
現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長 「歸蝶の戦国記」8-2
第8章 狂う歯車・急成長の歪
~組織拡大に伴う難しさ~
第2節 石山合戦・創造性のマネジメント
武田勝頼を長篠の戦いで追い返した信長は、八月加賀・越前を平定する。
一向一揆は降参し助命された後、信長が去ると再び急襲して信長の配下を殺すという事が繰り返された。
「進むは往生極楽、退くは無間地獄」
首を落すまで安心できないのである。これは武田軍も同じである。
河内長島(伊勢)では、信長ですら根切りの判断をせざるを得なかった。慣れとは恐ろしい。この頃には「一向一揆は根切りやむなし」の雰囲気が信長軍の中に広がっていた。信長も追認するようになり麻痺していく。
加賀奥の郡の一揆勢は、信長が帰陣したことを知ってか、攻勢に転じた。羽柴秀吉は「天が与えてくれた好機」と言って反撃し、一戦を交え、屈強な敵の首級二百五十余を討ち取って帰陣した。
それでもまだ、信長は根切りを躊躇うことがあった。それを不満に思っていた秀吉にしてみれば、
「やっぱり出て来た。大義名分ができた。信長様は居ない。ひとつでも多く首をとって報告だ」
だったのである。
こうなると首は誰でもよくなる。屈強な若武者も二歳の幼児も首注文には何某の子と記され首の数の一つである。信長への成果報告が立派になるのである。これは秀吉に限らない。前田利家による激しい処刑の記録もある。(小丸城跡出土瓦・味真野史跡保存会)
信長は、已む無く根切りを指示した。羽柴秀吉は喜んで根切りした。
◇
美濃・尾張で戦っていた頃は、信長は剣豪の名前を知っていた。個々の兵が強い相手を避けないように、無関係の者を殺さないように首実検をした。
しかし、地域が広範囲になり、誰が剣豪で誰が無関係か見分けられない。首注文(文字)になれば、剣豪の首も農民の子供も同じ一行の文字である。現場の指揮官なら、戦いが見えていれば、その違いが分かるかもしれない。だが、それは現場指揮官、羽柴秀吉や前田利家の裁量という事である。
このように組織や戦場が大きくなることで、評価制度、ひいては統率に歪みが発生していた。そのため、この頃には組織外部の大将が降参して新たに配下になる事はあっても、内部からの叩き上げの武将はほとんど出て来なくなっていた。信長の評価対象(視界)に入らないからである。
そして、羽柴秀吉や前田利家のように、信長の意向に反して、理由を探して首を斬る大将は戦果を挙げた。大量の斬首の記録をした首注文(報告書)を何度も信長に提出した。信長の評価が高くなっていった。一方、古くから付き合いがある佐久間信盛は信長の意向に沿って無駄な殺しをしなかった。そのため、相対的に(首注文に記載される数)戦果が少なく見えた。
ビジネス風に言えば、KPIが機能不全を起こして組織文化を変質させたのである。その起点となったのは、市場動向・外部環境であった。この場合、市場動向・外部環境とは、一向一揆や武田軍の戦略である。これに組織拡大という内部事情により組織文化が変質したのである。
一向一揆の戦略=「窮地になったら命乞いをして一揆衆は生き延びろ。
信長軍が(撤収、解散により)少数になったら
後ろから襲い掛かり問答無用に信長軍の将兵の命を奪え」
内部事情=「信長の眼が末端まで届かなくなったこと」
一向一揆や武田軍の戦略への対策が「根切り」であり、羽柴秀吉とその配下が一番冷酷で残忍に振る舞った。ベストプラクティス。先輩同僚の賞賛される行動を真似をする。羽柴秀吉が重用されるのを見て、後から入った有力武将ほど真似するのである。恐らく次点が明智光秀ではないかと思われる。
信長の眼の代わりとなる評価軸KPIが首注文であったため、冷酷で残忍な対応を助長したのである。
◇
越前の一向一揆を収束した信長の次のターゲットは石山本願寺である。
以前は、武田信玄が反幕府の黒幕となり、本願寺顕如が中心になって扇動した。足利義昭が反信長で蜂起してからは、本願寺が足利義昭の拠り所となっている。各地の一向一揆の司令塔であり、信者たちに「戦わなければ破門(死ねば地獄行き)」と言っているのが本願寺顕如である。ここを崩せば、一向一揆に悩まされる事は減るだろう。
石山本願寺の場所は現在の大阪城となっており、当時は巨大な寺内町である。天然の要塞と言える地形であった。当然、苦戦するかもしれないが、本願寺顕如さえ居なくなれば良い。そう思っていた。
ところが十月、信長の意図を察したのか、本願寺顕如が和睦を申し出てきた。そもそも信長は無駄に人が死ぬことを嫌っている。だから、和睦の申し入れを受け入れた。
やはり信長はチョロい。改めて顕如は思った。
天正三年十一月、信長は従三位権大納言兼右近衛大将となり、家督を信忠に譲る。右近衛大将は禁中の警護・行幸の警備を行う近衛府の長官である。「貴族公家の朝廷側」と「武家としての幕府側」があるとすると、朝廷側に信長は位置したのである。だから武家側の地位を嫡男・信忠に譲ったのだ。家督相続の象徴として茶器を譲り、信長は旧友・佐久間信盛の邸に移った。
本来なら、家督を相続した信忠が人事権を掌握しなければならない。しかし、人の意識(特に配下の意識)はそう簡単に変わらない。人に依存する組織体制である事は変わらず、影響力としての信長は織田軍のトップである事は変えようがなかった。そのため家督相続によって指揮命令系統がいくらか不安定になった。
カリスマを父に持つと子は大変である。斎藤道三と斎藤義龍の関係を思い出させる。
天正四年一月、信長は安土城築城を指示、二月には京の二条に邸宅を立てる事にした。足利義昭と上洛した時には頑なに官職や邸宅を持つ事を固辞したにも関わらず、今や積極的にそれらを得ている。やはり意識の変化は大きい。
織田信長はメンタルモデルや自己定義のアップデートを行った。足利義昭のいない前提で新しい秩序を模索していた。まだ形は判然としないが、言わば「新・建武の新政」のようなイメージをもっていたのかもしれない。もしかしたら三好長慶ではなく、平清盛を目指したのかもしれない。とにかく天下静謐のために新しい秩序の構築を急いでいた。
一方で、毛利輝元と上杉謙信は家格が高く、幕府体制の官職も高い。足利幕府という価値観がより強く根付いていた。しかも、信長はまだ新しい秩序を提示しておらず、信長と一緒にいても、どうして良いか分からなくなってしまっていた。
そしてこの頃には、足利義昭の逆心(元亀四年)の時に残っていた対立のマッチアップは変化していた。
毛利輝元にマッチアップしていた篠原長房は、元亀争乱末期に討ち死にしている。それに代わり、中間地域(播磨・但馬)を信長と取り合う状況が生まれていた。
上杉謙信は関東方面ばかり気にして、武田家や一向一揆を相手にする余裕が無く、元亀争乱では蚊帳の外に居た。気が付くと、信長に負けた加賀・越前の一向一揆の残党と武田勝頼が逆に助けを求めるようになっていた。
こうして単なるマッチアップの形ではなく、価値観の対立が表面化する。

足利義昭は毛利輝元を頼り、副将軍の地位を与えると言う。
天正四年二月、悩める毛利輝元は渋々、足利義昭の鞆への動座を受け入れる。それ以来、毛利輝元と信長は絶縁状態になってしまう。
毛利を味方に引き入れた足利義昭は第二の上洛戦を画策する。四月、本願寺顕如が和睦を破り、再び蜂起する。
この時、信長方は一旦、兵を解散させてしまっており、急に兵を集める事ができなかった。そのため初戦で押し切る事ができず、籠城させてしまう。そして長期戦の様相を見せ始めていた。
上杉謙信は元亀争乱で蚊帳の外にいた。それが今や、足利義昭や毛利輝元からのラブレターがひっきりなしに来るようになり、武田勝頼や一向一揆ですら助けを求めてくる。こうなると前回の信長・義昭上洛時と比較すれば、敵が三好三人衆から信長に代わり、義昭を伴う上洛軍が信長軍から毛利軍に変わっただけである。ならば上意(足利義昭)が優先する。そして上杉謙信も信長に敵対行動を取り始める。
〔足利義昭御内書〕
追々染筆候、甲・越幷本願寺門跡半儀、此節遂和与、天下再興之儀頼入候、令三和於上洛者、諸國輝虎可任覺悟事、案中候、然末代可為名譽、得其意、上杉可加異見儀肝要、為其差越
三月廿一日 花押 義昭
川田豊前守とのへ
〔出羽伊達輝宗老臣遠藤基信宛朱印状〕
就謙信悪逆、急度加誅伐候、本庄雨順斎相談、別而可抽軍忠事、専一候也
閏七月廿三日 (信長朱印)
遠藤内匠助殿
〔謙信ニ急ギ出馬ヲ促す〕 毛利輝元書状
(前略)公方様御動座之儀、致御請之趣、得御意候、御懇被仰下、畏入候、
抑貴國賀州被成御和融、當秋可被及御行之由、尤肝要存候、従 上意様、去比以上使被仰進之条、漸可為着國候、(中略)、早々賀州被仰談、御出馬不可有御遅滞候、(後略)
八月二日 輝元(花押)
上杉殿参 人々御中
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〔謙信 義昭ノ上洛援助ノ請ニ應ズ〕 六角義堯書状(六角承禎の子)
今度条々被加 上意之處、以朱印早速被及 御請段、 御感不斜候、
御本意眼前候、弥火急 御入洛之儀、御馳走頼被 思召之由、以 御内書被仰出候、當表之様躰、今村猪介仁申含候、恐々謹言、
八月五日 義堯(花押)
不識庵 玉床下
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〔本願寺 義昭ノ懇請ニヨリ謙信ト和睦セントス〕
眞木島昭光・一色昭秀連署奉書(切紙)
(前略)御内書、重而被差下大舘兵部少輔候、然者、加州之一儀付而、上口御出馬相滞由候間、本願寺に達而被加 御異見、被及御請候、此上者、急度越前表御行肝要旨、 上意候、于今毛利被遂在陣、方々被得勝利条、此節御手合段、可為御祝着通、猶得其意可申入由、被仰出候、恐惶謹言
八月十三日 昭秀(花押)
昭光(花押)
不識院大和尚法印御房 人々御中
ただし、徳川家康は上杉・毛利とは違っていた。もともと家格が低い三河の侍大将である。また、武田勝頼の代になっても武田から見下され、長篠の合戦を経験したばかりである。足利義昭の誘いはあったが信長方についている。松永久秀は、足利義昭を嫌って三好義継を見限ってまで信長についた。当然、信長方に残っている。筒井順慶は何となく様子見していた。
◇
「浮かない顔をされてますね。どうなされました?」
「石山本願寺よ」
「包囲しておられるのですよね。兵糧攻めすれば落ちるのでは?」
「そうしようとした」
「ん?自軍の物資の補給も大丈夫ですよね、時間は味方ですよね」
「そう考えていたのだが、そうはいかないらしい」
「どういう事でしょうか?」
「奴ら、海から補給しておる」
「では、海の補給路を叩けばよろしいのではありませんか」
「それができんから困っておるのだ。毛利の水軍が物資を運びこんでおる」
「叩けないのですか?」
「逆に火を放たれて、沈められた」
信長の指示
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其面の麦悉薙ぎ捨て候哉、猶以って油断無く申し付くべき事専一に候、然して隙を明け候はゞ、大阪籠城候男女の事は、相免ず(べく)候間、早々罷り出ずべきの旨、口々に札を立てて然るべく候、坊主以下用にも立ち候をば、赦免すべからず候、其意をなすべく候也(下略)
四月三日 (信長朱印)
惟任日向守とのへ
長岡兵部大輔とのへ
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中国寄り大阪へ、船手を以って兵糧等を入れ置くべきの旨、風聞に候、事実に於ては、当国の関船を出し、追落さるれば、尤も以って粉骨たるべく候、猶三好山城守申すべく候也、謹言、
五月廿三日 (朱印)
安宅甚五郎殿
そうこうするうちに海上では、敵は焙烙火矢というものを作り、味方の船を包囲して、これを次々に投げ込んで焼き崩した。(中略・討ち死にした)安芸の水軍は勝利をおさめ、大阪へ兵糧を補給して、西国へ引き上げてしまった。
天正四年七月、第一次木津川口海戦での敗戦である。
「何とかできそうなのですか」
「水軍は個々の技量が大きく影響する。奴らは慣れておる」
「でしたら、技量以外で何とかしないといけませんね」
「技量以外か・・・」
「勝てなくても、補給を邪魔できればよいのですよね」
「まぁ、そうだ」
「つまり、追い打ちをかける必要は無い。退いてくれたらそれで良いと?」
「そうだ」
「塀や壁で囲うようなことは・・・出来ないのですよね」
「大きさを考えよ。どれだけの人足が必要となるか。想像しとぉないわ」
「とすると、やはり水軍になるのですね」
確認するようにつぶやくと、胡蝶は少し考えた。
「人で負けるなら、道具で勝つしかありませんね」
「やはりそうなるか」
「道具と言えば船。船と言えば、安宅船。甚五郎殿でしょうか?」
「甚五郎は駄目じゃ。今回の戦で使い物にならなんだ。運ぶのは上手くても、戦いに向かんようじゃ。頭が固い」
「そうしますと誰に話をするのですか。岡部の棟梁を呼びますか?」
元亀争乱の時、琵琶湖に大船を浮かべた時を思い出し、胡蝶はその時の船大工、岡部又右衛門を思い出していた。
だが、信長は少し考えると別の名を挙げた。
「そうよな。(九鬼)嘉隆と(滝川)一益に任そうと思う」
「嘉隆殿は分かります。一益殿ですか」
「河内長島の一揆勢討伐のおり、なかなかの安宅船をこしらえておった」
「そうでしたか」
「どう思う」
「どうと言われましても」
河内長島の一揆の様子を見ていない胡蝶には答えようがない。少し考えて、人選については、信長を信じる事にした。
「その二人で良いと思います。ただ・・・」
「ただ、なんじゃ」
「船頭多くして船、山に登ると申します。棟梁にするのであれば一人にすべきかと。二人を呼ぶ理由は何でしょう」
「二人に競わせようと思う」
「それはまたどうして」
「一人だと一つの案にこだわるだろう。それでまた負けたら如何する」
「取り返しがつかなくなる恐れがありますね」
「二人で競わせて、二つの案があれば、どちらかが失敗してもどちらかが成功すれば、それで良い」
「ふたりがバラバラに手配をすれば、無駄が増えるのではありませんか?」
「いくらかは承知の上だ」
「単に無駄が増えるだけでなく、互いに足の引っ張り合いをしませんか?」
「あの二人なら恐らく大丈夫だ。互いに良く知っておる」
「そうは言われましても、意図をはっきりさせないと下々が迷います」
「まぁそうか」
信長は少し考えた。
「一益には旗艦を、嘉隆にはその周りで範囲を守る何隻かを作らせる」
信長の伺うような目線を感じて、胡蝶は答えた。
「良い所は互いに採用し、互いに切磋琢磨する。そんな動機付けになれば、良いと思います。それを二人にうまく言い含めておく必要があります。言葉にするのは大事です。信長様」
翌日、(九鬼)嘉隆と(滝川)一益が岐阜城に呼び出され、信長から指示を受けた。
「焙烙火矢を受けても燃えない船を作れ」
二人は協力して新型船を開発する。
◇
現代の技術の移ろいは速い。特許で守られる期間は20年であり、その後は単純にコスト勝負になる。だからこそ常に開発し続け、競合他社に先んじる必要がある。特にIT(デジタル)技術は、その速度が速い。
技術開発や研究開発のマネジメントには、他の業務と異なる点がいくつかある。その理由は業務の質が異なる事にある。
①熟練度による差はあるが、作業量とアウトプットの関係が明確な業務
②知識量による差はあるが、作業量とアウトプットの関係が不明確な業務
多くの業務は①に分類される。仕事の効率や品質は個人差がある。しかし残業すれば作業は終わる。クリエイティブな業務は②になる。もちろん、クリエイティブな業務でも、多くの場合、試行錯誤が必要であり、試行錯誤の回数は残業時間を増やしたり、アルバイトを増やせば早く終わる。しかし、競争力のあるアイデアが出る訳ではない。エジソンの言う「1%の閃き」がなければ、競争力のある技術は生まれない。
「1%の閃き」を生む手法はいくつか提案されている。そうしたものを活用するのは良い。それ以上に「1%の閃き」を阻害しない事も重要である。
スター、ウィザードと呼ばれるクリエイターは個性が強いケースが多く、その発想法も個人に拠る。手を動かして考えを纏める人がいれば、歩き回った方が良いアイデアが浮かぶ人もいる。
また、思いつくタイミングは予想できない。中国の欧陽脩は、三上(馬上、枕上、厠上)が良い思い付きの場所と言っている。情報を集め、必死に考えた後、ふっとリラックスした瞬間にアイデアが降りてくる事が多いと思われる。
そんな人に余計な仕事をさせてはいけない。思考を中断させるような雑用をさせてはいけない。気分転換は良い。しかし、思考が中断されると生産性が著しく落ちると予想できる。アイデアが降りてきても忘れてしまう。
クリエイターはとにかく業務に集中させる事が重要である。
開発系のマネジメントが難しいのは、特にクリエイティブな仕事ほど、外から見ていてその効率が分からない事である。目を瞑って椅子に座っている時、何を考えているのか分からない。単に晩御飯のメニューを考えているかもしれないのだ。
いつ思いつくか分からないのに、結果指標による評価は難しい。何をしているのか分からないのに行動指標による評価も難しい。それでも観測できないものは評価ができない。評価ができないと、本人だけでなく周囲にも不満(不公平感)が蓄積する。
そのため、むりやりにでも評価軸を作ることになる。それは研究対象や開発アイテムに依存する。そして、その管理指標は、結果評価と行動評価をバランスよく組み合わせることになるだろう。
◇
九鬼嘉隆は黒船を六隻、滝川一益は白船を一隻建造した。どちらも耐火性を持たせるために、金属(薄い鉄)で表面を覆わせていた。色は塗料による違いであった。大型の白船には大筒を積載した。
天正六年十一月、第二次木津川口の戦いでは、これらの船が威力を発揮して信長軍は勝ち、石山本願寺への海路からの兵糧補給を絶つことに成功したのだった。
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関連:
KPIの機能不全:1-1
メンタルモデルと自己マスタリー:7-5
斎藤道三と斎藤義龍の世代交代:3-4
主要参考文献など
第8章:参考書籍
信長公記 太田牛一・著 中川太古・訳
甲陽軍鑑 腰原哲朗・訳
武功夜話・信長編 加来耕三・訳
織田信長文書の研究 奥野高廣・著
織田信長の古文書 山本博文・堀新・曽根勇二
織田信長文書の世界: 永青文庫 公益財団法人永青文庫・他・編
大日本史料第十編 東京帝國大學文学部 史料編纂所編集
第8章:参考インターネット
Wikipedia