
【実話】祖父は戦後、日本に帰らなかった|第10話「張栄才という名前 」
第10話:張栄才という名前
揚州に戻ってから、祖父はもう逃げなかった。
この街が、自分の場所だと決めたように。
高邮を去り、また扬州へ戻った。 今度こそ、この街に根を張ることにした。 そう決めたわけではなかったかもしれない。 ただ、気がつけばそうなっていた。
祖父は扬州機械工場に職を得た。 組み立て工として、毎日工場へ通った。 不器用だったが、真面目だった。 覚えるのに時間はかかるが、一度覚えたら忘れなかった。 同僚たちは最初、この無口な男を遠巻きにしていた。 しかし月日が経つにつれ、誰もが当たり前のように 「老張」と呼ぶようになった。
張栄才。 あの夜、咄嗟に口から出た名前が、 この男の一生の名前になった。
* * *
子どもたちが大きくなった。 男の子が五人、女の子が二人。 七人の子どもたちは、揚州で育った。 日本人の父を持ちながら、中国語を話し、 中国の学校へ通い、中国の友人たちと大きくなった。
祖父は中国語が流暢にはならなかった。 最後まで、少しぎこちなかった。 それでも、誰とでも笑いながら話した。 言葉が足りない分を、笑顔で埋めた。 近所の人々はそんな祖父を、不思議と慕った。
「あの人ね、無口なのに、なんか憎めないのよ」
祖母は笑う。
「損な顔をしてないの。得な顔っていうのかしら」
* * *
中日国交が正常化されたのは、一九七二年のことだった。 祖父が中国に渡ってから、三十年近くが経っていた。
祖母は日本へ行った。 秋田を訪ねた。祖父の故郷を、自分の目で見たかった。 しかし祖父は、行かなかった。
故郷に残っていた最後の肉親——姉が亡くなったとき、 祖父はしばらく黙っていた。 それから静かに言った。
「もう、向こうには誰もいない」
寂しそうには見えなかった、と祖母は言う。 むしろ、どこか決まったような顔をしていた。 自分の居場所が、はっきりした瞬間のような。
* * *
晩年、祖父は扬州中日友好会館の顧問を務めた。 かつて敵国の兵士として渡ってきた男が、 今度は両国の橋渡し役として、同じ街に立っていた。
祖父は求められるままに、語った。
泰州の酒精工場のこと。 敗戦の混乱の中で逃げ回ったこと。 妻が大きなお腹で毎朝街を歩いていたこと。 草鞋を裏表に履いて畑に出たこと。
「あの人ね、話すのが好きじゃなかったのよ、普段は」
祖母は言う。
「でも、あの頃のことだけは、ちゃんと話してたわ。 忘れてはいけないと思ってたんじゃないかしら」
扬州の街を散歩するのが好きだった。近所の人々と話すのが好きだった。
「扬州が、私の故郷だ。秋田よりも」
祖父はそう言った。祖母はその言葉を、今でも覚えている。
* * *
戦争を生き延びた。 牢を出た。逃亡した。再会した。 地雷の道を子どもを背負って歩いた。 鬼屋から逃げた。 貧しさの中で、それでも笑った。
そうして穏やかな晩年を迎えたとき、 祖父はまさか思わなかっただろう。
あの鉄格子の中に、
もう一度、戻ることになるとは。
しかも——自分の娘のせいで。
【全話目次】
序章 ある夜、私は祖母に聞いた(本記事)
第1話 旗袍の女
第2話 戦争の中で、二人は出会った
第3話 名前を聞かれた日
第4話 あてもなく
第5話 どこにもいなかった
第6話 見つけた、その先で
第7話 最後の一足
第8話 苦い日々にも、火は消えなかった
第9話 死んだ女の部屋で
第10話 張栄才という名前
第11話 娘が、父を牢へ送った
第12話 拾われた命