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本能寺の変1582 【重史008】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史008】

    「イエズス会日本年報」『日本史』

    はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
    ←【五大要因】  中  小
    ←1 時代の風潮 1戦国時代=相互不信の時代
             2美濃
             3尾張
    ←2 光秀の実像 1信長という男
             2光秀という男
             3光秀と光慶  1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
             4先祖の教訓
             5大量殺戮
             6信長の弱点
    ←3 光秀の苦悩 1粛清の怖れ
             2志向の相違
             3光秀の老い
             4四国問題
             5自立への道
    ←4 武田の滅亡 1甲斐遠征
             2勝頼の首
             3武田効果
    ←5 信長の油断 「事態急変」
             1 勝利の余韻 4月21日 24日
             2 四国出陣
             3 足蹴事件
             4 中国出陣
             5 時は今、・・・・・。
    ←さる程に、不慮の題目出来候て、
    ←【注目ポイント】 目次
    ←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
    ←【人物】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
    *加筆修正 250510 251023 

    【重史008】

    ①一大艦隊を編成してシナを征服し、   「イエズス会日本年報」

    ②一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、   『日本史』


     世界は、大航海時代であった。
     当時、イエズス会は、積極的に、中国=明(1368~1644)へ、
     布教を拡大しようとしていた。
     背景には、ポルトガルの野望があった。

     信長の目は、海外を見ていた。
     信長は、フロイスら、イエズス会の宣教師たちから大きな刺激を受けた。
     激動する世界の情勢等々。
     様々な知識を得た。
     そして、覚醒。
     「明」
     信長の思いは、東シナ海の向こう側にあった。

     信長には、「さらなる夢」があった。
     フロイスは、このことを確りと書き留めている (①~②) 。

     ①「イエズス会日本年報」
     天正十年十月二十日。
     フロイスは、信長の死について、イエズス会総会長へ報告した。
     次は、その中の一文である。

      信長は自ら行くことに決し、都に来り、
      同所より堺に赴くこととし、

      毛利を征服して、
      日本六十六ヵ国の領主となった後、
      一大艦隊を編成してシナを征服し、
      諸国をその子達に分ち与へんと計画した。

     ②『日本史』
     こちらは、その後年に書かれたものである。

      信長は、事実行なわれたように、都に赴くことを決め、
      同所から堺に前進し、

      毛利を平定し、
      日本六十六ヵ国の絶対君主になった暁には、
      一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、
      諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。

     これが信長の志向である。
     信長は、中国を征服し、・・・・・。
     日本国内は、子供たちに分け与えるつもりだった。

     ①「シナを征服し」「諸国をその子達に分ち与へんと計画」
     ②「シナを武力で征服し」「諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」
     と、ある。 

     だが、結局、本能寺の変により、それは潰えた。

     信長の拡大政策は、止まず。
     信長は、フロイスと頻繁に会っていた。
     その場所に、光秀が居合わせたかどうか定かではない。
     しかし、耳には入っていただろう。

     また、フロイスは、光秀について、かなり詳しい人物評を書き残して
     いる。                  →【重史001】『日本史』
     身近で、観察していた証拠である。
     複数回、同席していたものと思う。

     光秀は、信長の「さらなる夢」を知っていた。
     光秀は、織田家の出世頭。
     万事につき、抜かりのない人物だった。
     信長との意思疎通を絶やさず、信長に関するあらゆる情報を、貪欲に収集
     していたものと思う。
     そのための、ネットワークのようなものがあったのではなかろうか。

     信長にとって、光秀は重宝な存在。
     「以心伝心」
     打てば、響く。
     それ故、これまで、坂本から、手放さなかった。
     安土には、屋敷もあった。

     光秀の坂本城は、安土城の対岸にある。
     琵琶湖を挟んで、直線でおよそ26㎞。
     間に、遮るものは何もない。
     当時は、視認できたのかもしれない。
     きわめて近い位置にあった。
     舟を利用して、「早く」、「楽に」、往来することができた。
     出仕するのも、容易だっただろう。

     安土には、光秀の妹 妻木氏がいた。
     女房衆として、信長の側に仕えていた。。
     光秀にとっては、有力な情報源である。

    【参照】【重史006】 ◎第8話
      (四月)十八日、妻木惟向州妹、参宮、      天正07 157900418  
      (九月)廿五日、惟任姉(妹)妻木、在京の間、罷り  天正07 157900925
                                「兼見卿記」

     その妻木氏が、亡くなった。
     「情報途絶」
     光秀は、大きな打撃をうけた。
     これでは、信長のことが、よくわからない。
     前年のことである。

    【参照】【重史007】 ◎第8話           天正09 158100821
      
    ①惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
      ②向州、比類なく、力を落とすなり、
                               「多聞院日記」


     【引用】【四国問題】 天正十年1582 五月十二日
         4 光秀の苦悩 2志向の相違 ◎第8話 ◎小8 第8話


     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582

     【参照】【四国問題 概要】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582




     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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