
現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長 「歸蝶の戦国記」7-5
第7章 元亀争乱・裏切られる信長
~振り回される正直者~
第5節 義昭追放と天正改元・自己マスタリ―とメンタルモデル
元亀四年(1573年)二月十三日、足利義昭が反信長を掲げて蜂起した。それに呼応して本願寺顕如は近江の一向衆を蜂起させ、その事を武田信玄に報告している(『顕如上人御書札案留 二月廿七日付』)。また、浅井長政は武田信玄に美濃・尾張への出兵を望むと伝えており、その中で足利義昭の御内書を信玄に遣わすと記している(『土屋文書 武田左衛門(穴山信君)宛 二月廿ニ日付』)。いわゆる信長包囲網である。
信長にとって足利義昭の逆心は、浅井長政、武田信玄に続く、晴天の霹靂であった。ただ、足利義昭の逆心は、浅井長政や武田信玄の裏切りとは本質的に異なる衝撃があった。軍事的な窮地という面はあるが、それは今までにも何度も経験してきた。それを乗り越えて現在がある。
足利義昭の逆心は、それに留まらない。信長の価値観や行動規範の根幹を為す幕府体制から排除されたという事である。これにより信長はメンタル面で問題を抱えることになる。
もっとも信長がブチ切れて書いた異見十七条が、最終的に足利義昭を決定的に怒らせたのである。ある意味、信長の自業自得でもある。
「あぁ、何してんのよ」
「すまん」
呆れたように詰め寄る胡蝶に、困ったように信長は答えた。
「すまんじゃないわよ」
「・・・」
胡蝶に怒られるのは、久しぶりである。
「信長様の言う事は正しい。でも、言い方ってあるでしょう?こんな言い方したら公方様も引けないでしょう?その上、市中に写しが出回るだなんて」
「・・・」
「仲直りできそうなの?」
「やってみる」
「どうするの?」
「細川藤孝を遣いに出して、説得してもらう」
「それでうまくいくなら良いわ。でも、ダメならどうするの」
「・・・」
「とにかく仲直りしたいのよね」
「もちろんそうだ。相手は幕府の将軍様だ」
(その将軍様に喧嘩売るような真似したのは誰よ)by胡蝶
「ダメだったら、朝廷に仲介を頼めないの?朝廷なら公方様も無視はできないでしょう?」
「だが、朝廷は武田一派の影響下にある」
「そうだったわね。覚恕様もいるわね。じゃぁ、朝廷も敵なのね?」
イラッとした胡蝶はやや強めの語調で詰め寄った。
「いや、そうは言っていない。だが、朝廷は公方様の庇護下にある。京は公方様の直轄地だ」
一瞬の沈黙の後、胡蝶が尋ねた。
「もし、相手が公方様でなかったらどうしたと思う?」
信長は少し考えて答えた。
「攻めるだろうな」
「そうよね。お市のいる浅井も攻めてますものね」
完全にフリーズしていた信長の頭が回り始める
「そうか、山城を落せば、朝廷と直接交渉ができる・・・か」
「えぇ、力ずくで。他に方法があるなら良いけど、あるの?」
「思いつかん。ダメならそうするか」
信長にも他に良いアイデアはなかった。当面の方針が決まり、信長は次の行動を考え始める。その様子をしばらく見ていた胡蝶は再び口を開いた。
「まだ、結論は出ていないわよ」
「ん?」
「朝廷の仲介でもダメだったらどうするの?」
「・・・困るなぁ」
信長は小さく呟いた。
「困るなぁじゃないわよ」
胡蝶が返す。そして、助け舟を出すように続けた。
「三好長慶様はどうしていたのでしょうね」
「そうか。義輝様が京に居ない時は、三好長慶が朝廷の面倒を見ていたな」
三好長慶は、仲違いした足利義輝を京から追い出している。足利義輝は京に戻るまで朽木に住んでいた。その間は、三好長慶が、まるで幕府の代行者のような働きをしている。しばらく互いに頭を冷やした後、三好長慶は足利義輝と和解して京に迎えたのである。
「三好長慶様のようにできない?」
「・・・まあ、そうなのだが」
信長は、嫌々ながらという雰囲気で答えた。
「そうすると、何から始めるの?」
「まずは、書状を送って和解をさぐる」
「上手く行けば、それで良いわ。それでダメだったら?」
「都を制圧して、朝廷に仲介を願う」
「それでもダメなら?」
「それでもダメなら、・・・三好長慶のように幕府を代行する・・・か」
「そうね。じゃ、都は簡単に制圧できるの?」
「それは容易い。都の表(坂本)も裏(若狭街道)も既に抑えてある。背後は取られない。相手は槙島の公方様だけだ。力押しで落とせるだろう」
「そう。じゃぁ、最後に。幕府を代行する時、方針はあるの?何をどうしたいの?」
「・・・?」
「信長様は、公方様に殿中御掟や異見十七条を突きつけられました。それには何か思うところがあったのでしょう?それは何なのでしょうか?」
「幕府としての秩序を守って欲しかった」
「それはどうして?」
「幕府が正しく機能していれば、無駄な殺し合いをする必要はない」
「そぅ・・・」
胡蝶は小さくため息をついて、続く言葉を飲み込んだ。
会話はひと段落ついたのだが、まだ信長の心中はモヤっとしていた。
尾張・美濃の戦いは、目の届く局地戦であった。しかし、上洛以来、戦の規模が大きくなり、戦場内ですら目が届かないところが増えてきた。領国が増え、戦地から戦地の距離が延び、全方位を見る事が難しい事を痛感した。権限移譲が不可避になった。どうすれば良いか手探りになった。
さらに、信長の内面に大きなストレスがかかる。
これまで信長は幕府ありきで思考してきた。幕府の政は将軍の仕事。外様大名の自分には関係ないと割り切っていた。その上で幕府法や既存秩序に沿って「かくあるべし」と考えてきた。
それが足利義昭の逆心で足元から崩れた。これまでの価値観の基盤とも言える幕府から排除された。拠り所がいきなり失われた。戦に負ければ殺される。勝てば幕府の政をやらなければならない。
信長はこの時、自己定義、または自己認識の再構築を迫られていた。
◇
自己定義とは「自分とは何者か」である。自分を自分で定義する自己認識である。これに固執する事、それがピーター・センゲの『最強組織の法則』に記される7つの学習障害の一つである。
①職務イコール自分
②敵は向こうに(責任・原因は外部にあるとして、反省しない)
③積極策という幻想(間違った対応で行動しているのに、
行動している事で免罪符にしようとしている)
④個々の出来事にとらわれる
(枝葉末節にこだわり、本質を見ない。対症療法に終始)
⑤ゆでられたカエルの寓話(重症疾患はゆっくり進み、認知しない)
⑥体験から学ぶという錯覚(特に組織では異動があるため、
判断・実行する者と応答・評価を受ける者が異なる場合が多い)
⑦経営チームの神話(問題を究明する者よりも、
会社の考え方を擁護するのに秀でた人間を高く評価する)
こんな事例が紹介される。あるメーカーが工場を閉鎖することになり、仕事を失う作業員に新しい職種への職業訓練を提供した。だが、この訓練は根付かなかった。調査すると「そんな事ができるわけない。旋盤工なのに」という回答が得られた。これが「職務イコール自分」である。
こういう作業員は、概して作業員として優秀である。しかし、全く異分野の新しい事を学ぶ事ができない。米国のようなジョブ型社会では、特に自分の職務や職業にアイデンティティを重ねている事が多く、リスキリングを阻害する。
日本のようにメンバーシップ型の社会では影響は小さいが、それでも似た現象はある。文系・理系、或いは学歴で自己定義する人が少なくない。
「私、文系だから数学わからない」
他にも、スタッフが昇進してマネージャーになる。そんな時にアイデンティティのアップデートが必要になる。
新しいスキルを身に付けたり、新しいポジションに就く時、自らの意思で前向きに取り組む姿勢(または状態、プロセス)を自己マスタリ―という。
これは自己定義(アイデンティティ)のアップデート能力とも言える。
心の準備ができていれば、自己定義のアップデートは比較的容易になる。大企業などでは、キャリアパスという形で明に暗に提示され、早い段階で心の準備を促される。周囲に同じ立場の人がいて安心できる。
心の準備ができていない場合、自己定義の再構築は容易ではない。人生の価値観の基盤を揺さぶる。大きな不安感を引き起こす。その不安感は地位や機能のギャップが大きいほど大きくなる。
既存の自己定義への固執が、失業者が再就職できなかったり、再就職しても馴染めないという話に繋がる。
「営業しかやったことないのに、プログラミングなんてできない」
リスキリングが浸透しない大きな原因の一つと考えられる。
この頃までの信長は、「外様大名イコール自分」だったのである。信長は足利義昭の逆心により、突然、幕府から排除された。言わば、突然会社から解雇を言い渡された状況である。
しかも信長の場合、絶対的存在として幕府体制があり、その中で外様大名は定義される。「かくあるべし」という認識、「こうすれば、こうなる」という外部環境への理解をメンタルモデルという。
信長の外部環境への理解は、幕府体制が軸にある。信長の場合、メンタルモデルと自己定義は表裏一体の関係にある。
その幕府体制が絶対的でない事に気付かされた。幕府への信頼感がなくなり、信長の中のメンタルモデルも不具合を起こしていた。
現代で言えば、会社をクビになって、ハローワークへ行こうとしたら、国の制度も社会の仕組みも全く知らないものに変わっていて、どうして良いか分からない、という感じである。
信長にとって足利義昭の逆心は、自己定義とメンタルモデルを同時にアップデートを強要する出来事なのであった。
◇
本願寺顕如は各地の近江の一向衆を蜂起させた。これらは柴田勝家や明智光秀によって鎮圧される。本願寺顕如や浅井長政は武田信玄に濃尾への侵攻を依頼した。これも回答は無かった。その武田信玄は二月十六日に野田城を落とした後、間もなく甲府へ帰陣してしまっていた。
二月廿六日付で、信長は細川藤孝に相談し、二月廿九日付書状を細川藤孝に託し、仲介を依頼している。信長は十二箇条の条件を全て承諾し、さらに自分も人質を出すから和睦を、と申し出た。
細川兵部太輔殿 信長」
芳簡、殊十二ケ條之理共、具聞届候、被入御精候段、不勝計事に候、
一、公方様へ嶋田・友閑を以、甚重に御理申半候、被聞食直、入眼に付而、奉公衆の質物共可参候間、信長質物をも可進上候、
一、公儀其之質物之事被仰下之由候、某信長於上洛者、平均に可申付之條、乍恐可被御心安候、天下再興本望候、其之御事、連々雖入魂候、以来猶以不可有疎意候、京都・摂・河邊之儀、追々御注進大慶候、彌無御油斷才攪簡要に候、恐々謹言
二月廿九日 信長(花押)
だが、足利義昭は細川藤孝の仲介を退ける(『細川家記』)。そして信長への対決姿勢を強くする。
四月に入ると、信長は仕方なく京に攻め上り、御所近くの上京にて、禁制を求めなかった者たちを焼いて、足利義昭と朝廷に圧力をかけた。この段階でも、信長は幕府に未練を残している。関係を改善し、幕府体制に戻る事しか頭にない。そのことは徳川家康に送った書状に綴られている。
信長義昭ヘノ忠節ハ変ラズトイフ 二日三日洛外ヲ火ク 四日上京ヲ火ク
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〔古文書纂〕
(前略)
今度公儀不慮之趣、子細舊事候哉、於身不覺候、君臣御間与申、前々忠節不可成徒之由相存、種々雖及理、無御承諾之條、然上者成次第之外無他候て、去二日三日両日洛外無殘所令放火、四日に上京悉焼拂候、依之従其夕無為之儀取頻御扱之條、大形同心申候、於時宜者、可御心易候、猶大六可申候、恐々謹言
卯月六日 信長(天下布武の黒印)
三河守殿
進覧之候
信長が一方的に放火した事で、朝廷の庇護者として、足利義昭には十分な力が無い事を朝廷は認識せざるを得なくなった。朝廷は両者の和解を仲介する。朝廷の仲介を得て、四月七日、信長は岐阜に帰陣する。足利義昭は朝廷の仲介に渋々合意した。
四月十二日、武田信玄は死去する。死因には病気説(『三河記大全』他)や銃創説(『松平記』他)がある。武田信玄の書状は三月六日、岩村城の秋山伯耆守宛てに東美濃への遊撃を指示したものが残っている。少なくとも銃撃による即死ではない。
この物語では、武田信玄の死因は体内に残った銃弾による鉛中毒である。もともと持病があり、鉛中毒で悪化したのである。当時の医学知識では病死と判断されたことだろう。
武田信玄の死去に伴い、勝頼が家督を継ぐ。表向き信玄は隠居とされる。武田信玄は三年隠匿するように遺言を残したとされる。だが、六月頃には武田信玄の死は上杉謙信に知られている(『赤見文書』)。七月には信長から毛利に武田信玄の死が伝えられている(『大田荘之進氏所蔵文書』)。一方で、本願寺顕如は武田信玄に勝頼の家督相続を賀している(『顕如上人御書札案留』)。武田信玄は生きていると信じていた。いや、信じたかった。
◇
信長の狙い通りに足利義昭と和睦したにも関わらず、新しい状況は信長を悩ませる。信長は仲介を朝廷に依頼したことで朝廷と繋がりを持った。借りを作った。足利義昭が幕府の仕事をしないため、信長に朝廷側からの要望が直接届くようになっていたのだ。
しかし、幕府内では、信長は足利義昭に会えずにいた。信長が足利義昭に直接話そうとすると、自ら定めた殿中御掟に自ら反する事になる。しかし、足利義昭はかつて三好義継・松永久通に向けていた嫌悪を信長に向けており、信長と会う機会を作らない。
そのような状況で時間だけが過ぎていた。そして、足利義昭が再び戦の準備をしているという話が信長の元に届いていた。
「どうするつもり?信長様」
「どうするって?」
「こうなってしまったからには、幕府の政を代行するのでしょ?」
「・・・」
「当面は良いとして、ずっとそうするの?将軍家が戻るとは限りませんよ」
信長は黙ってうつむいた。幕府の政をやるのは、相当に嫌なようである。
察した胡蝶は、質問を変えた。
「ねぇ、幕府って何なのかしら?」
「何なのだろうな。世の中を治めるための仕組み・・・かな」
思ったよりも簡潔な答えが返ってきて、胡蝶は驚いた。ここ数ヶ月、信長は信長なりに考えていたのだろう。だが、信長の目線は外に向いていた。
「じゃあ、将軍家は?」
「そうだな・・・。幕府を作った人の血族だな」
「つまり、誰かが最初に幕府を開いたのよね」
信長が胡蝶に向き合うと目が合った。
「足利尊氏だな」
「鎌倉は源頼朝でしたわね」
ふたりは、敬称を付けなかった。一瞬の沈黙が二人の間に流れる。
「初代の二人はどうして幕府を開いたのかしら」
「世の中が乱れたから、秩序をもたらそうとしたのだろう」
「そうなのでしょうね。で、今は?」
「乱れておるな」
「以前、公方様に幕府としての秩序を求めた、と言われましたよね」
「言ったな」
「で、どうなさるのですか」
「さて、どうしたものかな」
言葉とは裏腹に、信長の表情から虚ろな感じが消えたように見えた。その表情を見ると胡蝶は少し安心した。
(大うつけ殿が帰ってきたかしら?)
前を向いた時の信長は面白いのだ。
「好きになされませ」
そう言うと胡蝶は笑顔で送り出した。
◇
七月三日、足利義昭は三淵藤英に命じて二条城にて、義昭自らは山城槙島城にて再び兵を挙げる。
信長はすぐ、毛利輝元に事の次第を報告している。信長はまだ、義昭との関係改善に未練を残しているが、内心ではほぼ諦めつつあった。この書状では、今後の事は諸家と相談したいと伝えている。
将軍家のコトハ諸家ト議セントス
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〔大田荘之進氏所蔵文書〕
御逗留不實候之條、定於遠國可為御流落候歟、誠歎敷候、不時御退座之子細、甲州武田病死、越前之朝倉不可有差働候、三好以下不足敷候間、別に可被及御行様無之候、如此之由、況天下被棄置上者、信長令上洛取静候、将軍家事諸家遂議定、可随其候、不相易御入魂珍重候、随而御分國中無別儀之由肝要候、猶期後音候、恐々謹言、
七月十三日 織田弾正忠 信長
毛利右馬頭殿 進之候
信長はすぐに京に兵を出し、二条城の三淵藤英を下す。七月十八日には槙島城の足利義昭を落す。足利義昭は嫡子・義尋を人質に出し、槙島城から追放された。そして足利義昭は、三好義継の居城・若江城に向かった。
この直後の七月廿一日、信長は何度も朝廷から言われていた改元を持ち出す(『御湯殿上日記』)。これは異見十七条にも書いていたことである。
一、元亀の年号は不吉なので改元したほうが良いと、世間一般の意見に基づいて申し上げました。宮中からも御催促があったそうですが、改元のためのわずかな費用を献上されないため現在まで延引しております。このことは天下のためなのですから、怠るのは良くないと思います。
もともと改元は朝廷の意向であった。とは言え、この状況での改元は三好長慶が永禄の改元を行った時を彷彿させる。
改元は本来、将軍家・幕府の仕事である。十三代将軍・足利義輝も改元を渋っていた。三好長慶は足利義輝と仲違いすると、足利義輝を京から追い出した。足利義輝は近江の朽木に移り住む。
京を支配する三好長慶は朝廷と相談して永禄に改元する。三好長慶が改元した時、足利義輝は激しく反発し、古い元号を使い続けたという。その後、仲直りして足利義輝は京に戻るが、永禄の変で三好義継・松永久通に討たれている。
今まさに、足利義輝の地位に足利義昭が、三好長慶の地位に織田信長がいるのである。
そして七月廿八日、信長は天正に改元する。高辻長雅の勘文から「貞正、安永、延禄、天正、文禄」が提案され、また、東坊城盛長の勘文から「寛永、明暦、永安」が提案された。これらから信長は「天正」を選んだ。
◇
従来、信長は最初から天下取りを目指して尾張から下剋上してきたと考えられてきた。しかし、それは近年の研究で見直しが行われている。
信長は当初、家を守る事に注力した。その後は幕府制度の下で外様大名として民のために豊かな国造りを目指した。尾張と濃姫の美濃の二国で満足していた。それが上洛により、半ば強制的に守備範囲が広がった。
ところが元亀争乱を経て、幕府の主体である足利義昭が信長を切り捨てた。信長の価値観の基盤(幕府の再興)を破壊した。この時、信長はアイデンティティの危機に見舞われた。
そのため、否応なく、信長は自己定義をアップデートした。信長に天下人の自覚を促したのである。
「天正」への改元は、この物語の信長が、今後、幕政(国政)に関与するという意思表示だった。ただ、この時点では天下取りや、その後の政治体制までは考えていない。しかし、その起点となった。これから手探りの国造りが始まる。
◇
この後、追放された足利義昭は若江城を経由して紀州宮崎浦へ落ち延びる。紀州から毛利に助けを求めるようになる。毛利は対応に困り、足利義昭の上洛を仲介する。(〔吉川家文書〕十二月十二日付、安國寺恵瓊から山縣越前守・井上又右衛門尉宛ての書状)。
毛利は何度も打診してきており、足利義昭の上洛について信長も承諾していた。しかし、なかなか話は進まなかった。
信長方の交渉役は、これまで足利義昭に仕えてきた穏健派常識人・細川藤孝ではなかった。細川藤孝は、何度諫言しても足利義昭に受け入れられなかった上に、自分を討とうとした足利義昭との交渉は固辞したと思われる。
〔細川家記・異見十七条を出す前後の話として〕
藤孝かく忠有て私なしといへとも、上野か讒によりて将軍甚憎み給ひ、近習に仰て討しめん事をはかり給へとも、誰有て組し奉る者もなかりけれハ、信長を召て、急に藤孝を誅すへき旨を命せらる。信長大に驚き、藤孝か如き勤労抜群にして、一事の不義なし、然るを誅せられんニハ、巳後忠を勵ます者有へからす、(後略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
細川藤孝を誅殺すべしと言った上野は、河野島の戦い(第一次上洛戦)で、「信長乱入」と報告した人物と同一人物(または親族)と推察される、武田信玄の手の者である。
細川藤孝の代わりに朝山日乗と来たのは農民上がりの強硬派無頼漢・羽柴秀吉である。
この時点で信長の意思は「任せた。結果はどちらでも良いよ」くらいになっていた。
交渉相手が羽柴秀吉になった事で、足利義昭は身の危険を感じたのか、上洛にあたり人質を要求した。
元亀四年二月に足利義昭が蜂起した時には、信長は十二箇条の条件を全て呑み、さらに信長自らも人質を出して和睦と請うた。だから、今回も同様の対応を求めたのだ。
だが、羽柴秀吉はそれに反発する。状況は大きく変わった。この時には、武田信玄は死に、浅井・朝倉は滅亡し、松永久秀は降伏した。信長と朝廷との関係も良くなった。信長が譲歩する強い理由が無くなったのだ。
一旦、まとまりかけていた足利義昭の上洛だったが、羽柴秀吉が足利義昭の要求を拒絶して流れる。
翌年、足利義昭が六角承禎に送った書状が残る。
信長ノ請ヲ卻ケ紀伊ニ移座セル旨ヲ六角承禎ニ報ズ
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〔織田文書〕
今度信長頻可歸洛由、雖差越使申、為不可承引、至紀州相移候、
其表無心元條、染筆候、方々計策油斷候間、本意眼前候、
彌忠節肝要候、猶昭光槇木嶋可申也、
正月十六日 (義昭花押)
佐々木左京太夫入道とのへ
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信長が何度も帰洛の(京都に戻る)使者を送ってきたが承諾しなかった。
信長は念を押すように、足利義昭の歸洛(京都へ戻る)の意思を確認したようである。
だが、足利義昭がこれを断り、信長を討つ事に計略を巡らせていた。もしかすると「信長は歸洛を請うてきたが、蹴ってやったぜ」と足利義昭が強がりを言っているだけなのかもしれないが。
少なくともこの頃までは、信長は足利義昭を将軍として扱っている。
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関連:
主要参考文献など
第7章:参考書籍
信長公記 太田牛一・著 中川太古・訳
甲陽軍鑑 腰原哲朗・訳
武功夜話・信長編 加来耕三・訳
織田信長文書の研究 奥野高廣・著
言継卿記 山科言継・著
中世法制史料集 第二巻 室町幕府法 佐藤進一・池内義資・編
室町・戦国時代の法の世界 松園潤一朗・編
シリーズ室町幕府の研究2 足利義昭 久野雅司・編著
織田信長の古文書 山本博文・堀新・曽根勇二
大日本史料第十編 東京帝國大學文学部 史料編纂所編集
織田信長・不器用すぎた天下人 金子拓・著
近江浅井氏の研究 小和田哲夫・著
最強組織の法則 ピーター・M・センゲ・著
世界はシステムで動く ドネラ・H・メドウズ・著
ブラジルに雨が降ったらスターバックスを買え ピーター・ナヴァロ・著
織田信長延暦寺焼き討ちの考古学的再検討 兼康保明・著
比叡山諸堂史の研究 武覚超・著
比叡山の僧兵たち 成瀬龍夫・著
謙信✕信長 乃至政彦・著
織田信長 戦国時代の正義を貫く 柴裕之・著
足利義昭と織田信長 久野雅司・著
真宗史料集成 第三巻 一向一揆
第7章:参考インターネット
国立公文書館デジタルアーカイブ「年代記抄節」
https://www.digital.archives.go.jp/img/1209893
国書データベース『讀史餘論 著者・新井白石』
Wikipedia
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