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現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長          「歸蝶の戦国記」7-6

    第7章 元亀争乱・裏切られる信長
     ~振り回される正直者~

    第6節 三好義継の討伐・サプライチェーンのBCP

     元亀四年(1573年)七月、足利義昭が和睦を破り蜂起する。意識変革を経た信長はすぐに行動を開始する。そして、弱い順に潰していく。まずは槇嶋城から足利義昭を追放し、京を信長の庇護下に置く。次いで、八月には朝倉義景を滅ぼし、そのまま九月一日には浅井長政を討っている。

    ◇

     織田家のルーツとなる織田の庄がある越前の朝倉義景とは、もともと仲が悪かった。というより、一方的に嫌われていた。だから容赦はなかった。
     一方、浅井長政は妹・お市の婿である。信長は親しくなった者に対しては、1回目の謀反は許し、2回目で厳罰にする傾向がある。浅井長政についても、赦免しようとした可能性が高い。
     しかし、『信長公記』は次のように記す。

    翌日、信長もまた京極丸に入り、浅井長政・赤尾清綱を切腹に追い込んだ

    『信長公記』 

     一方、『織田軍記』(別名:総見記)では、信長は浅井長政に助命すしようとしたと伝える。浅井長政は父・久政と一緒なら、と助命を受けようとするが、一昨日に父・浅井久政が切腹したと知ると、汚名は受けないと言って自ら切腹したという。
     『織田軍記』は、現代の歴史研究では史料価値が低いとされる。しかし、『織田軍記』は創作物語ではなく、『甫庵信長記』をベース史料として、後から発見した資料や調査による(江戸時代の)研究論文として見るべきである。『織田軍記』の後書きには、老人から聞いた事、諸家の秘伝書などを集め、不足を補い、重複を省き、八年かけて作成したとある。そう言う意味では現代の歴史研究論文と同列で見るべきである。
     一人の研究者として遠山信春を見て、内容の正否は別途議論されるべきである。しかしもし『甫庵信長記』と比べて大きな違いがあれば、それは遠山信春が発見した何かがあったと示唆される。貞享二年(1685年)には、今となっては失われた史料があったのかもしれない。

     総見記二十三巻、記織田信長公一代之事跡、而名以其諡者也、先是有小瀬甫庵者又著信長記、其中取捨未然、然而脱漏為不寡矣、於是摭耆老之口實、集諸家之秘記、補其不足、省其有餘、以欲為全書、精選八年草稿乃成、
    (以下略)
      貞享二年歳次乙丑﨟之一日遠山信春謹記

    『織田軍記』(別名:総見記) の後書き

     『信長公記』では、浅井久政・長政を切腹に追い込んだのは八月二十八日である。『甫庵信長記』は二十九日。『武徳編年集成』『織田軍記』は九月一日に切腹する。
     『武徳編年集成』は徳川吉宗に献上された江戸時代の歴史研究書である。当然、徳川家や御家人衆への忖度そんたくが働いている。それでも、創作した軍記物とは一線を画すると考える。
     さらに、『甫庵信長記』をベースにした『織田軍記』が九月一日を示す。即ち著者・遠山信春は何らかの史料を得て『甫庵信長記』から記述を差し替えたと考えられる。それは『武徳編年集成』と同じ史料かもしれない。
     これは大きな相違点である。なぜなら、浅井長政が片桐直貞に送った感状が残っており、その日付が八月二十九日付だからである。これより切腹した日は『信長公記』の記述が明らかに不正確なことが分かる。羽柴秀吉は浅井攻めの先鋒であり、この武功により小谷城(北近江)を賜った。日付を間違えるとは考え難い。豊臣秀吉には何か理由があって、『信長公記』の記述を二十八日に改ざんさせた可能性がある。

     また、信長が浅井長政を助命しようとしたと伝えるのは『織田軍記』だけではない。最前線に居た羽柴秀吉の配下・前野家に伝わる『武功夜話』も同様に伝える。

    これにより、使者を備前(長政)のもとに派遣、開城をもって家来共ならびに一命の助命を申し伝えたが、浅井備前は武門の意地をもって応じず、覚悟の自害をして果てたのであった。

    『前野家文書・武功夜話』

     そして『織田軍記』では浅井長政の切腹の後、残った従者たちが暴れる。最後に浅井石見守と赤尾美作守が生け捕りとなる。その後の信長の言動が興味深い。

    美作は何とも申さず屈服し居たり、美作が子赤尾虎千代、生年十五歳、いづくよりか馳せ来つて御前に罷まかり出て、父が介錯かいしゃく仕つかまつり度候ふ間、御慈悲を以て介錯の事御免なされ、其後某それがしをも誅ちゅうせられ下さるべしと申上ぐる、信長公御感涙ごかんるいをたれられ、扨々さてさて稀まれなる童わらわ哉かな、敵ながらも其様の者は、孝義を感じて助け置くべしとて、美作が目の前にて赤尾が親類、多賀休徳斎を召され、是を汝に預くるぞ、たすけ置いて養育せよと仰つけらる、(以後略)

    『織田軍記』(別名:総見記) 浅井父子自害事

     ここで助命される虎千代は後の赤尾清冬である。清冬は宮部継潤に仕えた後、因幡国諸磯城代になっている。

     『信長公記』の描く、ただ冷酷に残虐に敵を追い詰め、合理的で間違うことのない英雄・信長ではなく、『織田軍記』の描いた人情に厚い人間・信長がこの物語の信長の人物像である。
     この信長は、立場があって、口にこそ出さなかったが、妹婿・浅井長政を助けられなかったという思いがあった。そこへ、父・赤尾美作守を介錯した後、自分も死のうとする子・虎千代。それを見た信長は、切腹した父・浅井久政の後を追って、切腹した浅井長政を虎千代に重ね、涙を抑えきれなくなったのだ。

    ◇

     朝倉・浅井が滅亡したことで信長の領国の東に接する敵対勢力は一向一揆を除けば武田勝頼だけである。だが、武田信玄が死んだ直後なので、直ぐに武田勝頼が攻めてくるとは考え難かった。
     そうすると当面、残る気がかりは畿内である。

    「胡蝶、お市はどうしておる」
    「口をきいてくれませぬ」
     胡蝶は静かに答える。斎藤龍興の死を知らされて以来、胡蝶は少し元気がない。これには本人も意外だった。随分前に身内の斎藤龍興は死んだものと思うようにしていた。しかし、無意識に生きていることを期待していたのかもしれない。

    〔小川文書〕 織田信重書状(折紙)  〔寫眞帳〕 斎藤龍興討捕の報
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    (切封ウハ書)  「  ...      菅九郎
             御方(生駒氏)    信重
                        まいる」
      向以、此方徒然推量可有之候、軈而開陣候て、積候儀共、可申承候、

    此間者何事候之哉、承度存候、仍當表去十三日夜、越前衆致夜落候處、自跡信長追懸首二千餘討捕候、大将分朝倉孫三郎父子・山崎・小林為彼等初十人餘、同美濃之辰起(齋藤龍興)頸討捕候、十四日夜信長鶴河〔敦賀〕二被懸陣候、一兩日者諸勢休、一城乗谷へ行可有之由相聞候、我ゝハ淺井逃候者、爲可討捕當表ニ有事候、萬端開陣之刻、以面談可申承候、尚重而吉左右可申入候、
    恐ゝ謹言、
      八月(天正元年)十七日   信重(花押)

    『岐阜県史 史料編 古代中世補遺』 p696 小川文書

     そんな胡蝶を見て、信長もどうして良いか分からない。
    「そうか」
    「長政殿の首級みしるしは如何なされました?」
    「義景の首とともに京に送った。近江・越前が落ちた事を内外に示さねばならぬからな。公方様に味方しても勝てぬと思わせねばならぬ」
    「そうですね。朝廷にも理解してもらわないといけませんし」
     胡蝶も戦国の倣ならいは理解している「そういうことだ」
    「そうすると次は武田ですか?畿内ですか?」
    「畿内だ」
    「まぁ、そうなりますね」
    「昭高の弔とむらい合戦になるかな」

     武田を滅ぼした時、勝頼、信勝、信繁、3人の首を梟獄門にさらした。浅井父子と朝倉義景も同じようにした筈である。『年代記抄節』でもそう記述する。しかし『兼見卿記』で確認しようにも天正元年八月から天正二年十二月は『兼見卿記』が欠落していた。同様に『多聞院日記』も元亀四年正月から天正元年(元亀四年)十二月までがすっぽり抜けている。
     両方ともに存在しないのは「天正元年八月から十二月」である。この期間は、『信長公記』の朝倉討伐・浅井討伐から朝倉義景と浅井父子の首を薄濃はくだみにする話までに相当する。
     本能寺の変では、明智光秀と懇意にしていた吉田兼見は、処罰を恐れて日記を改ざんした。『兼見卿記』『多聞院日記』が欠落しているのは、類似の政治的な理由があったことが疑われる。
     つまり豊臣秀吉が茶々(長政の三女)にウソを言い、豊臣秀吉がそのウソに沿って小説『信長公記』を書くように太田牛一に指示を出した。そのウソを正史にするため、いろいろな所に太閤様豊臣秀吉からの圧力があった。そう考えられるのである。

     畠山昭高(秋高)は足利義昭が蜂起する直前、六月二十五日に、遊佐信教に殺されている。
     畠山昭高は、織田信長の養女を室に迎えている。また、畠山昭高の居城・高屋城は堺に近い。元亀二年、若江城の三好義継が反幕府(三好三人衆方)になったため、以来、信長にとって堺を繋ぐ代替輸送経路になっていた。
     だが、二月に足利義昭が蜂起した時、畠山昭高は義昭方についた。正月に遊佐信教と揉めた時に足利義昭が仲裁し、二人が足利義昭に誓紙を出していること、そして、地理的要因として周囲が義昭方に囲まれているため、義昭方に付くしか生き残る選択肢がなかったのである。

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    畿内の勢力:位置関係(義昭を槇嶋城から追放した直後)

     その後も足利義昭方に通じた家臣・遊佐信教に狙われていた。足利義昭が七月に蜂起するにあたり、信長の親戚筋として殺されてしまったのである。
     畠山昭高が討たれた事が信長に知らされた時には、既に足利義昭が蜂起した後である。こうなっては信長にとって優先順位の問題でしかなかった。
     信長は畠山昭高が討たれたことについて、書状を送っている。

    信長昭高ノ死を悼ミ昭高ノ臣保田知宗等ニ信教ヲ討タシメントス
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    〔古案〕
    柴田かたへ書状被見候、昭高の事、無是非候、無念不可過之候、其方身上之理聞届候、兩方衆相談及行、遊佐事可相果候由、尤肝要、就先調候趣、為此方分別不相届、可然之様に調略肝要候、於様躰者柴田可申候、恐々謹言
      七月十四日     信長御印
        保田佐助(知宗)殿

    『大日本史料 第十編之十六』

     九月、朝倉・浅井を討って足元を固めたことで、ようやく畿内に信長の目が向いたのである。
    「そうは言いますが、いきなり高屋城ですか?」
    「そうよなぁ。位置から言っても、まずは若江城の義継だな」
    「久秀殿は心中如何なものでしょうか?」
     胡蝶は、分かっていて確認するように聞いてみた。
    「もう、見限ったようじゃ。久秀殿を三好の鎖から解き放ってやる」
    「では、義継殿を討つと?」
    「義継は公方様や本願寺顕如との繋がりを強くしている。今更寝返るまい」
    「そうですね」

    ◇

     通説では天正元年十一月に松永久秀・久通父子は信長に降るとされる。
     この物語では、それは天正元年六月である。『尋憲記』の五月に筒井順慶と松永久通の戦いが記されている。その後の六月に松永久秀は信長に降る。松永父子が寝返ったことが、畠山昭高が殺されるキッカケになっていた。

     松永久秀の忠義は、故・三好長慶(三好本家)にあった。三好義継は三好本家の嫡男であり、足利義昭の理不尽に合った松永久秀を庇かばって三好義継は反幕府(反義昭)の武田についた。だから、松永久秀は三好義継に従った。そこに後から足利義昭が転がり込んで来た。不愉快だった。
     六月頃、武田信玄の死は上杉謙信に知られている(『赤見文書』)。
     松永久秀は武田信玄との窓口であり(『武州文書』『荒尾文書』)、畿内武田方のリーダー的立場にあった。松永久秀は武田信玄の死を確信し、自分の判断で信長方に寝返ったのだ。(足利義昭から離れた)
     この時、三好義継を連れて信長方に寝返ろうとした。しかし、三好義継はそのまま武田方(足利義昭方)についた。三好義継は本願寺顕如に説得されて義昭方の盟約を交わしている(七月廿一日付・顕如上人御書札案留)。
     更に一ヵ月後の八月廿日付の書状でも本願寺顕如の仲介により、三好義継、三好康長、遊佐信教の盟約を確認している。
     もし、この時、松永久秀・久道が足利義昭側なら、久秀・久道どちらかの名前があってもおかしくない。寧ろ、無い方が不思議である。つまり、既に離反していたのである。松永久秀・久道が離反したから、本願寺顕如が念を押すために義継・康長・遊佐と盟約を作ったのである。

    〔顕如上人御書札案留〕
    至津田城御退座之儀、先以無御恙之段珍重候、當寺行義継・康長・高屋(遊佐)一節和平之調、各依有存分延引、無念之儀候、就中御帷十、近來雖脱?希有之物候、軍旅之御事候間、不顧聊爾献上之候、委曲頼充法眼可申上間、宜様可令申入候、恐々、
      七月廿一日          (顕如光佐)   
        一色式部少輔殿
    今日、津田ヨリ若江ヘ御座を被移之由依有之、途中迄刑部卿を被遣候、御警固之分也、又御書を一式少へノ表書にて被遣之、文章不及注

    『大日本史料 第十編之十六』

     『細川家記』には「松永久秀謀りて、三好義継か家人を討取、若江の領内に、信長公の先手を引入る」、『佐久間軍記』には、「信長公使佐久間信盛、松永久秀、筒井順慶先陣、若江城ヲセム」とある。信長が三好義継を攻めた十一月、既に松永久秀は味方になっていたと記されている。
     また『增補筒井家記』と『信長公記』を並べてみる。

    〔增補筒井家記〕
    降臣ノ和州信貴城城主松永弾正少弼久秀ニ謀ラルヽニ、久秀ハ舊主旧主の恩ヲ忘レ、却テ信長公に追従し、多羅尾右近・池田丹後守・野間左京等ヲシテ、信長公ヘ返忠セシメ、同十一月十四日、義継ガ重臣金山駿河守ヲ殺ス、
    **************************
    『信長公記』
    三好義継は信長への謀反を企てた。しかし、家老の多羅尾右近・池田教正・野間康久の三人は行動を共にしなかったので金山信貞一人に万事任せておいた。多羅尾・池田・野間の三人は金山信貞を切腹に追い込み、佐久間信盛の軍勢を城内に引き入れた。

    『大日本史料 第十編之十八』『信長公記』巻6・三好義継切腹

     似た記載だが『增補筒井家記』は松永久秀の武功を苦々しく記す。こうした記録文書は通常、主家や当時の権力者に忖度して書かれているため、嘘や過大評価に注意が必要である。しかし、宿敵・筒井家がこのように苦々しく書いている。嫌っている筒井家が描く松永久秀の武功は信頼性が高い。
     一方『信長公記』は三好義継が謀反を企てたとするが、そもそもこの時は最初から足利義昭方(敵方)である。しかも、松永久秀の存在を全く感じさせず、美しく消し去っている。流石さすが、太閤秀吉様のお抱え作家である。

     また謎の書状がある。

    〔願泉寺文書〕
    来七月七日、郷北至小谷表相働候、不違即刻、不撰老若、可打立候、仍而取出相構候間、鋤・鍬以下可令持候、為其廻文指遺候、果而朝倉・浅井可及一戦候、時節見合伐懸可討果候、仍件如、
      元亀三年   七月朔日        信長
         松永弾正殿
         郷南 国衆中 (近江南部の国衆)

    『大日本史料 第十編之九』

     通常、日付しか記載されないのに、年号の記載がある珍しい書状である。それだけではない。元亀三年は松永久秀が反幕府側の窓口として武田信玄と連絡を取り合っている時期である。信長が松永久秀に指示を出すのはオカシイのである。
     近年では「元亀三年」は後から記入した可能性が指摘される。そこで「郷北至小谷表相働候」は姉川の戦い直後の横山城攻めとされ、元亀元年の書と比定される。
     それでも松永久秀と近江南部の国衆が同列で並ぶのは不自然に思われる。松永久秀が近江南部に居ないと、松永久秀か郷南国衆のどちらかは、この書状を見る事ができない。つまり、松永久秀は近江南部に滞在していなければならないのである。
     従ってこの物語では、この書状を元亀四年(天正元年)七月と比定する。

     五月に筒井順慶と戦った後、松永久秀は久通を伴い信長に降った。信長は降参した武将に役目を与える事がある。磯野員昌は重要拠点・高島に派遣された。同じように六月に信長に降った松永久秀は、七月に南近江に来ていたのである。
     信長は足利義昭が七月に蜂起する計画を知り、槇嶋城攻めに向けて準備を始める。開戦後、浅井長政に背後を取られないように、釘付けにする必要がある。主力を槇嶋城攻めに向けたため指揮できる者が足りず、多聞城を作った松永久秀の手腕に期待した。
     信長は早々に足利義昭を追放すると、そのまま朝倉を降した。そのための高島攻略である(『信長公記』高島へ出陣)。
     金ヶ崎の戦いの時、浅井長政は幕府軍の背後から攻めた。しかし、槙島城攻めから一乗谷の戦いまで、浅井長政は動かなかった。松永久秀が目の前に居たからである。
     つまり、この書状が示すのは、足利義昭を追放したら、すぐに朝倉・浅井を攻撃する計画であったという事である。そうすると下記の書状も、天正元年に比定され、信長方として書かれた書状と理解できる。

    越前・江北一事ニ申付候、依之尋承候、殊條五筋到来、懇切候、近日可上洛候間、其節猶可申候、恐々謹言、
      九月十一日         信長(花押)
        岡周防守殿  (松永久秀の重臣)

    『織田信長文書の研究(上)』

    ◇

    「あと、そうなると気になるのは堺でしょうか」
    「そうだ。堺は戦局を左右する拠点になるからな」
    「どういうことでしょうか。堺は税収が大きい事は分かりますが」
    「それだけではない。渡来の硝石が重要なのだ」
    「火薬の仕入れですか」
      (火薬のサプライチェーン)
     胡蝶の脳裏に知らない筈の言葉が浮かび上がる。
    「そういうことだ。早く堺を抑えなければならん」
     信長は力強く言い放った。

     堺は海外との貿易拠点である。この物語の信長が特に重視するのは硝石である。硝石は火薬の原料であり、鉄砲の威力を知っている信長にとって重要な軍需物資なのである。
     この時代、ほとんどの硝石は輸入に頼っていた。国内で硝石を作っているのは、加賀藩の五箇山や飛騨白川郷の合掌集落が知られる。これらは信長の支配下ではなく、本願寺(尾山御坊)や武田家(木曽氏)の支配下である。ただし、生産量として量産というには厳しい。もし、これらの地域で大量の硝石が生産されていたら、武田軍の戦法も変わっていたかもしれない。
     この時、堺は足利義昭方に包囲されている。放置すると、足利義昭や本願寺が強力な鉄砲隊を手に入れるかもしれないのだ。

     十一月十六日、信長は松永久秀の協力を得て、三好義継を若江城に攻め、切腹させる。
     十一月二十九日、松永久秀の処遇を決める。まず、松永久秀を多聞城を明け渡させた。松永久通、筒井順慶のそれぞれから人質を出させ、その上で、筒井順慶とその配下たちを多聞城に入らせた。信貴城には松永久通に入らせた。こうして大和(奈良)を舞台に争ってきた両者を痛み分けの形にした。

    仍松永久秀申分之事、つらにくき子細に候へ共、只今被申越候とうり、多聞を此方へ直に渡、右衛門佐松永久通ハ信貴へ入候て、山儀ハなき分に可然候、右衛門佐覚悟にて、何方にも参候ハんハ不及是非、知行方之事ハ令分別、則可申付候、さ候ハゝ、右衛門佐惣領子を人質に出し、右之筋目にわひ候ハんならハ、可赦免候、此段少も違候ての申やうに候ハゝ、重而被申ましく候、恐々謹言、
       十一月廿九日       信長(朱印)
        (折封ウハ書)
        右衛門尉(佐久間信盛)殿    信長
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    【『織田信長の古文書』の原書を参照して感想】
      (反幕府で裏切ったから)「つらにくき(面憎き)」
    と解説されるが、この時、松永久秀が味方したとすると疑問を感じる。
    「つら」の左に線があるが、多分、文字とはみなされていない。
    その左の線は、力強い線で、無意味に書いたように見えない。
    はねは無いが太い線を漢字を構成する偏として、全体で漢字として読み、
     (それまで敵方に居たとはいえ、自ら味方となり武功のあった久秀に)
     「謂いにくき or 伝(云)いにくき)or 仰にくき」
    と読めないだろうか

    『大日本史料 第十編之十九』

     この後、本願寺も講和に応じて、元亀争乱は終焉を迎える。

     信長は軍需物資・硝石を確保するために堺を確保したかった。そして、堺からの物流ルートにあたる高屋城の畠山昭高を姻戚筋にしていた。これにより、物流ルートを確保しようとした。
     ところが元亀争乱の初期に三好義継・松永久秀が反幕府となり、若江城ルートが使えなくなる。さらに足利義昭の逆心と畠山昭高が遊佐信教に討たれる事で高屋城ルートも使えなくなる。
     この時点で三好義継は、信長にとって、いろんな意味で討ち取らないといけない敵方のキーパーソンになっていた。若江城は堺からの物流ルートであり、松永久秀を三好家に繋ぎ止める鋲びょうであり、地理的に本願寺を補強する位置にあった。
     そのため、朝倉・浅井の次が三好義継だったのである。

    ◇

     ビジネスにおいて、特にモノを売る業種の場合、サプライチェーンの確保は非常に重要である。物流ルートや仕入先が一つに限定されていると、イザという時に対応できなくなる。
     確かに仕入先は品質や価格でベストの1社を選ぶのが最適解かもしれない。しかしその結果、市場にその1社しかないとすれば、品質低下や値上げがあっても、他に選択肢がなくなる。或いは、天変地異でその1社が生産停止すると自社も生産停止である。従って、「長期的視野から、仕入れ先が常に競争している環境を意図的に作る」という戦略も考えるべきである。(国には独占禁止法という仕組みがある)
     物流ルートを二つ持つ、通信ケーブルを二重化する、など実際にはコストアップの要因だが、事業の継続を考えた場合のリスク対策(BCP)として常套手段である。それをBCPと呼ぶ。
       BCP:事業継続計画 (Business Continuity Plan)
     逆の立場になった場合、弱者(ベンチャー)が強者(競合他社)に渡り合う時、競合他社の顧客に対して、BCPとしてのリスクヘッジを訴えるのも手段の一つである。それで実績ができれば、以後は、同じ土俵で比較してもらえる。
     とは言え、独占企業に喧嘩を売るような事業は、そもそも非常に難しい。

    ◇

     信長は、物流を非常に重視している。元亀四年には大船を建造させ、元亀争乱の時には、義昭方についた近江高島地域の浅井勢を駆逐している。天正二年の暮れからは、改めて領国内の道路を整備させ、領国内の関所を廃止している。
     ただ、これらの施策は、本来、物流や経済がそもそもの目的ではなかったような気がする。信長は、これだけ大きな領国を支配するようになっても、小国の領国経営の感覚が強く残っていたのではないだろうか。そのため戦力でも情報でも移動速度を上げて、その影響を小さくしようとした。自分が先頭に立って動きやすくするための工夫が大船であり、道路整備だったのではないか。
     ビジネス風に言えば、零細ベンチャーが中小企業になった。対応する範囲や相手にする人数が増えた。そこに無理が生じてきた。そのための対策が物流効率化やIT投資だった。それが結果的に、ビジネス(領国内の経済)を活性化させた。信長の経済力に繋がり、ビジネス基盤が強くなり、事業領域(領国)を更に拡大させた。外から見れば成功事例である。
     しかし、信長本人は零細企業のマネジメントを続けていた。その歪ひずみは大きくなり、信長を悩ませる。


    全体目次・次のトピックス・関係するトピックスへのリンク

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    次項:現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長「歸蝶の戦国記」8-1 へ
    関連:
     松永久秀:上洛戦5-5  反幕府謀反7-2  久秀の最後8-3
     浅井長政:家の事情4-5 謀反・金ヶ崎の戦い7-1
     武田滅亡:3人の首をさらす8-7

    主要参考文献など

    第7章:参考書籍
     信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
     甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
     武功夜話・信長編    加来耕三・訳
     織田信長文書の研究  奥野高廣・著 
     言継卿記       山科言継・著
     中世法制史料集 第二巻 室町幕府法  佐藤進一・池内義資・編
     室町・戦国時代の法の世界 松園潤一朗・編
     シリーズ室町幕府の研究2 足利義昭  久野雅司・編著
     織田信長の古文書   山本博文・堀新・曽根勇二
     大日本史料第十編   東京帝國大學文学部 史料編纂所編集
     織田信長・不器用すぎた天下人 金子拓・著
     近江浅井氏の研究   小和田哲夫・著
     最強組織の法則    ピーター・M・センゲ・著
     世界はシステムで動く ドネラ・H・メドウズ・著
     ブラジルに雨が降ったらスターバックスを買え ピーター・ナヴァロ・著
     織田信長延暦寺焼き討ちの考古学的再検討  兼康保明・著
     比叡山諸堂史の研究  武覚超・著
     比叡山の僧兵たち   成瀬龍夫・著
     謙信✕信長      乃至政彦・著
     織田信長 戦国時代の正義を貫く 柴裕之・著
     足利義昭と織田信長  久野雅司・著
     真宗史料集成 第三巻 一向一揆
     続群書類従 第20輯下 合戦部16 収載の 佐久間軍記 佐久間常関・著

    第7章:参考インターネット
     焔硝・白川郷
      https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001556243.pdf
     五箇山
      https://gokayama-info.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96/%E6%AD%B4%E5%8F%B2
     国立公文書館デジタルアーカイブ「年代記抄節」
      https://www.digital.archives.go.jp/img/1209893
     国書データベース『讀史餘論 著者・新井白石』

     Wikipedia

    #創作大賞2025 #ビジネス部門

     
     
    戦国時代を舞台にビジネスの視点を表現しようとNoteを始めた。調べ始めたら、信長像が大きく変わって調査続行中。また、それとは別に思った事をツラツラと公開してます。

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