
現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長 「歸蝶の戦国記」5-4
第5章 天下布武・目指したのは濃尾の平和 ~初心忘れず先を見据える~
第4節 一向宗と武田信玄・見える現実と見えない現実
永禄九年八月、第一次上洛計画は、六角氏と斎藤義龍の翻意により失敗した。六角義賢と斎藤義龍が三好と通じたため、身の危険を感じた足利義秋は琵琶湖を使って北に向かい近江を脱出した。当初、若狭武田氏を頼ろうとしたが、お家騒動が勃発しており諦めた。そして、若狭を離れて越前の朝倉義景を頼った。朝倉義景は松永久秀に交渉し、足利義秋(覚慶)が興福寺を脱出できるように働きかけていたからである(『上杉家文書』永禄八年八月五日付・大覚寺義俊から上杉謙信への書状)。
〔大覚寺門跡義俊副状: ウハ書 上杉弾正少弼殿 義俊〕
急度注進申候、一乗院殿南部御座所儀、居御番候而、松永堅雖申付候、朝倉左衛門督令直談、種々廻調略、去月廿八日、至甲賀和田城被引退候、公儀御家督相定候間、先以珎重存候(以下略)
八月五日 (花押)
上杉弾正少弼殿
越前に着いた足利義秋は朝倉義景に上洛を促した。ところが朝倉義景は動こうとしない。朝倉義景が決断できなかったからである。しかし、これは朝倉義景が無能という意味ではない。隣国の加賀の支援を受ける一向宗の動きが朝倉義景を常に牽制していたからである。
足利義秋が上洛できないまま時間だけが過ぎていく中、足利義秋とその配下・細川藤孝は明智光秀と出会う。そこで足利義昭は、越前で出会った胡蝶の従兄・明智光秀を信長に使者として送る。信長の意向を内々に調査するためである。なお、足利義秋は越前に居る間に元服・改名して足利義昭としている。
◇
永禄十一年(1568年)六月、稲葉山城。
「光秀殿、ご無沙汰しております」
胡蝶が明智光秀に話しかけた。
「ご無沙汰しております」
「信長様とお会いするのは、初めてでしたね」
「信長じゃ。堅苦しいのは好かん。楽にせい」
「有り難く存じます」
「越前での暮らしは如何でしたか」
「喜平次殿のおかげで、不自由はありませんでした」
「それは良かった。熙子は元気にしていますか」
「はい。娘ともども元気にくらしております」
胡蝶は熙子を思い、安堵した。
「して、十兵衛。(朝倉)義景殿はどうか」
明智十兵衛光秀。信長は敢えて親しみを表す意図で十兵衛と呼んだ。胡蝶の従兄であり、長良川の戦いを見事に演じて見せた手腕を買っていた。
「一向一揆に手を焼いておりました。それ故、義景様は動きがとれず、歯がゆい思いをされております」
「そうか。義景殿の子に輿入れの話を考えておるのだが、反応がない」
「そうでしたか」
これは光秀も初めて聞く話であった。
「長島の一向一揆も頭が痛いが、輝虎殿(上杉謙信)も上洛するには加賀の一向一揆を越えねばならん。武田信玄殿ともにらみ合いを続けておるしな。あの二人、何とかならんのかのぅ。」
◇
一向宗は、なかなか定義が難しい仏教の宗派である。以下、素人目線から解釈する。
まず一つの解釈として一向上人(一向俊聖)が開いた宗派である。これが一遍上人の時宗と混ざり合っていく。時宗は踊り念仏などで知られる。一向上人の一向宗も時宗も、ひたすらに念仏を唱える事から混同されたのである。これらは浄土宗の一派である。もう一つの解釈として、浄土真宗である。浄土真宗は親鸞上人が開いた宗派である。一般に「善人なおもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや(悪人正機説)」「他力本願」で知られる。生物として生きる以上、生き物を殺生して食べなければいけない。子孫繁栄を願うなら妻帯し子作りしなければならない。自分はそうした煩悩から逃れられない、仏教戒律でいう悪人であると自覚する。そんな悪人が自分の力で悟りを得られる(自力で本願成就できる)と考えるのは傲慢だと考える。だから、阿弥陀様の慈悲(他力)をひたすらに願う。
これらはキャッチコピーとしてはとても優れていた。しかし、これは教義が一人歩きするリスクをはらんでいた。特に浄土真宗が関東に広がった時、大きく三つの形が現れる。「悪人は犯罪者を指す」と解釈する造悪無碍者は「(法的社会的倫理的に)悪い事をしても救われる」と主張する。これに対抗する形で、専修賢善者は「犯罪は許されない。(法的社会的倫理的に)良い行いは念仏の助けになる」と主張した。そして、正統念仏者は「ただ一向に念仏を唱える」と主張する。ひたすらに念仏を唱えている限り、悪い事も良い事もする余裕はない。「何事にも執着しないこと」=「悟りの境地」(本願成就は阿弥陀様のお力だから、お力を受け入れる準備)と解釈できる。本来この正統念仏者が主流(本家)である。『一向』と書いて「ひたすら」と読むところから、浄土真宗が一向宗と呼称が混同されるようになる。
そうは言っても、厳密な定義が当時の民衆や戦国大名に伝わる筈もなく、主に浄土真宗を中心とした宗教集団を形成し、領主に反乱を起こしたものが一向一揆と総称される。

越前・朝倉氏の隣国、越中・加賀では、1488年大きな一向一揆が起こり、加賀守護を追放してしまう。そして一門衆と呼ばれる浄土真宗の宗主代理が統治を始める。その後、この一門衆(加賀の地方組織)と本願寺(中央組織)が対立して大小一揆が起きる。大小一揆では一門衆が敗れ、以後、本願寺が加賀を支配するようになる。天文十五年(1546年)には尾山御坊(堀や柵を有した寺院でほぼ城。現・金沢城)が建設され、これを拠点に北陸地域に一向一揆(支配地域)を拡大していく。特に永禄七年(1564年)以後は朝倉氏と激しく対立していた。そんな時に足利義秋が越前に来たのだが、朝倉義景は加賀一向衆に手を焼いており、足利義秋の要望に応える事ができないでいた。
もちろん足利義秋も指を咥えて大人しくしていたわけではない。足利義昭も一向一揆の状況は承知している。本願寺顕如にも越後上杉との和睦を促したが永禄九年(1566年)十月二十日に拒絶されている。
御内書謹而致拝見候、仍加越和州之儀被仰出候、尤美目之至過当無極候、雖然時宜可有如何候哉、先被加遠慮可然様可被洩申入事肝要候、恐々謹言
(永禄九年)十月二十▢日
▢淵伊賀入道殿
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是は当公方様越前ニ御在国之時也
********************************
尊書具令拝閲候、抑就加越和談之儀、被成 御内書候、寔以▢▢此事候、
雖然時宜可有如何候哉、則対宗薫以愚礼申候、御分別専要候乎歟、猶下間上野法橋可申候、此旨可得御意候、
恐惶
(永禄九年)十月二十日
大徳寺殿垂髪御中
よってこの時点で、本願寺は足利義昭・朝倉義景から見て、非協力的勢力と認識される。そこで上杉謙信を伴う上洛を断念し、足利義昭は朝倉義景単独による上洛を考え、なんとか加賀一向一揆と朝倉義景の和睦を整える。
永禄十、一乗院御所越前へ下向ス、府中龍雲寺へ遷、此年加越一和ス、御所ヨリ御曖也、従加州為人質杉浦又五郎越ス、同十一月十四日越
一、越前より一切経承仕上了、加賀と越前の和談事、上意越州一乗へ被移、於御座被仰調悉以無事也云々、
それでも、なお、朝倉義景は上洛を決断できないでいた。越後・上杉と和睦できない一向一揆を信頼できなかったのである。実際、この和睦はすぐに破綻した。永禄十一年三月十二日には加賀国勢が越前に侵攻し、人質の杉浦又五郎は死んでいる。
永禄十一、三月十二日越前金津迄切入、杉浦失利、又堀江十三日ニ当国へ退、同十五日ニ朝倉中務大輔景恒大将ニテ松山城ヲ攻、然トモ不得利シテ、数多人数打セ帰陳
◇
「本願寺は何を考えておるのか」
「よく分かりません。本来は念仏を唱えて、来世を願うもの。人を支配し、領土を拡張することは目的ではない筈です。もともとは加賀守護の失政から庶民の生活が成り立たなくなり、一揆になったと聞いています。加賀は本願寺が統治するようになって随分経ちますが、生活困窮者を助ける事を名目として一揆を拡大させようとしているようです。義景様の内政も必ずしも順調ではございませんので、つけ込まれるのでございましょう」
「名目と言ったか。本音は分からんという事か」
「はい。やっていることは、他の守護大名と大差はございません。力によって領地を拡大し、領民を集めているのですから。ですが、歴代の本願寺法主は『王法為本』を信者に語っており、領主に逆らわないように言っています。現法主・顕如も同様です」
◇
本願寺八世・蓮如(1415年~1499年)は手紙を使って布教をしていたが、それを「御文」「御文章」「御勧章」などと言う。この中で唱えられたのが、王法為本説である。世界の真理を表す仏法に対して、現世における法律や慣習が王法である。「本と為す」とは、基本とするという意味であり、王本為本とは、俗世の統治者による法律や慣習(仁義)を守り、その上で仏への信心を深く心の底に修める事を言う。
浄土真宗の主流・正統念仏者の「何事にも執着しないこと」は、悪く言えば、社会に関して無関心ということである。そのため、権力者とトラブルを起こし易い。
そこで、王法為本説である。世俗社会との調和を前提として、他力(阿弥陀如来の力)を深く信心することを正しい姿と説明する。王法為本説は、出家して(不可侵の)僧侶となるのではなく、(統治者の影響を受ける)在家での信仰を肯定するとき、統治者による法律や慣習との間でトラブルを起こさないように意図された説と言える。
◇
「言っている事とやっている事が合わないではないか」
「そうなのです。ですから、本願寺の考えが良く分からないのです」
困惑する信長に、同じく困惑した表情で光秀が答えた。
「はぁ。では義景殿が庶民を大事にすれば、落ち着くのか?」
「可能性はあります。本願寺の名目は潰せますので。ですが、義景殿は領民が見えているのかどうか。寧ろ、都を向いて、民に背を向けているように思われました」
「そうだったな。相伴衆の仲間入りをしたとかしないとか。多くの貢ぎ物をしたのであろうな」
「恐らくは。全て領民から集めた租税が元になっています。それを領民の生活向上や武力向上に向けていれば、一向一揆に悩まされる事も減っていたでしょう」
「義景殿は何とかできそうなのか?」
「分かりません。時間がかかる事だけは間違いありません。しかし、義昭様は急いでおられます」
「承知しておる。ゆえに、十兵衛が遣わされたのであろう」
「ご賢察の通りにございます」
「はぁ。上洛か」
信長は、心底がっかりした。本音では、朝倉義景が上洛するならそれで良いと考えていた。信長にとっては領国の安定繁栄が優先事項であり、上洛は面倒事以外の何物でもないのである。
◇
この時の信長や光秀は、現代の宗教観に近い僧侶をイメージして理解しようとしたため、本願寺の行動目的が理解できなかったのである。この時代、本願寺の動きは現代の宗教観から言う宗教的行動ではない。戦国時代の勢力争いの中で、より強く政略的世俗的に動いている。
こうした動きは、本願寺に限った事ではない。延暦寺、興福寺、東大寺なども武力抗争を行っており、それは対大名だけでなく、寺対寺でも武力抗争をしていた。戦国時代は、戦国大名だけが戦っていたのではなく、寺院も戦っているのである。一部の寺院は戦国大名のような顔をもっていた。寺を中心に町を濠や土塁で囲んでいた寺内町は要塞のようになっていた。

こうした状況において、ほぼ同時期、武田信玄は各地の勢力と連絡を取っている。
信玄公から信長への使いは秋山十郎兵衛だったけれども、1年に1度も遣わすかどうかといった程度であった。日向源藤斉は、関東安房国、結城、田谷(北埼玉)宇都宮、越前、比叡山といった地への御使者であった。雨宮存哲は、近江の浅井備前長政、それから四国の長宗我部への使者衆であった。長遠寺は、伊勢の長島、河内国大阪、だいたいが一向宗の勢力の強い地への御使いであった。
ここに伊勢の長島は、斎藤龍興が長良川を伝って逃げた先であり、河内国大阪は本願寺顕如を指す。またこの後、足利義昭の上洛に障害となる勢力への連絡頻度が多い事などが読み取れる。
武田信玄は一向一揆と軍事同盟を組んでいたのである。実際、永禄八年(1565年)三月、本願寺顕如は武田信玄に向けて、「長尾輝虎(上杉謙信)と未来永劫講和しないこと、ともに越中で輝虎の進出を阻止しよう」と盟約している(『顕如上人御書札案留』)。本願寺顕如はこれがあったから、この後の永禄九年(1566年)、足利義昭が越後上杉との和睦を促した時、拒絶しなければならなかったのである。
一 対信玄、自今以後、別而可令入魂事、
一 長尾輝虎以如何様之題目懇望候共、尽未来不可相通事、
一 越中表之備、信玄申合可成下知事、
巳上(如仰意、彼方ヨリノ案ニハ此分ナレドモ、申合ト認申)
(永禄八年)三月二十七日 光一(光佐)
徳栄軒(武田信玄)
****実際同盟として、武田信玄も軍事行動している*******
如芳翰久絶音問候、抑当秋長尾加州表、可相働之由、依申廻之儀、至信越堺、則御出馬之趣尤珍重候、毎度御入魂之次第不能申述候、弥被加御分別御調略之段可為欣悦候、猶下間上野法橋可申候、穴賢々々
(永禄九年)八月二十六日
徳栄軒(武田信玄)
また、それは一向一揆の激しかった地域が武田信玄の領地から敵地を挟み反対側に多い事からも読み取れる。一向一揆は宗教的反乱ではなく、実態は武田信玄を支援する政略的な軍事活動である。
可哀そうなのは最前線で戦わされたのが「破門するぞ」と脅された信者だったことである。

この時、武田信玄はまだ食料生産地を領有できていない状況にあり、侵略戦争(領土拡大)を止める訳にはいかないと考えていた。そんな武田信玄にとって、足利義昭の「天下静謐」は時期尚早である。そして、足利将軍の上洛は成り上がりの朝倉や織田ではなく、代々守護であり家格の高い武田が主導するべきと考えていた。そのため足利義昭が誰かの助けを得て自分よりも早く上洛するような事がないように、一向一揆を使って時間稼ぎを画策していたのである。
さらには、織田信忠と武田の松姫の婚姻を永禄十年(1567年)十二月に結ぶ一方で、上洛前の永禄十一年(1568年)五月に武田信玄は今川氏真とは次のようなやりとりをしている。
永禄十一戊辰年五月初め、駿河今川氏真甲へ御使を出されて信玄公は伝えた。今川殿所領の、東三河を信玄公に下されよ。信州伊那から続いている地だから、そこを持てば、以前から念願している義元の御弔い合戦を氏真公がなされる場合でも、信玄が加勢に出陣するのに活動しやすいからだ。(略)氏真公はお返事をする。信玄公の御言葉かたじけないこと、しかしながら父義元の弔い合戦については武田信玄を頼み申すにおよばない。良い時期をみて氏真自身で目的を達するつもりである。ことさら氏真の敵である織田信長と信玄が縁者になられたと聞いては、信玄も今は半分敵と考えるものである。(以下略)
これから武田信玄が信長を敵視していた(少なくとも軽視していた)ということが示される。信長と同盟しながら、信長を攻める大義名分を探していたのである。
信長も足利義昭も、武田信玄が加賀や大阪の一向宗勢力と繋がって、上洛妨害を画策しているとは夢想だにしていなかった。
◇
信長が武田信玄の行動が見えなかったように、ビジネスの世界でも競合他社や新規参入に向けた動向を伺い知る事はできない。事業提携の発表や新製品の発表、あるいは、公開特許などで表面化する。表面化してから対応していては、手遅れの場合もある。
見えている現実だけでも、厳しい状況を正しく見るのは難しい。どうしても贔屓目で見てしまうからだ。それ以上に見えない現実は、将棋や囲碁のように数手先を読まないと対応が難しくなる事もある。
将棋や囲碁なら、自分にとって最悪の手を相手が打つと考えて準備する。同じように先を読もうとする時、見えない現実はもっと厳しいかもしれないと考えるだろう。ビジネスの世界では妄想は膨らむばかりである。
とは言え、見えない現実(存在しない幽霊)を怖れて動かないのはもっと問題である。従って、見えない現実は常に心の隅において定期的にチェックすることとし、目の前の現実に誠実に向き合わないといけない。仕組みを上手く導入して忘れないようにしたい。
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関連:
一向宗:元亀争乱参戦7-1 石山合戦8-2 荒木村重8-3
延暦寺:焼き討ち7-3 曼珠院覚恕と武田信玄7-4
主要参考文献など
第5章:参考書籍
信長公記 太田牛一・著 中川太古・訳
甲陽軍鑑 腰原哲朗・訳
武功夜話・信長編 加来耕三・訳
武田信玄 伝説的英雄からの脱却 笹本正治・著
歴史図解 戦国合戦マニュアル 東郷隆・著 上田信・絵
富士吉田市史資料叢書10 妙法寺記 より 御室浅間神社所蔵勝山記
楽市楽座はあったのか 長澤伸樹・著
織田信長のマネー革命 武田知弘・著
サボタージュマニュアル 越智啓太・監訳解説 国重浩一・翻訳
國分東方佛教叢書 第六巻 寺志部 鷲尾順敬・編 (政秀寺古記)
春秋左氏伝 上 小倉芳彦・訳
織田信長の古文書 山本博文・堀新・曽根勇二
三好一族と織田信長 天野忠幸・著
古事記 倉野憲司・校注
日本書紀 井上光貞・監訳 笹山晴生・訳
明智光秀・秀満 小和田哲男・著
歎異抄 千葉乗隆・訳注
足利義昭と織田信長 久野雅司・著
松永久秀と下剋上 天野忠幸・著
織田信長文書の研究 奥野高廣・著
真宗史料集成 第三巻 一向一揆
体系真宗史料 文書記録編5 戦国記記録編
第5章:参考インターネット
鵜飼い
https://www.ukai-gifucity.jp/history.html
本美濃紙
https://www.city.mino.gifu.jp/honminoshi/docs/about.html
公事赦免令
https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000030/ht000410
SIMPLE SABOTAGE FIELD MANUAL(1944年米国戦略情報局:OSS)
https://www.hsdl.org/c/abstract/?docid=750070
小氷期
https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2017/20170104.html
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/656/656PDF/takahashi.pdf
戦国時代の奴隷https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/00bc52b26b9fa6e0fde2415f5f0ef4cb822ae462
https://sengoku-his.com/218
本美濃紙
https://www.city.mino.gifu.jp/honminoshi/docs/about.html
Wikisource: 蓮如上人御文章_(意訳聖典)
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