
【実話】祖父は戦後、日本に帰らなかった|第3話「名前を聞かれた日」
第3話:名前を聞かれた日
夜中に扉を叩く音がした。 銃を持った兵士が二人、闇の中に立っていた。 祖母は咄嗟に、夫の前に立った。
日本が降伏した。しかしそれは、平和の始まりではなかった。
扬州の街では、国民党と共産党が入り乱れ、昨日の味方が今日の敵になる。日本人を見れば捕まえろという声があり、スパイの疑いで連行される者も珍しくなかった。日本兵として中国に来た幸四郎にとって、戦後の街は戦中よりも危険だったかもしれない。
二人は揚州の小さな部屋に、身を潜めるようにして暮らしていた。
幸四郎は外に出るたびに、中国人の服を着た。言葉が喋れないから、なるべく口を開かないようにした。それでも、どこかぎこちない。生まれも育ちも違う体が、隠しきれずにどこかへ滲み出る。
「あの頃はね」と祖母は言う。「毎晩、怖かったわ。いつ誰が来るかわからないから」
* * *
ある夜、真夜中すぎのことだった。
扉を激しく叩く音で、二人は飛び起きた。幸四郎はすでに起きていた。二人の目が合った。何も言わなかった。
祖母が扉を開けると、銃を持った兵士が二人、闇の中に立っていた。共産党の兵士だった。目が鋭く、声が低かった。
「そこの男、どこの人間だ」
幸四郎は中国語がわからない。何を聞かれているのかさえ、わからない。ただ、空気の険しさだけは感じ取って、まっすぐ前を向いて立っていた。
秀英は体を祖父の前に滑り込ませた。そして、できる限り落ち着いた声で答えた。
「台湾の人です」
兵士の目が細くなった。
「嘘をつくな」
ぱん、と鋭い音がした。秀英の頬に平手打ちが飛んだ。
「お前に聞いてるんじゃない!」
よろけた。膝が震えた。それでも秀英は、倒れなかった。体を起こして、また幸四郎の前に立った。
「姓は何だ」
「……張、です」
「名前は」
「張……栄才」
その名前は、どこから来たのか。あとで聞いても、祖母は首を振るだけだった。
「あの瞬間、頭の中で何かひらめいたの。意味なんかなかったわ。ただ、口から出た」
張栄才。それが、幸四郎がこの国で生きるための、もう一つの名前になった。
* * *
兵士たちは部屋を荒らした。箱を開け、荷物をひっくり返した。そして、一つの人形を取り出した。
日本の小さな人形だった。幸四郎が持ち込んだ、故郷の品だった。
「これは何だ。スパイの道具か」
二人は銃に追われるように、第一招待所へ連行された。通された先は、薪を積んだ暗い小部屋だった。
秀英は一晩中、泣いた。
幸四郎は薪の上に横になって、じっと天井を見ていた。二人の間に、言葉はなかった。言葉がなくても、幸四郎の手が、夜の間ずっと秀英の手を握っていた。
* * *
夜明け前、扉が静かにノックされた。
十代に見える若い兵士だった。交代の時間が来たのか、小声で話しかけてきた。
「おい。一日中泣いてたな。揚州に知り合いはいないのか」
秀英は首を振った。それから、思い出したように言った。
「……南河下に、一人だけ」
「場所を書け」
震える手で、住所を書いた。兵士はそれを受け取って、暗闇の中に消えた。
翌朝、二人は釈放された。理由も説明もなかった。ただ、「帰っていい」とだけ言われた。
「今でも、あの子のことを思い出すのよ」と祖母は言う。「名前も知らないけれど。あの子がいなかったら、どうなっていたか」
外に出た幸四郎は、深く息を吸った。
空は白んでいた。揚州の朝が、静かに始まっていた。
その日から、彼の名前は張栄才になった。
* * *
私はこの話を聞くたびに、あの若い兵士のことを考える。
名前も知らない。顔も知らない。でも、あの夜、誰かが動いてくれなければ、私はこの世界に生まれていなかった。
祖母の頬を打った手と、住所を書かせた手は、同じ時代の中にあった。その時代を、二人は生き延びた。
【全話目次】
序章 ある夜、私は祖母に聞いた(本記事)
第1話 旗袍の女
第2話 戦争の中で、二人は出会った
第3話 名前を聞かれた日
第4話 あてもなく
第5話 どこにもいなかった
第6話 見つけた、その先で
第7話 最後の一足
第8話 苦い日々にも、火は消えなかった
第9話 死んだ女の部屋で
第10話 張栄才という名前
第11話 娘が、父を牢へ送った
第12話 拾われた命