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【実話】祖父は戦後、日本に帰らなかった|第1話「旗袍の女」

    第1話:旗袍の女

    一九四三年の秋、泰州の工場には煤の匂いが染みついていた。
    その日、門をくぐった娘は、まだ二十歳だった。

    祖母の名は、王秀英という。

    姜堰で生まれ、戦火に追われて各地を転々とし、最終的に姜堰の実家へ戻ってきた娘だった。上海が爆撃されたとき、彼女は表姐の家に身を寄せていた。青浦に逃げ、また戻り、やがて姜堰へ——。それでも彼女の身には、上海仕込みの洗練が染みついていた。

    「田舎に帰っても、田んぼの仕事しかないでしょ」

    そう言って祖母は困った顔をする。私が話を聞いたのは、彼女が九十を超えたころのことだが、あのころの自分を語るときだけ、少女のような表情になった。

    そこへ、舅から話が舞い込んだ。泰州に、日本人が経営する酒精工場がある。そこで働く人を探しているという。舅はすでにその工場で働いており、「お前ならきっと気に入られる」と言った。

    *  *  *
    面接の日、祖母は旗袍を着ていった。

    上海から持ち帰った、紺地に細かな花柄の旗袍。 戦時中にそんなものを着ている女は、田舎にはほとんどいなかった。 工場の担当者は祖母を見るなり、 ぱっと顔を明るくしたという。

    「上海から帰ってきた娘さんですか」

    そうです、と祖母が答えると、 男はほとんど即決だった。 厨房の管理を任せたい、必要なものがあれば何でも言いなさい、と。面接というより、引き止めに近かった。

    こうして祖母は、その日から酒精工場で働くことになった。
    *  *  *

    工場の中は、奇妙なほどのんびりしていた。

    宁波から来た老人が毎日午後に茶を淹れる。揚州の地元の者が碁を打ち、上海帰りの女たちが笑いながら野菜を刻む。戦争の匂いは、工場の外で止まっているかのようだった。少なくとも、祖母にはそう見えた。

    事務所の入り口の柱のそばに、毎日同じ男が立っていた。

    軍服を着た日本兵だった。二十代前半、生真面目な顔。輪の外から、じっと中を見ている。中国語はほとんど話せない様子で、誰かが声をかけても黙って頷くばかりだった。時おり事務所の中を覗き込むように見ていた。

    祖母は最初、特に気にしなかった。工場には日本人が多い。その一人だろうと思っていた。

    だが工場の女たちは、違った。

    「あの兵隊さん、若いわねえ」 「秋田から来たんですって。秋田って、日本のどこ?」 「名前、安田幸四郎っていうんだって」

    世話好きな女たちは、いつのまにか二人を引き合わせた。幸四郎は誘われるままに輪の端に腰を下ろした。言葉は通じない。ただ、視線だけが、時おり祖母とぶつかった。

    そのたびに、幸四郎は目を逸らした。 二十二歳の軍人が、まるで子どものように。

    祖母はそれを見て、可笑しいと思った。 それが、二人の始まりだった。

    *  *  *
    後になって祖母は言った。

    「あの人がどんな人かなんて、最初はわからなかったわよ。 ただ、目を逸らすのが下手な人だと思ったの」

    それから少し間を置いて、付け加えた。

    「嘘をつけない人は、目を逸らすのが下手でしょ」

    【全話目次】
    序章 ある夜、私は祖母に聞いた(本記事)
    第1話 旗袍の女
    第2話 戦争の中で、二人は出会った
    第3話 名前を聞かれた日
    第4話 あてもなく
    第5話 どこにもいなかった
    第6話 見つけた、その先で
    第7話 最後の一足
    第8話 苦い日々にも、火は消えなかった
    第9話 死んだ女の部屋で
    第10話 張栄才という名前
    第11話 娘が、父を牢へ送った
    第12話 拾われた命

    次回、第2話:

    「戦争の中で、二人は出会った」


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