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現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長          「歸蝶の戦国記」8-7

    第8章 狂う歯車・急成長の歪ひずみ
     ~組織拡大に伴う難しさ~

    第7節 武田勝頼の討伐・システムの逆回転

     信長が羽柴秀吉の失態で、三木城、有岡城、石山本願寺に兵力を割かれていた間、上杉家ではお家騒動が勃発する。御館おたての乱である。
     上杉謙信が死去した後、上杉景勝と上杉景虎(北条家からの養子)が後継者争いをする。当初、武田勝頼は北条家との同盟関係から景虎を援護するが混乱は収まらなかった。
     そこに上杉景勝から武田勝頼に和睦の使者が訪れる。これに武田勝頼は日和ひよった。武田勝頼は上杉景勝と上杉景虎の和睦を調整しようとする。しかし失敗する。その直後、武田勝頼は徳川家康の侵攻に対応するため帰国する。その間に上杉景勝が上杉景虎を討ち取り、御館おたての乱は終わる。
     武田勝頼は、上杉景虎が戦えば勝てた時に和睦を唱えて戦わず、上杉景虎を支援せずに帰国した。結果的に上杉景虎を見殺しにした形になった。そのため北条氏政は怒り、相甲同盟が破綻する。
     北条氏政は徳川家康と同盟を結び、武田勝頼は弱体化した上杉景勝と同盟関係となる。

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     天正七年(1579年)、武田勝頼と北条氏政との間で戦争が始まると、武田勝頼は東から北条、西から織田・徳川に攻められ窮地に陥る。上杉景勝は援軍と言うには弱すぎた。武田信玄の得意技だった挟み撃ちに、武田勝頼が自ら落ちたのである。

     北条氏政との戦いに集中する為、武田勝頼は快川紹喜の進言に従い織田との和睦を求めた。そして、佐竹義重を通じて御坊丸を返してきた。
     天正九年(1581年)十一月、御坊丸(織田勝長・信房)が帰ってくる。『信長公記』は以下のように伝える。

    十一月二十四日、犬山の織田勝長が、安土に来て初めて信長に挨拶をした。この人は、以前信長が武田信玄と友好関係にあった頃、信玄から末子を養子にしたいとの申し入れがあって、甲斐へ赴いたのである。しかし、結局、織田・武田の関係がまずくなって、武田家から送り返してきたのを、犬山の城主にしたのであった。

    『信長公記』巻14・織田勝長に対面

     織田勝長の立場に配慮して、人質として連れて行かれたのではなく、「信玄の申し入れ」により甲府に赴おもむいたと表現している。
     『甲陽軍鑑』によると、長篠の戦いの前(天正二年)に、高坂弾正が織田勝長を織田家に戻して、和睦する事を提案していたとされる。
     確かに長篠の戦いの前であれば、岩村城は秋山虎繁とおつやが岩村城を管理しており、この案であれば岩村城も御坊丸も無傷で帰ってくる。信長は了承した可能性が高い。さらに武田信玄からの代替わりを理由に徳川と和睦できれば、全く異なる歴史になっただろう。
     しかし、長篠の戦いの前、武田信玄が死去した直後の武田家ではこの案は当然に却下である。武田勝頼は強い武田を演出する必要があったのである。だからこそ、徳川に攻め込んだのである。

     すなわち東美濃を信長の子息が統治していたから、その御坊(織田勝長)に下さって、誰か近い御親類をえらんで祝儀をなして聟とし、信長と和睦を結びなされよ、というものである。(以下略。徳川とも和議を提案するが、長坂長閑が異議を唱え、勝頼は高坂弾正の案を取り上げなかった。と続く)

    『甲陽軍鑑』品第五十一

     武田勝頼は、織田と北条の挟み撃ちに窮して、信長に御坊丸(織田勝長・信房)を返し、和睦を申し入れた。しかし、おつやを処刑した時、武田は無視した。信長は忘れてはいない。
     岩村城を自力で取り返し、おつやを処刑した後では、御坊丸(織田勝長・信房)を返しただけでは、信長にとって原状復帰ですらない。おつやと多くの領民、岩村城攻防で死んだ者たちが帰ってきていない。しかも、今や、官位は信長が上位にある。
     譲歩するには不足に過ぎる。これで和睦したら面目が立たない。だから、礼状は上位から下位への形式で送り、和睦については無視で返した。
     おつやを処刑した時点で信長の決意は固まっている。信長は御坊丸を死んだものとみなしており(よって秋山夫妻を処刑した)、信長にとって武田家を滅ぼす事は、おつやへの供養として必須事項なのである。

    ◇

     天正十年(1582年)一月、信長は武田討伐の準備を進めた。
     上杉家は、御館の乱で弱体化した。御館の乱における武田勝頼の失態で北条氏政が信長方についた。信長にとっては好機である。
     信長は織田信忠を総大将に指名した。織田家を継ぐのは信忠であるという事を内外に示し、武田討伐の武功でその地位を確固たるものにするのが目的である。

     二月十二日、織田信忠は出陣し、十四日、岩村城に着陣した。『信長公記』は戦いの状況を以下のように伝える。

    (前略)
    すると前方から、農民たちが自分の家に火をかけて、こっちへ出向いてきた。その理由は、武田勝頼は近年、新規の税や労役を課し、また新たな関所を設けるなど、庶民は苦労の絶え間がなかった。重罪犯でも賄賂を出せば赦免し、軽い罪でも懲らしめのためと称して磔にかけ、あるいは斬首した。

    『信長公記』巻15 木曽・伊那の陣

     武田軍の強さの秘密は、その残虐性にある。
     戦国時代の日本は小氷期にあり、生産性が低かった。特に武田信玄の領国は山地に囲まれた地域で3年に1回くらいの頻度で餓死者が出るような地域である。飢饉が起きると国内で領主への不満が高まる。国内の不満を外に向け、国内に足りない食料を外から調達する手段が戦争であり略奪である。武田家は、領国維持の為に領土拡大戦争(略奪)を続ける必要があった。
     だから、武田家に狙われたら、選択肢は二つである。調略に従うか、徹底抗戦するか。
     調略に従うと、略奪をする権利が得られる。徹底抗戦して勝てれば良いが、負けたら略奪される。一族郎党、斬首か奴隷落ちである。
     武田軍が怖いなら調略に乗るしかない。武田家の調略は容易に進み、敵方にいた戦力が寝返って味方となる。もともと攻撃力の高かった武田軍に寝返った戦力が味方に加わる。これで戦力が底上げされる。だから勝つ。
     勝てば、次に狙う相手が恐れを抱き、また敵が寝返る。また勝つ。これの繰り返し。これがドミノ倒しのような「武田軍の勝つ仕組み・勝利のシステム」である。相手が軍神・上杉謙信や、河越夜戦で八万の兵を八千で破った北条氏康だと勝つ仕組みは十分に機能しない。寝返りが少ない。だから武田信玄は勝ち切れなかった。

     ところが長篠の戦いで風向きが変わる。もともとの武田軍の強さに疑問符が付いた。大きく戦力を失っただけでなく、敵が恐れなくなったのである。これで調略が容易に進まなくなる。敵の寝返りが少なくなり、底上げがなくなる。本来の力比べになる。メッキが剥がれたのだ。
     さらに、徳川家康が高天神城を攻めた時、兵糧攻めで時間をかけたにも関わらず、武田勝頼は高天神城を助けられなかった。疑念が確信に変わる。
     こうなると、もともと恐怖に縛られて、武田軍に従っていた者たちが解放される。恐怖によって敵への攻撃に向かっていた力が、怒りや不満、怨みになって武田軍へ向けられる。
     武田軍にしてみれば、味方(武田軍)だと思っていたら、敵に寝返って攻撃してくる。もともと武田家に忠誠心があった者たちですら、戦意を無くして逃亡する。
     「武田軍の勝つ仕組み」が逆に回り、「負ける仕組み」に変わったのだ。
     こういう仕組みは、一度動きだすと、手が付けられない。
     
     二月一日、信州木曽の木曽義昌が寝返る。
     二月十四日、信州松尾の小笠原信嶺が寝返る。
     二月二十五日、駿河江尻の穴山梅雪が寝返り、甲斐府中の人質を救出。
     三月一日、高遠城に織田信忠が攻め寄せた時、城主・保科正直も寝返ろうとしていた。ただ連絡が間に合わず乱戦となる。もともと戦うつもりがない所へ、ロクな戦闘もなく武功に飢えた信忠軍が押し寄せたものだから、高遠城は堅牢な城だったが、あっさりと落城した。
     三月三日、深志の馬場昌房が早々に降参し退散。
     これを受けて武田信豊は佐久郡小諸に籠城すると言って別れた。武田勝頼と別れた武田信豊が佐久郡小諸に到着すると、下曾根賢範が待っていた。下曾根賢範は武田信豊を城の二の丸に招き入れると、包囲して火を放った。そして、武田信豊の首を持って織田軍に出頭した。
     武田勝頼は孤立し、新府の城に火を掛けて退去した。小山田信繁を頼って岩殿山城に着くと、小山田信繁は城には収容できぬと突き放した。
     三月十一日、滝川一益は山中の民家に立て籠もる一行を見つけ出し、武田勝頼を含む全員を討ち取る。他にも、諏訪刑部や菅沼満直などが農民たちに討たれて、織田軍に首が持ち込まれてきた。
     まさに裏切りの連鎖である。

    ◇

     信長は三月十一日、岩村城に着陣した。
     信長は岩村城天守に登ると城下を眺めた。きっと同じ景色をおつやの方は見ていたのだろう。御坊丸を伴って・・・。
     日が沈み、辺りが暗くなるとかなり肌寒く感じる。天守の中に入ると、既に行燈あんどんに火が灯されていた。
     そこへ早馬が着いたと下から叫ぶ声が聞こえた。何かあったらしい。
     伝令は天守に駆け上がると、息を切らしながらも信長の前に来て、片膝をついた。
    「武田勝頼を討ち取りました!」
     信長は一瞬自分の耳を疑い、反応しなかった。そして、一言だけ発した。
    「落ち着け」
     伝令は信長を見上げ、息を整えると改めて伝えた。
    「武田勝頼を討ち取りました!信忠様の軍が武田軍を破り、最後は(滝川)一益かずます様が逃げた勝頼を見つけ、成敗したとのこと!」
     信長は聞き違いではなかったことを確認した。
    「そうか。ご苦労。しばし一人にしてくれ」
    「はっ」
     信長は一人になると、その場に静かに座った。
         (随分と早かったな) 
     勝利に対する安堵の思い、おつやへの供養の思い、期待以上の働きをした信忠への祝勝の思い、武田への積年の恨みを晴らした思い、あまりにも早く崩壊した武田家に対する驚きの思い、急に領国が増えて面倒だという思い、天下静謐があと一歩で実現するという思い、いろいろな思いが信長の中で入り乱れる。
     一刻ほどぼんやりとしただろうか、信長はゆっくりと立ち上がると、天守から降りて行った。
    「宴うたげじゃぁ!」

    武田勝頼・武田信勝・武田信豊・小山田信茂・長坂光堅をはじめとして、武田家宿老の者はことごとく討ち果たし、駿河・甲斐・信濃をとどこおりなく平定したので、心配は無用である。甲斐から報告がきたので、通知する。そちらの一揆も、思う存分に始末せねばならぬことは無論である。
      三月十三日
        柴田勝家殿
        佐々成政殿
        前田利家殿
        不破直光殿

    『信長公記』巻15・越中に一揆勢が蜂起

    〔松井友閑宛黒印状写〕
    (前略)甲州の歴々の者ども大略首を刎ね候、(中略)亦尾濃の浪人、土岐美濃守を始め岩倉・犬山等、小屋に蟄居候、是はそれぞれに相計い候、佐々木承禎の子次郎幷に若狭の武田五郎、是も小屋に蟄居候を搦め取り、腹を切らせ候、(中略)此の如く卅日・四十日際に一偏に属するの事、我ながら驚き入る計りに候、相州氏政駿河へ在陣にて、一廉ひとかど馳走候、東八箇国の儀は勿論、异儀なく隙を明け候、然らば、甲斐・信濃の事、城介信忠の官途を残し置き申し付くべく候、信長は不日帰国すべく候、爰許ここもと見廻り無用に候、年寄ども呼び寄すべきと存じ候へども、路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、罷り越すべからず候、(以下略)
      三月七十七日      信長
        宮内卿松井友閑法印    

    『織田信長文書の研究(下)』

    ◇

     四月三日、快川紹喜のいる恵林寺を攻めて焼き殺した。『信長公記』によれば恵林寺が六角次郎(六角義定・六角承禎の子)を匿っていたことが理由とされる。だが、恐らく最初から快川紹喜を狙っていたと思われる。
     快川紹喜とは古い因縁がある。快川紹喜はもともと美濃の僧侶であった。その頃から快川紹喜は武田信玄とつながりをもち、美濃では斎藤義龍と永禄別伝の乱という宗教争乱をおこしている。斎藤義龍の死後、後を継いだ斎藤龍興の後見人のような立ち位置におり、武田信玄の威を借りて、信長の美濃攻略を邪魔し続けたのである。信長にしてみれば、武田一族の一人に見えていたのである。
     さらに、この物語の信長にとっては、胡蝶と裏で繋がっていた斎藤義龍の仇かたきでもある。武田信玄の手先として動いていた快川紹喜がいなければ斎藤義龍が過労死する事もなかっただろう。斎藤義龍が死ななければ斎藤龍興が成人するまで面倒を見たであろうから、斎藤龍興と戦う事もなかっただろう。彼等と武田信玄の侵攻に共同で対応できたのである。
     なお、快川紹喜は武田信玄の死後、信長を高く評価しており、この頃には寧ろ、信長に好意的ですらあったと言われる。信長の領国経営により美濃領民の生活が良くなっている事を理解していたのである。しかし、信長の恨みは消えていなかった。
     またこの過程で、土岐美濃守や岩倉(織田信賢)、犬山(織田信清)ら、かつて追放した者たちを生け捕りにしたが、命を奪っていない。やはり当時から意図的に逃がしていたことが分かる。

     武田勝頼ら3人の首は京に送られ、獄門に晒された。信長に拮抗する戦国大名がいなくなった事、信忠の武功を天下に知らしめたのだった。

     武田四郎勝頼父子信勝幷ならびに典厩てんきゅう・武田信繁三人之首自甲州上、梟獄門、洛中・洛外鼓騒云々、

    『兼見卿記』三月廿二日 

    ◇

     それにしても武田家の滅亡はあまりにもあっけない。信長自身が驚いているほどである。別所長治や荒木村重が僅かな領国の中で2年近く籠城したのに比べ、その差は歴然である。その差は領民との関係にある。
     領主と領民の関係において、武田家と荒木村重は対照的だったと言える。小氷期において、比較的温暖な地域で領民を大切にした荒木村重と厳しい地域で領民を限界まで使って領地拡張を宿命とする武田家。
     方針の違いにより領主と領民の関係は必然的に変わってくる。勝っている間は武田家の方が高い評価を得た。しかし負け始めると武田家は配下や領民から首を狙われた。道具のように扱ったため領民が離反し、崩壊を早めたのである。
     荒木村重は窮地に陥っても、配下や領民が命がけで支援した。荒木村重の立て籠もった有岡城の惣構そうがまえは広く、民衆をも囲い込む広さを持っていた。民衆が領主の城に逃げ込めるようになっており、領主も民衆を保護する事を義務としていた。その信頼関係があったから、多くの農民が荒木村重の籠城に必要な物資を運びこむなど支援していた。そのため信長軍が苦戦したのである。

     十一月二十八日、信長は敵の本拠近く小屋野まで進出した。四方から詰め寄って要所要所に陣を構えるように命じた。
     一方、一帯の村々の農民たちは、揃って甲山へ逃げ込んでしまった。
    ーー補足ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    信長軍に対する農民の動きが、武田勝頼と荒木村重で逆になる。
    荒木村重の謀反の前は、石山本願寺の近郊であり、一揆の呼びかけがあったにも関わらず、一揆はほとんど起きていない。荒木村重の謀反の後、石山本願寺が退去した後も一揆が起こり易い地域に変貌する。秀吉による播磨討伐は、その地域に強烈な不信感を植え付けた。

    『信長公記』巻11・荒木村重、謀反
    補足・筆者(参考:『戦国期三好政権の研究』)

    ◇

     安定を求めた荒木村重の治世は「期待の信頼」により領民を味方につけた。順次慰撫いぶしながらなので領国の拡張はそれほど早くない。しかし、慰撫した者たちに責任を果たすため、羽柴秀吉の横暴に対して謀反を起こす事になった。大切にした農民が味方となり、秀吉や信長の武力攻撃に対して頑強な抵抗を見せた。
     拡大を求めた武田家の治世は「畏怖の信頼」により領民を強い軍隊に育てた。勝ちパターンができて急速に拡大した。しかし、長篠の戦いと高天神城の戦いで弱みを見せた瞬間に瓦解した。搾取した農民が敵となり、勝つ仕組み(システム)が逆回転したのである。

     新しく事業を始める場合、ビジネスモデルとして勝ちパターン、勝利の方程式を考える。
     勝ちパターンの確立は重要なポイントである。しかし、その限界も考慮した方が良い。自社が簡単に参入できるなら、他社も簡単に参入できる。容易にレッドオーシャンになる。参入障壁が高い、例えば、技術の要求レベルが高いなら、他社にとっても参入障壁が高い。一旦事業を確立すると安定した収益が見込める。
     例を挙げれば、円高が進み海外で作って輸入すると安く作れるというものである。円高が進めば進むほどコストが下がり儲かる。これの負けパターンは円安である。円安になると海外で作るコストが上がり利益を圧縮する。
     他の近い例として前売り回数券やポイント還元がある。先に売上が立ち、当面のキャッシュフローを改善する。目先の資金繰りが楽になる。ところが前売り回数券を売り過ぎると、顧客が集中した時に処理できなくなり、顧客満足度が下がる。場合によっては返金要求される。ポイント還元も後で還元したポイント同額の売上が減る。急に資金繰りが難しくなる。基礎体力を超えた前売り回数券やポイント還元をすると自転車操業に陥る。これらは借金と同じ。十分な見込み・計画をもって行う必要がある。
     現在の事業環境では優位性があるが、環境が変化したら優位性がハンデキャップになる。そうであれば利益が出ているうちに、次の環境変化に備えなければならない。
     会社が半永久的に存続することを前提とする以上、そうした事に手を打っていく事も経営として重要である。


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    関連:
      おつや:森部の戦い4-2   三方ヶ原の戦い・岩村城7-4
     快川紹喜:斎藤義龍4-1  斎藤龍興4-2  竹中半兵衛4-4

    主要参考文献など

    第8章:参考書籍
     信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
     甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
     武功夜話・信長編    加来耕三・訳
     織田信長文書の研究  奥野高廣・著 
     織田信長の古文書   山本博文・堀新・曽根勇二
     織田信長文書の世界: 永青文庫  公益財団法人永青文庫・他・編
     大日本史料第十編   東京帝國大學文学部 史料編纂所編集
     言継卿記       山科言継・著
     多聞院日記      多聞院・著
     足利義昭と織田信長  久野雅司・著
     謙信✕信長      乃至政彦・著
     属人思考の心理学   岡本浩一・鎌田晶子・著
     論語         金谷治・訳注
     安土・信長の城と城下町  滋賀県県教育委員会・編著
     武田勝頼のすべて   柴辻俊六・平山優・著

    第8章:参考インターネット
     
    地図今昔マップ
      https://ktgis.net/kjmapw/index.html
     佐久間軍記
      国立公文書館デジタルアーカイブ・史籍集覧
     秀吉派閥
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240209-OYT1T50036/
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240211-OYT1T50037/
     
     記憶の変化
      https://www.riken.jp/press/2025/20250221_1/index.html
     記憶の変化(病気)
      https://www.kyoto-u.ac.jp/kurenai/201609/gakumon/

     浄厳院
      https://www.jogonin.com/
     阿弥陀如来像:二階堂
      https://shimonogo.under.jp/syokai/nikaidohorenin.html

     Wikipedia:生存者バイアス
     Wikisource:佐久間軍記

    #創作大賞2025 #ビジネス部門

     
     
     
    戦国時代を舞台にビジネスの視点を表現しようとNoteを始めた。調べ始めたら、信長像が大きく変わって調査続行中。また、それとは別に思った事をツラツラと公開してます。

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