
現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長 「歸蝶の戦国記」前書き・目次・後書き
あらすじ
桶狭間の合戦は信長が仕掛けた戦い。濃姫は帰蝶ではなく胡蝶。斎藤道三は信長が可愛かった。美濃攻略に7年かかった理由。天下布武の本来の意味は足利幕府再興。乱世の梟雄・松永久秀は冤罪。信長は上洛後も外様大名。一向一揆は農民や寺社による反乱ではなく武田信玄の軍事同盟。浅井長政謀反の原因は商人たちの裁定取引。延暦寺は信長の兵站を切る楔。足利義昭が信長を捨てて武田信玄に乗り換えた。捨てられた信長が目指したのは太政大臣。組織運営に失敗した信長。信長は追放した佐久間信盛の死に気落ちした。
研究が進んで近年大きくイメージを変える戦国史。更に現代の経営戦略の視点から古文書・史書を引用しつつ信長の戦略を再考する、濃姫視点から描く歴史小説。
なお、現在も史料を調査中。下にある改定記録を参照してください。
最新の古文書追加は2026年6月10日(1通/追加文献合計46通)
第7章・第4節
『佐久間信盛書状』
(11月21日でもまだ公方様=足利義昭との関係は維持されている。
『年代記抄節』の異見十七条九月説はやはり間違いと推定する)
改訂記録・古文書類の追加記録
2026年5月27日・改訂 今回 1通 合計45通追加
第7章・第3節 大日本史料第十一編之二十六 p488
『比叡山大講堂造立縁起〔華頂要略附録〕』 小規模説が正しそう。
(時の権力者であり、焼き討ちを実行した豊臣秀吉も見る文章。
被害者面したり嘘や誇大表現ができない。つまり正確な表現と推測)
2026年5月14日・改訂 今回 6通 合計44通追加
第4章・第3節
『快川紹喜書状』追記
(尾張の犬山城の落城に激しく落胆する・信長を嫌う快川紹喜)
第4章・第4節
『立政寺文書』安藤守就(無用斎)の禁制(2月7日)・追記
『汾陽寺文書』長井隼人佐の禁制(2月17日)・追記
『快川紹喜書状』稲葉城奪取に激怒の快川紹喜(2月21日)・原文追記
『敬念寺文書』竹中半兵衛の禁制(7月29日)・追記
『崇福寺文書』信玄から龍興の側近長井隼人佐へ(10月4日)・追記
(2月に稲葉山城奪取。7月末までは籠城確定。10月初までに開城)
2026年5月5日・改訂 今回 4通 合計38通追加
第2章・第1節
『長井玄佐書状』原文追記・誤字修正
(道三の子・義龍を狙う長井玄佐の書。義龍の子・龍興は長井家に?)
第4章・第1節
『快川紹喜書状』追記
(義龍の死を天罰と記す・義龍を嫌う快川紹喜)
第4章・第2節
『長井文書』原文追記・日付修正
『武田神社文書』斎藤龍興が信玄との同盟について記載・追記
(斎藤龍興と武田信玄を快川紹喜が仲介。長井隼人佐は龍興の側近)
2026年4月22日・改訂 今回6通 合計34通追加
第5章・第3節
『上杉家文書』上杉との養子縁組交渉に成功・追記
(信長の目指した姿は濃尾の平穏。でも結局は実現せず)
第5章・第6節
『大本坊堯慶支證状』郷切の不満か?弘治四年1558年
『正親町天皇綸旨案』追記
(上洛時の信長軍は整然としていた。正親町天皇の綸旨)
『新保秀種·智光院頼慶連署状 伊佐早文書』信長上洛には義昭随伴必要
(「中島文書」第一次上洛戦で、龍興は公儀御無與を理由に攻撃した。
だから信長は最初から公儀随伴を条件に。義昭の美濃動座が必要に)
『足利義秋御内書写 謙信公御書集』義昭、美濃動座を上杉謙信に伝える
(義昭動座に際し、朝倉義景は問題無しと言っているが、・・・。)
第7章・第6節 本文加筆
『小川文書』斎藤龍興討ち取りの報告・追記
(信長の側室の実家、生駒家に報告されている)
2026年4月15日・改訂 今回7通 合計28通追加
第7章・第2節
『榊原家所蔵文書』武田信玄書状・一色藤長買収・追記
(信玄は足利義栄が死んだ為、義昭に乗り換え、幕府の主導権を狙う)
第7章・第4節
『安養寺文書』信玄書状・北近江の安養寺(本願寺系)・追記
『鷲見榮造氏所蔵文書』信玄書状・東美濃の遠藤加賀守調略・追記
『鷲見榮造氏所蔵文書』信玄書状・遠藤加賀守に調略完了の返事・追記
(信玄は信長には甲越和与を言いながら、
本願寺と申し合せて東美濃の遠藤加賀守を調略)
『徳川黎明會所蔵文書』信玄書状・朝倉義景との挟撃作戦の確認・追記
『伊能家文書』信玄書状・朝倉義景に
「信長滅亡のチャンスに、なんで撤退するねん!」・追記
(信玄は打合せ通り動かなかった朝倉義景に激怒する)
『足利義昭御内書寫』一色藤長の催促で武田に付き、信長を切る・追記
(信玄に買収された藤長の言葉に従い、信長を切り、信玄につく義昭)
第7章・第5節
細川家記の記載に「讒言した上野」に解説追加
第4章・第6節
中島文書の解釈図を追加
2026年4月10日・改訂 今回7通 合計21通追加
第4章・第5節
『東浅井郡史 巻2』リンクから該当箇所抜粋に差替え
『大覚寺義俊覚写』追記
(松永久秀は永禄の変を止めようとした。その後の上洛に向けた動き)
第4章・第6節 本文修正
『信長書状』第一次上洛は信長は何度も説得される。朝倉に配慮・追記
『足利義秋御内書』2通。濃尾無事は義昭手配・追記
『中島文書』信長公記には無い河野島の戦いとその考察・追記
『足利義秋御内書』河野島の戦いについての義昭の認識・追記
(第一次上洛戦は信長は嫌々ながら上洛了承。武田信玄の策略で失敗)
2026年4月 5日・改訂 今回11通 合計14通追加
第2章・第5節 『戦国武将書翰集』斎藤道三の書状・追記
『浅井文書』斎藤道三書状と『国譲り状』・追記
(信長を気遣う道三の書状と国譲り状。道三は信長が可愛い)
第3章・第4節
『道三書状』と『義龍書状』・書状差替え
『大雲院文書』織田信長・隠れ里の書状・追記
『斎藤文書』范可名義の書状(長良川の戦いより前)・追記
『美江寺文書』范可名義の禁制(長良川の戦いより前)・追記
『常在寺文書』義龍名義の禁制(長良川の戦い直前か)・追記
『東高木文書』高政名義の書状(郷切による所領安堵狀)・追記
『中村林一氏所蔵文書』信長書状(郷切の言葉がある)・追記
(長良川の戦い前に范可から義龍に。明らかに信長公記の創作or誤り)
2026年4月 2日・改訂 今回2通 合計3通追加
第2章・第1節
『六角承禎条書』同時代の史料・追記
『汾陽寺文書』(後年に追記と推測。間違いの元だった?)・追記
(”道三が還俗した僧から下剋上”と誤解された原因と修正された根拠)
2026年3月18日・改訂 今回1通
第7章・第1節『東大寺史料』(撰銭令の混乱を記す?)・追記
前書き
ビジネス戦略を歴史にからめて解説される記事は少なくありません。もともとは同じように経営戦略、特にベンチャーやスタートアップ戦略に必要なトピックスを解説するために、織田信長のエピソードを関連付けようと考えて創作を始めました。(発想は安直)
でも経営戦略のトピックスに合わせて織田信長のエピソードをそれっぽく創作する?そんなご都合主義な創作物では現実感がありません。現実感の無い物語で経営戦略を説明しても納得できません(私が)。
徹底的に史実に忠実。古文書や書状等と矛盾させない創作。そうすることで経営戦略にも納得感がでる。それが基本方針です。(こだわり)
そこで出来る限り、史料を集めました。図書館から貴重な文献・書籍を借りる事ができました。出来る限り本分中に引用しました。多くの史料を参照すると、それらが制約条件となり創作の余地が減ります。そんな史料の隙間を縫うように創作を加えています。
複数の史料が矛盾していたら、何故そう解釈したのか分かる様に説明を加えています。特に『大日本史料第十編』の期間、上洛から長篠合戦あたりまでは、結果的に創作より史料解釈の方が多くなってしまいました。そのため当初は歴史を使って経営戦略を説明する計画でしたが、途中からは経営戦略から視た歴史解釈に変わっていました。(計画とは違うものに・・・。でも面白かったからヨシ)
当初、第一級史料とされる『信長公記』に沿って創作する方針でした。『信長公記』は間違いが少ないだろうと。しかし、古文書や他の史料と比較すると疑問や矛盾にぶつかり、途中から『信長公記』の記述を疑うようになりました。その結果、特に織田信長、松永久秀、荒木村重のイメージが私の中で大きく変わりました。
多くの場合『信長公記』は「正しさの論拠」として提示されます。そのため『信長公記』の記述が誤っていると説明すると、結果的に”通説”と異なる説明になります。”通説”と異なると、経営戦略のトピックスを史実で説明しようとしているのに「これは史実と言って良いのか?」と不安に思う事もありました。
ところが不思議なことに、そう思いながら史料や書籍を読むと似たような(『信長公記』に疑問を呈する)解説をする研究や書籍に出会うのです。「必ずしも間違った解釈とは限らない」と安心すると同時に、歴史もまだまだ研究によって、”通説”が変わるかもしれないと勇気づけられました。新しい史料が発見されれば、これからも”通説”の方が変化していくでしょう。
新たな気付きもありました。ほとんどは創作として記述していますが、例えば、浅井長政の謀反の理由は学説としても面白い仮説だと自画自賛です。専門家の”通説”を教えてもらうだけではなく、「それはそれ」として独自に素人なりに解釈をする(考える)のも、歴史の見方として面白い。改めてそう感じた次第です。史料の優先順位などどう考えたか(基準)は後書きに記します。
そもそもの狙いとしては、これから新たに事業をやろうとする方に、歴史を楽しみながら経営戦略のトピックスに気軽に触れてもうことでした。それはそれとして、新しい歴史の楽しみ方として「こういう見方もありだな」と思って頂ければ幸いです。
全体目次・各トピックスへのリンク
第1章 桶狭間・信長が仕掛けた合戦
~主導権は我にあり~
第1節 首実検と論功行賞・KPIは機能不全を起こし易い
第2節 事実関係の確認・SWOT分析はPEST分析とVRIO分析
第3節 相手の立場から見る・3C分析
第4節 主導権を握る・戦略から戦術
第5節 己を知り準備する・練度とアクションプラン
第6節 決戦は桶狭間・不測の事態は起きるもの
第2章 時代背景・胡蝶が学ぶ道三の教え
~勝つ為の視点~
第1節 胡蝶の夢・お蝶が胡蝶となったわけ
第2節 地位と血筋・地位は信頼の上に築かれる
第3節 期待と畏怖の使い方・リーダーシップフォロワーシップ
第4節 購買行動・売れる理由(KBF)と選ばれる理由(KCF)
第5節 胡蝶の輿入れ・DOICサイクル
第3章 尾張統一・足掻き続けた不遇時代
~行動で信頼を得る創業期~
第1節 織田信秀の急逝・やるべき事をしっかりやる
第2節 平手政秀の死・失敗を失敗で終わらせない
第3節 村木砦の戦い・不足分を信頼できる外部に求める
第4節 長良川の合戦・世代交代は難しい
第5節 稲生の戦い・使えるものは何でも使う
第6節 尾張掌握・先んずれば人を制す
第4章 美濃攻略・7年かかった理由
~着実に足元を固め機会を伺う~
第1節 斎藤義龍の死・ワンマン経営の死角
第2節 斎藤龍興・後継者問題
第3節 小牧山に築城し移転・交渉の心理テクニック
第4節 竹中半兵衛の稲葉城奪取・トップの行動が組織規範
第5節 近江の情勢・組織文化の経路依存性
第6節 甲尾同盟・タイミングをとらえる
第7節 墨俣城築城・物流に工夫を(4P)
第5章 天下布武・目指したのは濃尾の平和
~初心忘れず先を見据える~
第1節 楽市楽座・生産力の掘り起こし
第2節 関所撤廃令・擬態ブルシットジョブ
第3節 天下布武・パーパス経営
第4節 一向宗と武田信玄・見える現実と見えない現実
第5節 盟友、松永久秀・先輩に学び相談する
第6節 上洛後の見通し・出来る事と出来ない事
第6章 足利幕府・理想に向かって
~理想と現実の間で~
第1節 撰銭令・お金の機能
第2節 ゆるし茶湯・ブランディングとゲーミフィケーション
第3節 殿中御掟・仕組みに依る経営
第4節 五箇条条書・制度疲労にスクラップ&ビルド
第5節 甲越和与・それぞれの思惑
第7章 元亀争乱・裏切られる信長
~振り回される正直者~
第1節 金ヶ崎の戦い・システム思考:風が吹けば桶屋が儲かる
第2節 三好義継の謀反・理屈ではなく好き嫌い
第3節 延暦寺焼き討ち・既得権益との戦い
第4節 足利義昭の逆心・トップ判断の重み
第5節 義昭追放と天正改元・自己マスタリ―とメンタルモデル
第6節 三好義継の討伐・サプライチェーンのBCP
第8章 狂う歯車・急成長の歪
~組織拡大に伴う難しさ~
第1節 長篠の戦い・ランチェスター戦略
第2節 石山合戦・創造性のマネジメント
第3節 荒木村重の謀反・属人思考組織の弊害
第4節 与力、竹中半兵衛の死・組織体制と人事権
第5節 佐久間信盛を追放・過則勿憚改:後悔に先立たず
第6節 安土城公開・生存者バイアス
第7節 武田勝頼の討伐・システムの逆回転
第8節 本能寺の変・仮説検証プロセス
後書き(こんな風に考えました)
これまでいくつかのビジネスプランコンテストにて、メンターをさせて頂きました。メンタリングの時に気軽に参照できるモノが欲しくなり、それまで説明用に作っていた資料や自分の考え方を整理し、ハンドブック的なものを二年前、一冊分作りました。自分で言うのも何ですが堅い。キャッチ―ではない。売るための話を書いているのに、仮に自費出版しても全く売れる気がしませんでした。自虐ネタには使えそうですが。
そこで出版社とのコネクションを作る下心(プロに見てもらう機会を作る目的)とセルフブランディングの一環として、別の形で表現することにしました。極力、堅いのは避ける。少しでも物語風に読み易くする。それでいくらかでも、エッセンスを紹介できないかと考えました。『ザ・ゴール』や『もしドラ』のようなスタイルです。
しかし、物語には悪役がつきもの。現代ビジネスを舞台に物語を作ると、私がこれまで関係した人の中から「自分がモデルでは?」と考える人が出てくるかもしれません。こちらにその気が無くても、嫌な思いをする人がでるのは避けたいと思い、歴史を舞台にする事にしました。そうするといろんなテーマが設定できるのが、織田信長でした。
前書きでも触れましたが、ビジネス書として説得力をもつには、事実であることが重要。そこで、いろいろと調べました。本を買ったり、ネットを検索したり、図書館で借りたり。高価な本をいっぱい借りました。
そして、改めて歴史にハマりました。歴史って面白い。
◇
事実関係を調べると、すぐに信長の性格設定に矛盾が起こりました。会話で戦略を組み立てようとしているのに、信長が二重人格になって矛盾する。いきなり会話が成立しないのです。
かなり早い段階で、織田信長のイメージ、頭脳明晰で合理的だが、冷酷で残虐、上昇志向が強い下剋上の英雄というイメージに疑問を持ちました。
最初に違和感を持ったのは、中川清秀と高山右近を許し、荒木村重も許そうとしたこと。松永久秀にいたっては2回謀反を起こしたのに、(通説の)2回目の謀反ですら使者を送って許そうとした。伊勢長島の一向一揆の根切りや延暦寺の焼き討ちを指示し、身内のおつやの方を殺した後なのに。
そういう目で見直してみると疑問が膨らみます。最初の謀反、山口親子は追放、弟・織田信行とその配下柴田勝家、林秀貞は許され、織田信賢や織田信清、守護・斯波義銀は追放。桶狭間の戦いでは、岡部元信を赦免。敵対した筈の斎藤龍興も稲葉山城包囲したのに逃げられている。首謀者を成敗していない。
頭脳明晰で失敗しない織田信長が失敗ばかり?これらが失敗でないなら、冷酷で残虐な信長が意図的に逃がしている。武田家滅亡の時、織田信賢や織田信清を生け捕りにしたのに成敗しない。頭脳明晰で合理的な信長が計画的に逃がしていたと分かる。冷酷で残虐で合理的理由は何?
謀反人・織田信行に従った柴田勝家は越前を任され、林秀貞は織田信忠の教育係になる。織田信行を誅殺した信長が、織田信行の子・津田信澄を息子のように育て、重要拠点を任せるほど信頼する。冷酷で残虐?
これらの行動を理解できるように計画立案する会話が、イメージできませんでした。これだけ列挙すると、さすがに何かオカシイと感じます。
一方で、実際、信長が残した書状には根切りを指示したものがあります。荒木村重の家族や一門は見せしめに殺しています。つまり、現代の私たちには冷酷で残虐な行為に見えても、そこには合理的理由があったと考えられます。それを理解するには、戦国時代には現代とは異なる思想・常識があり、それを理解しないと織田信長やその他の武将の行動は理解できないと思いました。それが第2章の時代背景、各章の所々に当時の文化的・社会的背景を加えた理由です。いくらかクドい感じは否めませんが、戦略の背景を読者と共有しないと理解してもらえないと考えました。
現代の感性で言えば冷酷で残虐な行為が、文化的・社会的背景から合理的である。だとすれば、信長個人は本来どういう考え方をする人物だったのかと改めて疑問になります。それが「逃がしまくった」「助けようとした」「信頼した」信長になります。つまり「人にやさしい信長」。筆者が子供の頃から抱いていた信長のイメージが変わりました。
そうすると、新しい疑問が湧いてきます。何故、現代の私たちは信長を「頭脳明晰で合理的だが、冷酷で残虐で失敗しない英雄。上昇志向が強い下剋上の怖い戦国武将」とイメージするのでしょうか。
こうした違和感が、新解釈の着眼点になりました。
◇
『甲陽軍鑑』の解説に、筆禍事件を起こさないように書いているという行があり、妙に納得しました。現代よりも私刑(無礼討ち)が普通に行われていた時代、或いは、不敬罪で打ち首にされる時代です。
私も人の目は気になります。だから、現代ビジネスではなく、歴史を舞台に選んだのです。当時は、もっと深刻な問題だったはずです。文字通り命がけです。
そう思って改めて『甲陽軍鑑』を読んでみると、どうやら武田信玄と徳川家に過剰に忖度しているようでした。同じように考えると『信長公記』も怪しくなります。成立時期から考えて豊臣秀吉と徳川将軍家、特に豊臣秀吉に忖度している筈です。むしろ、死んだ織田信長に対しては忖度の必要がない。
調べるうちに、同じ太田牛一が書いた『大かうさまくんきのうち』をみつけました。豊臣秀吉の意向として「織田家が天下を取れず、豊臣秀吉が天下をとったのは人徳の違いである。冷酷で残虐な信長とその一族には人徳が無かったから天に見放された」という主旨でした。そこで、太田牛一は『信長公記』も同じ主旨で物語を創作したと仮定しました。つまり二重人格の一つが太田牛一の創作した冷酷で残虐な信長と仮定すると腑に落ちたのです。以後は、キャラクターが自然にイメージできるようになりました。
織田信長だけではありません。
まず、大きな違和感を持った人物が松永久秀。通常、悪人として描かれる人物なのに、三好長慶の下で田舎侍が立身出世している。織田信長の信頼も厚く、どうやら織田信長は最後まで松永久秀が裏切ったと思っていないのではないか。そう思わせる書状がある。
さらに、近年見つかった斎藤道三の書状。斎藤道三は信長をとてもかわいがっているように感じました。しかし『信長公記』では、嫌っているように描かれます。
浅井長政と荒木村重の謀反も謎でした。荒木村重に至っては、当初、人格破綻者として描くつもりでした。家族や一族を見捨てて、一人毛利に逃げ、豊臣秀吉の時代には茶人として堺で生活。とても人の上に立つような人物に思えない。それなのに、長い間籠城する求心力があった。経営戦略的に彼等の判断、行動、その結果(周囲の反応)を説明する事ができません。
『大かうさまくんきのうち』を編集方針として『信長公記』を書いていると仮定すると、これらの疑問に合点がいきます。そういう事だったのかと。
『大かうさまくんきのうち』には「天道恐ろしき次第」として三好実休、松永久秀、斎藤道三・義龍父子、明智光秀、柴田勝家、神戸三七(織田信孝)、北条氏政、小田原攻めが挙げられます。太田牛一は、彼等を悪人として描く義務がある。また、豊臣秀吉の失態や豊臣秀吉に都合が悪そうな事案は隠さなければならない。多くの違和感を発生させた原因はそこにある。
例えば、松永久秀を石田三成に似た人物と考えてみました。石田三成は豊臣秀吉に引き立てられ事務能力で立身出世しました。しかし、その他の武将から嫌われており、且つ、戦いのセンスがイマイチという評価です。頭は良く生真面目で上司に好かれるが、同僚からは妬まれ嫌われる。
松永久秀も、三好長慶に引き立てられて立身出世しました。同様に同僚達の妬みや悪口が人物像として伝えられる。そこへ太田牛一が書いた『大かうさまくんきのうち』の記述が形を変えながら広がり、近代の歴史解釈に大きな影響を与えている。そんな仮説です。
これで全体を眺めてみると、不完全ながらも、松永久秀の人物像に焦点が合ったと感じました。古文書の意図が解釈できるようになりました。
『信長公記』は『大かうさまくんきのうち』を方針として創作されている。『信長公記』もまた古文書(書状)や由来の異なる文献などで裏付けをとる必要がある。中でも「冷酷で残虐な信長とその一族には人徳が無かったから天に見放された」「豊臣秀吉には人徳がある」という印象を与える記述、および、悪人とされる人物に関する記述は全て、嘘を書いている(削除している)可能性が高い。豊臣秀吉にとって都合が良いように話をすり替えている(豊臣秀吉の冷酷で残虐な行為を織田信長や明智光秀の行為に置き換えている)かもしれない。
多くの書籍を参考にしましたが、一般に『信長公記』は第一級史料として紹介されています。いまだ多くの通説は『信長公記』を根拠にしていると思われます。そのため単に『信長公記』に書いているから史実であると説明しているなら、その通説は要検証と判断しました。
本作では『信長公記』も "One of Them" です。『信長公記』の記述内容について『大かうさまくんきのうち』の主張に沿った話は概ね創作であると仮定します。出来る限りは他の史料ではどうなっているか確認する。また、書かれている内容を文言通りに受け取るのではなく、書き手の置かれた立場から書き手の意図を想像する。そういう方針です。
◇
そんな視点で史料を読み進むうち、優先順位が概ね、以下のようになっていました。実際には、調べていく中で決まってきた後付けの方針ですので、完全に沿っている訳ではありませんが。
最優先は、書状(古文書)。
これには嘘や噂も含まれます。しかし、”どのような状況で誰が誰に送ったか”と”送った人がその後どんな行動をとったか”を見れば、送った時の意図が想像できます。但し、ほとんどの古文書は年の記載がないので、時期・時系列については考察が必要です。後世の偽書の疑いがあるものも存在すると思います。ですが、入手できる史料は概ね正としました(偽書ではない)。
次に優先して信頼するのは日記。日記は修正が困難です。そこで日記の時系列は正しいと考え、古文書の内容を突き合わせます。
日記の中でも、まずは当時の権力者の影響を受け難い、或いは軽微な影響と思われる『多聞院日記』と『尋憲記』。この二つは奈良の僧が書いているので、忖度や嘘を書く必要がありません。だから一番信頼できます。但し、 ”云々” に注意が必要です。聞いた話・噂話・伝聞であって、それは必ずしも事実とは限りません。誇張表現にも注意が必要です。”云々”が無ければ、実際に見聞したものなので、信頼性が非常に高くなります。なお『尋憲記』は『大日本史料』を通じて参照しました。
次が『言継卿記』と『兼見卿記』。これらも朝廷で見聞きした内容で、概ね信頼できます。但し、同じく ”云々” に注意が必要。彼らは合戦の現場は見ていませんし、『兼見卿記』は明智光秀が秀吉に負けた後、書き直している事が分かっています。つまり朝廷や権力者への忖度が含まれるので、噂話・誇張表現だけでなく、忖度の対象にも考慮が必要です。
創作も終盤に来て〔中務大輔家久公御上京日記〕に焼き討ち後の比叡山の記述があったのには驚きました。
そして最後に軍記物や記録物。
これには三種類あります。一つ目は同時期の記録文献や江戸時代の研究論文、二つ目が各家が子孫のために残そうとして書かれた物(**家記)、三つ目が演劇や教訓を残す目的で書かれた物語。一つ目と二つ目は、同列に扱います。三つ目は参考。創作の可能性が高いからです。
一つ目に分類するのは『信長公記』『総見記(織田軍記)』『甲陽軍鑑』です。他にもあるかもしれませんが、意識したのはこの三つ。『信長公記』は太田牛一が織田軍の武将だったので当然信頼度は高い。但し、秀吉や徳川家に忖度しており、そういう部分で脚色や改ざんをしている可能性が高い。『甲陽軍鑑』も同様で、高坂弾正が武田信玄の近くに居たので、考え方などは実態に近いと思われますが、武田信玄と徳川家に忖度しており、事実関係も変えている可能性が高い。『総見記(織田軍記)』は、『甫庵信長記』を検証する形で書かれていますが、時期的に曖昧になった記憶なども参照していますので、取捨選択が必要。但し、かなり執筆が進んでから、見たので十分に反映できたわけではありません。通常、『信長公記』『総見記(織田軍記)』『甲陽軍鑑』は同列ではなく、『信長公記』が2ランクくらい信頼性が高いとされているようですが、本作中では、ほぼ同列に扱います。それくらいに『信長公記』の評価を落しています。太田牛一が聞いた話をベースにした創作小説ですから。一方で、現代の研究者が出版された多くの解説本もこの部類です。現代の本からの引用は極力避けていますが、信頼性という意味では『信長公記』『総見記(織田軍記)』『甲陽軍鑑』と同列と考えて参考にしています。
二つ目に分類するのは、『前野家文書・武功夜話』『細川家記』『增補筒井家記』。『前野家文書・武功夜話』の後半は違和感が大きくなりますが、前半は比較的違和感なく読めました。『細川家記』『增補筒井家記』は『大日本史料』を通じて参照しました。もちろん当時の権力者や家臣団への忖度は考慮すべきですが、これらは比較的信頼性が高いように感じました。
それ以外は、『信長公記』や『大かうさまくんきのうち』など、先行する文献を参照しながら創作したような印象が強いものです。或いは、演劇用や執筆者の意図・教科書的に教訓を残す目的で書かれた物語かどうかという印象です。これは根拠のない主観的判断です。具体的基準はありません。『足利李世紀』『続応仁後記』『美濃国諸旧記』『年代記抄節』などがこの分類に入ります。どの文献がどの文献に影響を与えたか、しっかりと研究すると、歴史学としては面白いテーマになるかもしれません。とは言え、時間的都合と本作の意図とは異なります。これらは史料というよりも、当時の解釈や足りない情報を埋めるのに補助的に参照する程度にとどめました。
このような方針で史実を頭の中で再構築しました。そして歴史イベントを時系列に並べ、経営戦略の視点(トピックス)を当て嵌め、織田信長や関係する人物の行動・考え方を想像しました。
◇
それでも調べれば調べるほど、新しい発見や全く知らない話にぶつかり、当初計画していた内容からズレていきました。
特に元亀争乱は史料『大日本史料第十編』が充実しており、情報量が多くて創作上の制約がとても厳しくなりました。その上、当初の歴史イメージと大きく異なっていたため、内容だけでなく量も、想定から大きく異なるものになりました。
本作はもともと歴史研究を意図しておらず、ビジネス書として創作しています。特にベンチャーやスタートアップ、新規事業を始める人に基礎知識の存在を気楽に知ってもらうことが目的でした。とは言え、出来る限り史実を忠実に描いてビジネスの経営戦略を論じようとしたら、結果的に歴史研究の真似事のようになっていました。そこでタイトルも変更した次第です。
ただし、専門の歴史研究者なら採用すべきものを却下したり、採用すべきでないものを採用したりしているかもしれません。歴史研究論文だったら許されない勘違いもあるかもしれません。博士論文なら研究不足・調査不足もあるでしょう。
しかし、そこはビジネス書・歴史小説としてお楽しみ頂けると幸いです。
◇
最後の本能寺の変については、信長の戦略ではありません。だから、信長と胡蝶の会話が成立しません。当初はその代わりとして明智光秀と胡蝶に後から奇想天外な物語を語らせるつもりでした。
そんな予定で、かなり早い段階からいくつか仮説を置き、これは伏線になるかも、など考えながら創作していました。新しい情報が入り物語が進むなかで仮説を何度か修正しました。実のところ不完全ながらも仮説は作りました。もし、反例となる史料が無く、仮説を僅かでも補強する史料があれば(検証できれば)物語にすることを考えていました。
ただし、条件として「本能寺の変」以降の経緯も含め齟齬が無い物語にする事。ここで黒幕が存在するという説も考慮すると、主要武将の状況とその動き、飛び交う書状の確認が必要になります。単純に確認すべき情報量が多くなります。信長や秀吉と異なり、各武将の書状は纏まった書籍などがなかなか見つからず、そのため史料調査(検証)を完了させる目処が立たちませんでした。
しかしながら、見方を変えれば、まだ楽しめる余地が残っているとも言えます。将来「本能寺の変」の物語が完成したら公開したいと思います。
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最後になりましたが、本作を書くにあたり地元の図書館から多くの書籍を借りました。時には、史料の検索などもして頂き、ここに改めて感謝の意を表します。また、貴重な本を貸し出して下さった県立図書館や県内県外各地の図書館にお礼を申し上げます。
参考にした史料の中でも『大日本史料』を初めて見た時は感動しました。もっともその量(第十編だけで31冊)にも驚きましたが、未完と気付いて二度驚きました。『大日本史料』が未完の期間はどうしても参照する古文書が少なくなります。その分、創作の自由度が高くなりますが、歴史としての面白味に欠けます。天正三年(第十編之三十一)以後、天正十年(第十一編之一)迄の間や、永禄十一年より前(第九編)が早く完成するのを期待しています。特に「本能寺の変」の前の1年間、どんな書状が飛び交っていたのか、興味が尽きません。
本篇は「ビジネスメンター帰蝶の戦国記」というタイトルで、約1年強にわたり書き続けてきたもの(8章5節迄は旧タイトルで公開)を、後から見つけた史料を加筆したり、誤字脱字を修正したものです。
これまで旧タイトル版にアクセスして応援してくださった方々に厚く御礼申し上げます。アクセス数が増えていたり、スキを押して頂けたりすると、とても嬉しかったです。皆さんの応援のおかげで、当初目標まで書き切ることができました。
本当に有り難うございました。
そして、一緒に話を楽しんでくれた家族、戦国時代のような恐ろしい時代を生き抜き、現代まで命を繋いでくれたご先祖様に感謝して締めくくりたいと思います。
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