
現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長 「歸蝶の戦国記」6-5
第6章 足利幕府・理想に向かって
~理想と現実の間で~
第5節 甲越和与・それぞれの思惑
時間は少し遡る。
永禄十二年四月末、信長は岐阜城に戻った。
「お疲れ様でした」
「うむ。疲れた」
「このまま天下静謐は実現できそうですか」
「できると思う。思うが先は長い」
「そうですか。何が問題なのですか?」
「大きいのは、三好三人衆の残存兵力が意外に大きい事と、信玄殿と輝虎殿(上杉謙信)がいまだ争っていることかの」
「信玄殿は我らと同盟関係にありますよね」
「だが、信玄殿は輝虎殿を信用しておらん」
「何とかならないのですか」
「義昭公も御内書を出されておるが、なかなか首を縦に振らん」
◇
(足利義昭から上杉謙信宛ての御内書:TopからTopへ)
今度凶徒ホ令蜂起處、即織田弾正忠馳參、悉屬本意、于今在洛事候、
次越・甲此節令和与、弥天下静謐馳走、信長可相談儀肝要、
為其差下智光院候也、
(永禄十二年)二月八日 (義昭の花押)
上杉弾正少弼とのへ
(信長から上杉謙信の書状窓口の直江景綱宛て:窓口から窓口へ)
就越・甲御間和与之儀、被成御内書候、此節有入眼、
公儀御馳走簡(肝)要候、別而可被取申事、於信長可為快然候、
猶御使僧可有漏脱候、恐々謹言
(永禄十二年)二月十日 信長(花押)
直江大和守(景綱)殿
足利義昭が興福寺を脱出して以来、上杉謙信、徳川家康は、信長同様に、足利義昭を支持してきた。足利幕府の屋台骨と言って良い。この両者とは同盟関係が長く続いており信頼している。
東の有力大名・武田信玄は足利義昭を明確に支持していない。中立であった。しかし、足利義栄が病没し、足利義昭が征夷大将軍になり、意思表明を待つだけである。
信長は武田信玄と甲尾同盟を結んでいる。そこで信長が仲裁役となって、武田信玄を足利義昭の天下静謐に取り込むべく交渉を始めた。その第一歩が甲越和与、武田信玄と上杉謙信(輝虎)の同盟構築である。
更に四月八日付け、四月廿日付けの書状も出ており、信長から上杉謙信宛てに三通が確認できる。当然、同じように武田信玄にも送られている筈である。(武田家が滅んだ時に焼失したと思われる)
この時の信長は甲越和与の成立を疑っていない。だが、その後も武田信玄の側からは良い返事が届いておらず、武田信玄と上杉謙信(輝虎)の抗争は続いていた。信長は、武田信玄との同盟関係は良好という認識である。同時に、上杉謙信とも信長は良好な関係を維持している。上杉謙信から信長に鷹が送られており、その礼状が永禄十二年十月二十二日付にて送られている。
◇
「その信玄公は家康殿と共同で今川を攻めているのですよね。背後の輝虎殿と同盟を結べば有利になりますよね」
「そうだ。だから良い機会だと思うのだが、信玄公は輝虎殿が何か企んでいると考えているようだ」
「どういう事ですか」
「輝虎殿が一向一揆対策などで軍を動かすたびに、信濃を狙うような動きをやめろと言ってくる」
「それでは言いがかりではないですか」
「まあ、そう言うな。地理的に近いから、神経質になるのも分からなくはない」
「ですが、輝虎殿も一向一揆を放置できないでしょう?」
「そうだ。だから結局、妥協点が見出せなくなる。堂々巡りなのだ」
「困ったものですね」
「全くだ」
「三好三人衆の動きはどうですか」
「六条の合戦以来、情報は無い」
「それは良いと言えるのでしょうか」
「わからん」
信長は仕方ないだろうと言わんばかりの表情を見せた。
「そう言えば、もう一つ気になる事がある」
「何でしょう」
「六条の合戦で若狭の武者が奮戦した。義昭公はその者達に報いたいと言うのだが、若狭は今、お家騒動が起きているというのだ」
「またですか?」
「うむ。武藤という者が若狭を乗っ取ったというのだ」
「若狭と言えば武田。信玄公の親戚筋ですよね」
「そうだ。だが、武藤とやらが義景殿の支援を受けて、若狭を乗っ取ったらしい」
「今、若狭は確か、義統殿では?」
「いや、今は元明殿が継いでいるが、義景殿に保護されたという」
「それなら・・・」
「保護されたというのは体裁を繕っただけで、実態は拉致だ」
「それはどういうことですか」
「言ったであろう、義景殿は武藤を支援していると」
「それって、良くないのでは?」
「信玄公は、懸念しているはずだ」
「義景殿は何を考えているのですか」
「分からん。分かっていることは、幕府に対して敵対的だという事だ」
「それでどうなるのですか」
「恐らくは、近いうちに武藤を討つことになろう。それまでに伊勢を叩く」
「なかなか落ち着きませんね」
「仕方あるまい」
◇
信長が天下静謐を望んで活動している中、武田信玄の思惑は違っていた。信玄の思いは「天下静謐は名門・武田信玄が実現するものであって、家格の卑しい信長如きが行うものではない」である。
武田信玄こそが、いわゆる天下取りを目指す戦国大名であった。
それよりも信玄公が健在のうちに遠州・三河・美濃・尾張へ出陣して、我れ存命のうちに天下をとって京に旗をたて、仏法、王法、神道を中心にすえて諸侍の作法を定め、政治を正しく行うこと、それが信玄ののぞみなのだ。
武田信玄が活躍した甲州・信州などの山間の地は特に小氷期の影響が大きく、飢饉が起こり易かった。領国外から調達しようにも、関所が多く、中間搾取されて物価が高騰する地域であった。だから、国内が貧すれば、国外から略奪してくる。強い軍を背景に成長(侵略)を続けなければ。ジリ貧に陥る略奪経済であった。
しかも武田家の組織の成り立ちは、浅井家に近く国人衆の盟主として武田家である。浅井家では長政が国人衆に担がれて、父・久政を隠居させたように、武田家では、武田信玄が父・武田信虎を追放している。そのキッカケとなったのが、飢饉に伴う国人衆の領主への不信である。武田配下の国人衆も自分の知行地で内政が上手く行かないとその不満を知行地の外に向ける。これが武田領内部で鬱積すると、国人衆同士の争いに発展する。そこで、侵略戦争という場を与え、この不満を外に向けて発散させる事で、そのエネルギーを領地拡大のための競争に転化させるのである。
このような内的外的理由により武田家は、領国維持の為に領土拡大戦争を続ける必要がある。それにも関わらず、武田の領地は地理的に上杉、今川、北条と強国に囲まれ、出口が東西の山間部ばかりで、なかなか食料生産地を領有する事ができなかった。そこで、弱そうなところから順に各個撃破して領国拡大をしてきた。
そんな時に桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした。甲府から近く、豊かな食料生産地の遠江・駿河を持つ、今川家が弱体化した。大きなチャンスである。そこで遠江・駿河が武田信玄の第一優先の攻略先となる。そこで背後をとられないように信長からの同盟を受け入れたのだった。
◇
ここで武田信玄、第一の誤算が生じる。想定よりもかなり早く信長と足利義昭が上洛した事である。稲葉山城は堅牢な城であり、そもそも信長が1年程度で落とすとは想定していなかった。信長が美濃を落とせないなら、足利義昭は足止めできる。もし、足利義昭が越後の上杉を頼っても、顕如との同盟で越中・加賀の一向衆が上杉謙信(輝虎)を足止めできる。だが、信長が早々に美濃を攻略したため、上洛を阻止できなくなった。そのことは、義昭からの檄文(義昭方)や本願寺勢力(三好方)からの連絡により、双方の情報がはいるので正確に把握できた。
足利義昭の上洛阻止と美濃・尾張侵略を企み、背後からの攻撃を計画し、信長上洛の直前、今川氏真に「東三河を寄越せば信長を一緒に討ってやる」と持ち掛けたが断わられた。(永禄十一年五月、『甲陽軍鑑』品第三十四)
そこで当初の予定通り、遠江・駿河侵攻を優先した。武田勝頼に嫁いだ苗木の娘(信長の養女)が亡くなったこともあり、六月、秋山伯耆守を岐阜に遣わし、七月、信長の嫡男・織田信忠と武田家の松姫の婚姻が約束をした(『甲陽軍鑑』品第三十四)。甲尾同盟を強化して背後の憂いを無くすためである。婚姻は結んだが、松姫を美濃に出すこと無く、武田家預かり(甲州に住む)を認めさせた。これで松姫を人質にされることはない。
信長は九月に出陣し、十月に上洛を果たす。そしてこの時、足利義栄が病没した事も武田信玄の想定外だった。これまでは武田信玄が好きな時に三好三人衆側について信長と戦う事ができた。しかしこれからは、足利義昭を味方につけないと自分が幕府に対する逆賊になってしまう。だが、起きた事は仕方がない。まずは遠江・駿河侵攻である。
武田信玄は駿河・遠江の調略を着々と進め、永禄十一年(1568年)十二月駿河攻略に出発する。さらに武田信玄は徳川家康に書状を送り、掛川に来て今川氏真を攻めるように求める。攻略対象の背後に味方を置き、敵の戦力を分散させるのが武田信玄の基本戦略である。そこで甲尾同盟の同盟国(信長)の同盟国(徳川家康・清須同盟)を今川氏真の背後に置こうとしたのである。当然、徳川に費用負担だけさせ、戦果は自分のものにする目論見である。
〔恵林寺文書〕
其以来申遠意外候、抑今度向于當國出馬候之處に、為手合い、
急速御出張本望満足候、即遠刕へ雖可罷立候、當國諸士仕置等
申付候之故、一兩日之間延引、三日之内に可令越山候、
早々懸川へ詰陣尤存候、寔可遂面談條、大慶不可過之候、
恐々謹言
十二月廿三日 信玄(花押)
徳河殿
ここで第二の誤算が生じる。武田・徳川に挟撃され、今川氏真は遠江を進軍してきた徳川家康に早々に攻め込まれていく。今川氏真は次々に城を失いながら撤退を続けた。それが想定よりも早かったのである。
結果的に武田信玄がやろうとしていた事(徳川を囮に武田が実利を得る)を徳川家康がやってしまった(武田が囮になり徳川が進軍した)。自ら徳川家康を呼んでおきながら、武田信玄は自分の目論見が外れたことに強い不満を持った。そして、この頃から徳川家康に逆心の疑いがあると言い始める。
一方、武田信玄が今川を攻めた事に対して、甲相駿三国同盟の当事者である北条氏康は激怒する。北条氏康は、武田信玄の背後となる上杉謙信と相越同盟を結ぶ(締結は永禄十二年五月)。北条氏康は勇猛な武将である。戦力を分散させて戦うような相手ではない。
北条氏康と戦うにあたり、背後の備えに越中の一向一揆で上杉謙信を牽制させたのだが不十分であった。そんな時、甲越和与の御内書が届いたのである。渡りに船であった。もちろん顕如との同盟があるから承諾はしない。だが、これをエサに上杉謙信の動きを抑えることができる。上杉謙信が動くから、甲越和与に承諾しないと言い続けるのだ。足利義昭の御内書があって、上杉謙信は動けない。これで確実に背後の憂いを無くせる。
市川十郎右衛門尉を信長に遣わせて送った書状が次のものである。内容が「お願い」なので、自らの名前では(家格の低い)信長に書状を送らず、市川十郎右衛門尉に行かせるところが、家格に高いプライドを持つ武田信玄らしさである。連絡を受けた信長は足利義昭に報告し、足利義昭と信長は卯月七日付にて書状を上杉謙信に送った。これにより武田信玄は狙い通りに上杉謙信の南下を止めた。
< 武田信玄、上杉輝虎ノ南下ヲ恐レ、市川十郎右衛門尉ヲ信長ニ遣シテ、
甲越和議ノ為メ藎力センコトヲ求ム >
〔古今消息集〕
漸可為京著候之間、重而越飛脚候、
一 信越之境雪消馬足叶候之様に告来候、然則輝虎向信刕出勢必定に候、無據進退候之條、無二薩埵山へ取懸、可遂興亡之一戦候、甲越和融、以御下知、可有信長媒介者、急速岐阜之使者刕長沼邊に被越候之様に可有催促候、
一 當時家康者専信長被得御異見人に候、又今河氏真没落故、遠刕悉属岡崎候之上者、雖不可有異儀候、懸河岡崎和融之刷候、此所不審に候、畢竟信長御憶意聞届度候、
一 信玄事者、只今憑信長外又無味方候、此時聊も於信長御疎略者、信玄滅亡無疑候、具被遂分別可申理候、猶其表之調、不可有疎意候
謹言
(永禄十二年)三月廿三日 信玄書判
市川十郎右衛門尉殿
〔上杉家文書〕
(足利義昭から上杉謙信宛ての御内書:TopからTopへ)
就甲越無事儀、去々月相副使僧智光院申遣候、未歸洛候、如何趣候哉、
重而至信越境目、差下使節、雙方之儀可相究候、其巳前卒爾之於出勢者、
不可然候間、遣飛脚候、猶信長可申候也、
(永禄十二年)卯月七日 (義昭の花押)
上杉弾正少弼とのへ
(信長から上杉謙信の書状窓口の直江景綱宛て:窓口から窓口へ)
輝虎与信玄御間之儀付、去々月被成御内書候其使者于今無歸洛候條、
重而以御内書被差遣飛脚候、無一途巳前自然於出勢者、不可然候、
何篇御存分可申償之間、被加思慮候樣、可被執申事簡要候、恐々謹言
(永禄十二年)卯月七日 信長(花押)
直江大和守(景綱)殿
このまま、武田と徳川が今川侵攻を進めれば、どこかで武田と徳川はぶつかることになる。そこで甲尾同盟を使って、信長に仲介させた。これにより大井川の東側を武田が取り、西側を徳川が取る事で話がついたとされる。
だが実態はやや異なる。徳川家康は早々に大井川に到達しており、大井川を越えることが出来た。つまり、合意の体裁をとりながら、武田信玄は徳川家康の早い進軍を大井川で止める事に成功したのである。そして将来、徳川が取った土地を奪うため、徳川家康を不審だと告げ、織田と徳川の離反を促したのである。
その後、永禄十三年十月、武田信玄が今川を攻めた時、武田軍と徳川軍の間でトラブルが発生する。先に大井川に到着し休息に入っていた徳川軍を、後から来た武田軍が攻撃したのである。これで武田と徳川の関係は決定的に対立する。
(前略)このため、家康は(大井川)島田河原まできて、信長公の御仲裁によって、信玄公のご領分は大井川以東という約束になる。また、今川氏真が掛川城にいた当時、信長公が言われたのに、遠州一国のことは家康の手柄次第で領地とするようにとの事であった。山県三郎兵衛はいかなる理由によってこのような狼藉を働くのかということで、家康は旗本百四五十騎を率いて、家老は一隊もなく、雑兵四五百人でまた甲冑をつけた者もつけぬ者も、まちまちという備えでのぞむ。山県はこれを聞くと、二千あまりの手兵を率いて喧嘩をしかけ、大井川を越えて金谷から入坂付近まで追撃、家康は早々に掛川の城へと逃げ込んだ。
(中略:家康は武田軍を同盟軍だと信じていた。
だから約束を破った事を抗議に行った。すると攻撃された。
武田側でも、無分別だと山県を責める者が多くいた)
山県の動きをくわしくご報告もうしあげたところ、信玄公はことのほかお喜びになり、四郎(勝頼)、典厩(信豊)をはじめ一門の者や、家老衆の誰よりもすぐれて海道一番の武将と誇っている家康を相手としての合戦を遂げたことは申し分のない働き、とお褒めになる。
< 徳川家康が上杉謙信に送った起請文 >
敬白 起請文
右、今度愚拙心腹之通、以權現堂申届候之處、御啐啄本望事、
一 信玄に手切、家康深存詰候間、少も表裏打抜相違之儀有間敷候事、
一 信長・輝虎御入魂候様ニ、涯分令意見候、甲・尾縁談之儀も、
事切候様ニ、可令諷諫候事、
若此旨於偽物、上梵天帝釋、下四大天王、惣而日本國中之大小神祗、別而伊豆・箱根兩所之權現、三嶋大明神、八万大菩薩、天満大自在天神之可蒙御罰者也、仍件如
(永禄十三年) 十月八日 家康(花押)
上椙殿(上杉謙信のこと)
< 武田信玄、越後(上杉)の潰亂(潰れ乱れる)、駿河、伊豆等の併呑を神佛に祈る(永禄十二年か十三年の起請文) >
・甲越和与とは反対に、武田信玄は越後が潰れ乱れる事を祈願している
〔陽雲寺文書〕
敬白起請文
一、今度向于駿州出陳、則蒲原落城、興國寺同前、駿州圓令静謐、
達信玄本意者、従来庚牛歳、可學天台之化行之叓、
一、越後潰亂出来、向吾信上二國不動干戈、然駿豆兩州属信玄手裡者、
諏方一郡無私用可寄附兩社之叓、
一、至于来庚牛歳、如神約奉勸請飯縄於甲州之叓、三箇條裡令違反者、
可蒙刀八毘沙門天王、諏方上下大明神、飯縄大明神御罰者也、
永禄十三年 十一月九日
法性院信玄(花押)
結局のところ、甲越和与は武田信玄が今川領を侵攻する間、上杉謙信を止めるための道具として使われたに過ぎない。武田信玄に天下静謐を実現する気は全くない。寧ろ侵略戦争の継続こそが武田信玄の望みである。『甲陽軍鑑』が示す通り、今川氏真を討ち取れば、次の獲物は徳川(遠州・三河)・織田(美濃・尾張)である。
一方、信長は安定した領国経営が目標である。その前提となるのが幕府の安定(≒義昭の天下静謐・戦の無い世の中)である。信長は素直に武田信玄の言葉を信じており、甲尾同盟を信じていた。だからこそ、信長は足利義昭と歩調を合わせ、この後も粘り強く甲越和与の実現と武田信玄・徳川家康の仲裁に奔走していた。
◇
ビジネスの世界でも、いろんな人がいろんな思惑で行動している。典型的な例が起業家と投資家である。
まず投資前の意識の違いがある。起業家は事業の面白さや社会的価値などを主張しがちである。しかし投資家は儲かるかどうかを見ている。だから、なかなか投資を得られないと言う起業家は少なくない。
投資した直後は、両者の思惑は概ね一致している。事業が成功し、拡大する事を両者は願っている。起業家は事業の成功そのものを、投資家は成功に伴う株式価値の向上を期待している。しかし、ある程度の時間が経つと両者の立場は変わってくる。
投資家は早く投資を回収しないといけない。事業は必ずしも単純に成長するものではない。成長する場合でも大抵はJカーブを描く。成長軌道に乗るまでの時間が長いと投資家にとっては損失と同じである。銀行預金でも利息が付くので、その分が損失なのである。他の案件に投資すれば儲かったかもしれない。そんな機会損失もある。時間が経つに従って、こうした認識の違いが表面化し、起業家と投資家は見通しを共有できなくなる。
株式売却にあたって投資家は、どのような相手でも高く買ってもらえるなら文句はない。しかし、起業家は、株式を変な相手に売られると困った事になる。その変な相手は、株主の権利を使って事業に口出ししてくるかもしれないからだ。こうなると、投資家(株主)と起業家は明確に利害対立の様相を見せる。
◇
この頃の信長と武田信玄は、完全に同床異夢である。その上、武田信玄は一貫して織田・徳川を滅ぼす意図を持っている。信長から見れば、起業家(投資家)のふりをした詐欺師である。その武田信玄から甲越和与の契約をとる事を要求する上司が足利義昭であった。
ビジネスの世界では、ここまで酷いケースは稀だろうが、注意に越したことはない。
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関連:
武田と顕如の同盟5-4
主要参考文献など
第6章:参考書籍
信長公記 太田牛一・著 中川太古・訳
甲陽軍鑑 腰原哲朗・訳
武功夜話・信長編 加来耕三・訳
織田信長文書の研究 奥野高廣・著
織田信長のマネー革命 武田知弘・著
言継卿記 山科言継・著
エンデの遺言 河邑厚徳+グループ現代・著
雇用・利子および貨幣の一般理論 ケインズ・著 間宮陽介・訳
出社が楽しい経済学 吉本佳生・監修
さくっとわかるビジネス教養 行動経済学 阿部誠・監修
織豊期の茶会と政治 竹本千鶴・著
中世法制史料集 第二巻 室町幕府法 佐藤進一・池内義資・編
室町・戦国時代の法の世界 松園潤一朗・編
シリーズ室町幕府の研究2 足利義昭 久野雅司・編著
足利義昭と織田信長 久野雅司・著
謙信✕信長 乃至政彦・著
織田信長の古文書 山本博文・堀新・曽根勇二
大日本史料 東京帝國大學文学部 史料編纂所編集
大日本古文書 家わけ第十二 上杉家文書
第6章:参考インターネット
参考・請取沙汰)松園潤一朗・室町幕府雑務沙汰の形成と「借書」の効力
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/28727/hogaku0160200010.pdf
Wikipedia