
【実話】祖父は戦後、日本に帰らなかった|第5話「どこにもいなかった」
第5話:どこにもいなかった
毎朝、四時か五時になると、号笛が鳴った。
その音が聞こえるたびに、祖母は布団を跳ね除けた。
ご飯を食べたかどうか、覚えていない。
祖父がいなくなった日から、祖母の時間の感覚は狂い始めた。
夜が明ける前から街へ出て、兵士たちが集まる場所へ向かった。 揚州の北のほうに大きな建物があり、軍人が大勢いた。 そこへ行けば、何かわかるかもしれない。 ただそれだけを頼りに、祖母は歩いた。
大きくなったお腹を抱えて。 一人で。 毎日。
国民党の兵士たちが、大きな隊列を組んで通り過ぎていく。 その波に飲み込まれそうになりながら、祖母は端に避けて、また歩いた。
怖かった、と祖母は言う。 でも、怖いと言っている暇もなかった、とも言う。
* * *
知人の紹介で、永勝街の小さな部屋に移った。 南河下にいては危ない、と言われたからだった。 そこを拠点にして、祖母は毎日探し続けた。
一日が終わるたびに、祖父は見つからなかった。 二日経っても。一週間経っても。
「生きているのか、死んでいるのか」
そのことを考えると、足が止まった。 だから考えないようにした。 ただ歩いた。ただ探した。それだけで、一ヶ月が過ぎた。
そうして一ヶ月が経ったころ、大王廟のあたりで、 毎日のように顔を合わせる男が声をかけてきた。
「あんた、毎日ここに来てるな。旦那を探してるのか」
「……はい」
「今日、ちょっと見せてやろう」
祖母は息をのんだ。
* * *
連れていかれた先に、宋先生がいた。
宋先生——かつて金条を独り占めにした、あの商人だった。 祖父のことを知っているというので面会しに行ったところ、 自分も捕まってしまったのだという。 檻の向こうから、宋先生が小声で言った。
「奥さん、旦那さんがここにいる。でも急いで——」
祖母は目の前の光景に、声が出なかった。
祖父が、鉄格子の向こうに座っていた。 手足に手錠をかけられ、顔が腫れ上がっていた。 身動きが取れない様子だった。 あの不器用で、草鞋を裏表に履いていた男が、 別人のように見えた。
目が合った。
祖父は何も言わなかった。
ただ、祖母を見た。
「南河下の方公館に、方婦人という人がいる。 その人に、すぐ金を持ってくるよう伝えてくれ」
宋先生の言葉を聞くなり、祖母は走った。 大きなお腹を抱えたまま、走った。
* * *
方婦人はすぐに動いてくれた。 金を持って、宋先生のもとへ向かった。 宋先生は毎日、小兵に煙草と茶を買い与え、金を渡し続けた。 一日、また一日と、時間を買うように。
そうして数ヶ月が経ったある日、 小兵が上の部隊へ報告を上げた。
「牢に二人、ずっと放置されてます。どうしますか」
ようやく二十五軍が動いた。 二人は引き出され、審問を受けた。
まず祖父の手が調べられた。
「この手は、兵士の手だ」
「違います。工場の労働者です」
「何の工場だ」
「酒精工場です」
次に宋先生が尋問された。 彼も同じように答えた——酒精工場の幹部だ、と。
「二人とも、酒精が造れるか」
「造れます」
それだけだった。 その一言で、二人は釈放された。
* * *
陽暦の一月一日、新年の朝のことだった。
扉が開いて、祖父が出てきた。
頭は乱れ、全身に垢がこびりついていた。 あの几帳面な軍人が、見る影もなかった。 それでも、立っていた。歩いていた。
祖母は何も言えなかった。 言葉が出てこなかった。 ただ、祖父の手を引いて、風呂屋へ連れていった。 湯に浸からせて、髪を切らせた。
「きれいになったら、やっぱりあの人だったわ」
祖母はそう言って、また目を細めた。
「よかった、って。それだけ思ったわよ」
* * *
あとから祖母は知った。 あの毎日部屋を訪ねてきた国民党の兵士—— 「欲しければどうぞ」と言ったあの男が、 祖父を助けるために動いてくれていたのだと。
茶壺一つの親切が、命を救った。
「やっぱり、いい人にはいいことがあるのよ」
祖母はそう言う。
私には、祖母自身がいい人だったのだと思う。
【全話目次】
序章 ある夜、私は祖母に聞いた(本記事)
第1話 旗袍の女
第2話 戦争の中で、二人は出会った
第3話 名前を聞かれた日
第4話 あてもなく
第5話 どこにもいなかった
第6話 見つけた、その先で
第7話 最後の一足
第8話 苦い日々にも、火は消えなかった
第9話 死んだ女の部屋で
第10話 張栄才という名前
第11話 娘が、父を牢へ送った
第12話 拾われた命