う二人は、周囲の人々に背中を押されるように、惹かれ合っていく。しかし日本の敗戦とともに、二人の試練が始まった。偽名「張栄才」を名乗り、捕縛、逃亡、再会——大きなお腹を抱えた妻が夜明け前から街を歩き続け、夫を探した日々。これは、戦後の中国を生き延びた日本人と、彼を愛し続けた中国人女性の、実話に基づく物語。そして、その孫が祖母の口述をもとに書き記した、七十年の記録である。
祖母は九十歳を超えてなお、毎朝、窓の外を眺める癖があった。 何を見ているのか、私はずっと聞けなかった。
「おばあちゃん、おじいちゃんはなんで日本に帰らなかったの?」
幼いころ、私はそう聞いたことがある。 祖母はしばらく黙って、それから小さく笑った。
「あのね、帰れなかったんじゃなくて——帰らなかったのよ」
その違いが、私にはわからなかった。 わかるようになったのは、ずっと後のことだ。
祖父の名は、安田幸四郎。秋田県生まれの日本人だ。 まだ二十二歳だった一九四三年、徴兵され、見知らぬ中国の土を踏んだ。 日本が負けた後も、祖父はそのまま中国に残った。 「張栄才」という偽名を名乗り、祖母とともに生き抜いた。
戦争が終わった後の方が、もっと怖かった——祖母はそう言う。 銃を持った兵士が夜中に扉を叩き、日本人だとわかれば命はない。 それでも二人は、逃げ続けた。隠れ続けた。生き続けた。
祖父は揚州を「自分の家」と呼んだ。 秋田よりも、そこが故郷だと言った。




これは、祖母の口から聞いた話だ。 彼女が二十歳だった年から始まる、七十年以上の物語。
戦争の中で出会い、敗戦の混乱の中で籍を入れ、 国籍も言葉も違う二人が、それでも生き延びた話だ。
笑える話もある。泣ける話もある。 「そんな時代があったのか」と、信じられないような話もある。
私がこれを書こうと思ったのは、祖父がもう死んでしまったからだ。 そして祖母も、老いていくからだ。
この話を知っているのは、今、祖母一人だけになってしまった。
「あの頃のことを話すとね」と祖母は言う。 「今でも心臓がドキドキするのよ」
九十歳を超えた女性が、そう言いながら胸に手を当てる。 その顔を見るたびに、私は思う。 この話を、書き残さなければならないと。
【全話目次】
序章 ある夜、私は祖母に聞いた(本記事)
第1話 旗袍の女
第2話 戦争の中で、二人は出会った
第3話 名前を聞かれた日
第4話 あてもなく
第5話 どこにもいなかった
第6話 見つけた、その先で
第7話 最後の一足
第8話 苦い日々にも、火は消えなかった
第9話 死んだ女の部屋で
第10話 張栄才という名前
第11話 娘が、父を牢へ送った
第12話 拾われた命
では、はじめましょう。
一九四三年、泰州の酒精工場から、この物語は始まる。