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本能寺の変1582 【光秀という男】 結論 23/x №6-097 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【光秀という男】 結論 23/x    №6-097

    はじめに ←目次 重要 ◎目次 【記事一覧】 
    ←【五大要因】
     
    1時代の風潮 2光秀の実像 3光秀の苦悩 4武田の滅亡 5信長の油断
    ←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
    ←【重要コメント】 001 002
     【信長という男】
     
    目次 1/5 目  2/5 目  3/5 目  4/5 目  5/5 目
     結論 目
     【重史052】 【重史146】 【重史169】
     【光秀という男】
     
    目次 1/7 目  2/7 目  3/7 目  4/7 目  5/7 目  6/7 目  7/7 目
     結論 目 1~4/x 目 5~8/x 目 9~14/x 目 15~17/x 目 18~19/x 目
          20~21/x 目 22~25/x 目
     1/x 目 2/x 目 3/x 目 4/x 目 5/x 目 6/x 目 7/x 目 8/x 目 9/x 目
     10/x 目 11/x 目 12/x 目 13/x 目 14/x 目 15/x 目 16/x 目 17/x 目
     18/x 目 19/x 目 20/x 目 21/x 目 22/x 目 23/x 目 24/x 目 25/x 目
     【重史241】 1/2 2/2 【重史001】 【重史101】 【重史006】
     【重史007】 【重史008】 【重史098】 【重史172】 【重史173】
     【重史181】 【重史190】 【重史174】
     【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
     【さらなる夢】
     
    概略 20/x
     関連史料 1京都馬揃え 2ヴァリニャーノ来訪 3安土夜祭り
          4スペインの野望 5信長の「さらなる夢」 6光秀の思い
     
    【重史140】 【重史141】 【重史142】
     【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
     【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3 【重史040】 【重史041】
     【時は今・・・】 目次
     0521 目 0526 目  0527 目  0528 目 0529 目
    →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
    →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     3光秀と光慶  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】
     【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正

    【光秀という男】 結論 23/x             №6-097

    結論 目  1~4/x   目 変の一因
          5~8/x   目 京都馬揃え
          9~14/x 目 ヴァリニャーノ来訪
        15~17/x 目 安土夜祭り
        18~19/x 目 スペインの野望
        20~21/x 目 信長の「さらなる夢」
        22~25/x 目 逆風

    天正九年1581、後半。
    三好康長から、讒言があったらしい。     →【重史181】「元親記」
    おそらく、その様な事があったのだろう。【四国問題】 八 九 十 目次
    「或る人」とは、康長のこと。    
    元親との関係を考えれば、当然、そうなる。

      然る処に、其の後、
      元親儀を、信長卿へ、
      或る人、さゝへ(妨害)申す、と聞き及び有り申す処に、
     
    三好康長は、阿波三好家の元重臣。             →【人物】
    当主は、三好義賢(実休=永禄五年1562没)。         →【人物】
    三好長慶(大永二年1522~永禄七年1564)の次弟である。    →【人物】
    康長は、彼ら二人の叔父にあたる。

    天正三年1575 、康長は信長に降った。
    この時、仲介したのが松井友閑。             →【人物】
    したがって、友閑とは太いパイプで繋がっている。
    山城守。
    河内の半国守護。
    入道して、笑厳(笑岩)を号す。

     →【重史182】②三好笑岩(康長)楯籠る高屋へ取り懸け、『信長公記』
      【重史183】①同卯月十二日朝、友閑 長谷川宗仁「天王寺屋会記」
      【重史184】②友閑を以て、御侘言、御赦免候ひしなり。『信長公記』

    信長は、この康長を四国政策に利用しようとしていた。   →そ第11⑩01
    四国、四ヶ国。
    その北東端が阿波。

    三好は、阿波の名家・名門。
    信長は、その名を利用しようとしていた。
    今に始まったことにあらず。
    信長は、そのつもりで康長を赦免したのである。

    そして、その時が来た。
    康長の願いは、同家の再興。
    「元親記」には、信長が康長の言を聞き入れた、とある。

      元親事、
      西国に並びなき弓取り、と申す、
      今の分に、切伐に於いては、連々、天下のあだにも罷り成るべし、
      阿州・讃州さへ、手に入れ申し候はゞ、
      淡州などへ手遣い仕るべき事、
      程は、御座有るまじきと申上、と云々、
                                (「元親記」)

    が、・・・・・。

    本願寺、退城。                    →そ第7話⑦
    これで、状況が変わった。

    信長は、先ず、足元を固めた。

     天正八年1580
     八月  本願寺、退城。                『信長公記』
     〃   信長、大和破城命令。            「多聞院日記」
     〃   信長、佐久間信盛を粛清。           『信長公記』
         畿内軍を解体する。
     九月  信長、大和指出命令。            「多聞院日記」 
     十月  光秀、指出の不正者を成敗。         「多聞院日記」
     十一月 家康、高天神城包囲。  
     十二月 元親、信長に伊予鶏献上。         「土佐国蠧簡集」  

    士気、きわめて軒昂。
    いよいよ、西国へ。
    正に、その様なタイミングだった、のである。

    そして、動き出した。
    それが、四国だった。


     天正九年1581
     二月  信長、京都馬揃え。              『信長公記』
     三月  信長、和泉検地。               『信長公記』
     〃   信長、三好康長を阿波へ派す。       「讃岐国大日記」
     〃   家康、高天神城を落とす。           『信長公記』
     〃   武田勝頼、これを救援できず(弱体化)。     『信長公記』
         家臣らの信望を失うことになる。
     五月  信長、指出の不正により、和泉槇尾寺を焼払う。 『信長公記』
     六月  秀吉、鳥取城包囲。              『信長公記』
     八月  信長、安土馬揃え。              『信長公記』
     〃   光秀、中国出陣の準備をして待機。       『信長公記』
     
    信長は、状況の変化に速やかに対応した。
    本願寺の退城から、西国攻めへ。
    これが、三好康長の起用へと繋がった。

    長宗我部元親は、これに反応できず。           →【人物】
    歩みが、遅いのである。

    四国制覇は、未だ、道半ば。
    結局は、時間切れ=間に合わず。
    取り残された。

    「元親記」は、信長が、約束を違えたと言っている。
    だが、それは、筋違いというもの。
       
      信長卿、實(げ)にも(=その通り)とや、思(おぼ)しけん、
      其の後、御朱印の面、御違却有りて、

    土佐は、僻遠の彼方。       →ポ02② 本能寺への道 そ第78話⑨
    したがって、そこには、情報の受け止め方等に、微妙な温度差のようなものが生ずる。
    ズレのようなもの。
    どうにもならぬ問題。
    全ては、元親次第である。

    元親は、生まれて来るのが遅すぎた。           →【人物】
    信長、天文三年1534の生れ。
    元親、天文八年1539の生れ。
    その差は、五年。
    これは、大きい。
    残念である。 
     
    信長には、十分な余裕があった。
    西国攻めの準備は、すでに、出来上がっていた。

    信長は、目的意識の強い男。
             →【信長という男】 目次
    「人間五十年」                    →【重史169】
    先を急いでいた。
    「天下布武」
    大きく、前進した。

    そして、その先には、
    信長の「さらなる夢」が・・・・・。

    信長は、水軍が必要だった。
    すなわち、瀬戸内海の制海権確保。
    そのための、四国北部=阿波・讃岐・伊予なのである。

    ところが、歩調が合わず。
    元親は、信長のスピードに、ついて行くことが出来なかった。
    阿波統一が、本願寺の降伏(天正八年1580 閏三月)前に、成立していれば、
    済んだ話である。

    元親は、見通しを誤った。
    先を見る目が甘すぎた。
    これすなわち、「油断」。
    「己の問題」、である。

    それだけのこと。

    したがって、信長の「違却」などではない。

    「元親記」は、元親の死後、その功績を顕彰するために、旧臣の手により
    書かれた軍記物。

    江戸時代初期の作という。 
    元親に仕えた家臣が、主君のことを悪し様に書くはずはない。
    そのことを念頭に、ある程度、割引いて、参考にすべきである。
    創作・脚色が少なく、優れた史料とされている。

    となれば、・・・・・。
    信長としては、当然、「己の手で」ということになる。
     
    信長にとって、元親の重要度は、大きく減少していた。

    あの時(天正六年1578)とは、大違いである。
     
     →【重史180】「元親記」
        ③則ち、信と云う御字を給わる、
        ⑥四国の儀は、元親、手柄次第に、切り取り候へと、

    信長は、元親の領地を土佐一国と阿波南半国に定めた。
    土佐+阿波南半国。
    これまでの事を配慮(+分)したわけである。

      予州・讃州、上表申し、阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべしと、
      仰せられたり、
                                (「元親記」)
    だが、しかし、・・・・・。



     ⇒ 次へつづく




     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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