メインコンテンツへスキップ
見出し画像

現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長          「歸蝶の戦国記」4-5

    第4章 美濃攻略・7年かかった理由
     ~着実に足元を固め機会を伺う~

    第5節 近江の情勢・組織文化の経路依存性

    「これは胡蝶様」
     半兵衛が襖ふすまを開けると、そこには胡蝶が立っていた。
     永禄九年(1566年)某日、胡蝶が政秀寺に訪れると、竹中半兵衛が先に来ており、沢彦と談笑していた。
    「胡蝶、よう来た」
     沢彦もご機嫌である。
    「半兵衛が来ていると聞きましたので」
     と、胡蝶は半兵衛を見た。半兵衛は不思議そうな表情した。
    「何用でしょうか。隠棲している浪人に大した事ができるとは思いませんが」
    「稲葉山城を落とした者の言う言葉ではありませんね」
     胡蝶は笑いながら応えた。

    ◇

     永禄八年(1565年)五月、13代将軍・足利義輝が京都で三好三人衆に殺される。三好三人衆と言っても、直接手を下したのは、三好義継と松永久通である。これが「永禄の変」である。
     足利義輝は三兄弟だが、長男の義輝と三男の鹿苑ろくおん院殿(足利周高)が討たれる。この時、既に出家して奈良にいた次男の覚慶(のちの足利義昭)は奈良・興福寺に軟禁される。覚慶は自分も殺されるのではないかと気が気ではなかった。そこへ現れるのが松永久秀(松永久通の父)であった。松永久秀は、覚慶の保護を誓約する。つまり、少なくとも松永久通は松永久秀の意を受けて永禄の変を起こしたのではない。

    〔円満院文書〕
    今度公方様足利義輝御儀、題目是非に及ばず候、其れに就き、進退の儀気遣い候処、霜台松永久秀誓紙をもって別儀あるべからず由候間、安堵せしめ候、弥疎略なきにおいては、別して祝着たるべく候、猶委細は竹下へ申し候、憑み存ずほか他なく候、恐々謹言、
      五月廿二日      (花押・足利義昭)
        松永右衛門佐久通殿

    『三好一族と織田信長』

     このすぐ後、朝倉義景が松永久秀と謀り、覚慶は軟禁されていた興福寺を脱出する。そして、和田惟正これまさを通じて近江の六角義賢よしかたを頼って、野洲郡矢島村(滋賀県守山市)に移り住む。

    〔一乗院覚慶書状〕
     今度京都樣躰無是非次第候、就其、至和田取退候、進退之儀、萬端任置候間、早速散無念候樣、入魂偏頼入候、委細之段、大覚寺門跡に申候間、可有演説候、穴賢〱、
      八月五日       (花押・足利義昭)
        上杉弾正少弼殿

    『大日本古文書家分け・上杉家1』

     『大覚寺義俊覚写』には、この頃の、三好三人衆の言い分、松永久秀の言い分が記される。またその後の対応(信長と斎藤龍興の和睦:濃尾無事)などが記され、細川藤孝が交渉役として動いている事が分かる。

    大覚寺義俊覚写
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    (前略)
    一 三好三人衆(三好長逸・同政康・岩成友通)申分之事、今度光源院殿(足利義輝)御生害之義、始末松永(久秀)所行候、兩三人儀ハ、無勿體由、雖再三申候、既誓紙仕候、然者、天下之儀、阿州之御仁(足利義榮)躰與と御和睦之姿於無之者、難有静證候、以其上被成御入洛義昭が京都に行く事、行末之義者、上意可爲御覺悟次第由、種ゝ申上候事
    一 松永(久秀)申分之事、是又今度御生涯之事、一向雖不依存知候、自篠原方達而申ニ付、不及力如此候、聊いささかも以逆心不仕候、其故者、上意之御儀(足利義秋)、於南都果可申旨、切ゝ従彼方雖申越候、松永以才覺無御別儀事候、然大忠候歟、此時於被成御免者、河・泉・摂過半申合候條、及行、抽忠信、即時ニ今度之可被散御無念旨、申上候也、右之趣従雙方切ゝ雖言上候、何茂不被入聞召候、  (”一”が抜けか)尾・濃和睦之事、為上使被仰出、於相調者、致参洛上洛戦のこと可申由候、然者内々両国共御請申上候、細川兵部大輔(藤孝)為御上使被差下候事
    一 越前(朝倉義景)之事、別而切々御音信等被申上候、以上、
       三月(永禄九年)十日     花押 大覚寺義俊
      上杉弾正少彌(輝虎)とのへ
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
     足利義輝殺害の実行犯・三好三人衆は松永久秀の行為だと言い、義昭に義栄と和睦して京都に来るよう勧める。一方、義昭を保護した松永久秀は篠原らの主張に力及ばず、結果的に足利義輝殺害を止められなかったと言い、主張は対立している。(多くの解説では松永久秀が足利義輝を殺したように説明する。本人は止められなかった、逆心は無いと主張している。永禄の変の時、松永久秀は奈良に居て、義昭を保護し近江へ逃がした。冤罪である)
     
     義昭と義栄は従兄の関係(本家と分家)である。義栄が将軍となり(分家が主家扱い)、義栄が自分の血筋で将軍家(主家扱い)を維持しようとすれば、義昭は本家筋(13代将軍・義輝の弟)なので邪魔になる。おそらくは義昭を謀殺したいのだろう。そのために三好三人衆は誓紙を出し、和睦と称して義昭を京都に呼び出そうとしている。篠原長房が殺せば、三人衆(三好長逸・同政康・岩成友通)が誓紙を破ることにはならないからだろう。
     義昭から見れば、確実に身の安全を保証出来る選択肢は、義昭を逃がした実績がある松永久秀であり、久秀も誓紙を出している。
     状況として、松永久秀の主張が正しいと考えられる。

      『岐阜県史 史料編 古代中世補遺』 p260

     覚慶は永禄九年(1566年)二月に還俗して、足利義秋(のちの義昭)を名乗り、足利将軍家の当主になることを宣言した。
     足利義秋は、室町幕府(足利家本家による足利幕府)の再興に向けて動いていた。三好勢に対抗するため、相互に敵対している有力大名に講和させ、これらの有力大名の後ろ盾で上洛を目指した。上杉輝虎(謙信)・武田信玄(晴信)・北条氏康、六角義賢・浅井長政、そして、濃尾三河。即ち、斎藤龍興(濃)と織田信長(尾)、徳川家康(三河)である。

    〔飯川信堅元・足利義輝の申次御内書副状〕
    就 御出張之儀、重而被成 御内書候、仍被相催隣國之處、別而濃尾三河其外可有出勢之由、言上候、雖然、輝虎於無御参洛之者、天下雖有静謐候間、無別儀樣可被申調事、肝要候、(以下略)
      七月朔日一日       信堅(花押)
        直江大和守實綱殿
    ********************************
    〔北条氏政請状〕
    御内書謹而致頂戴候、就長尾輝虎可被指上、彼國与甲相可遂三和趣、被仰下候、過分至候、甲州に御下知肝要存候、委曲森坊可有言上旨、可預御披露候、恐々謹言、
      八月廿五日          左京太夫氏政
        進上   細河兵部大輔殿
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    上の書状は永禄九年に比定・第一回上洛戦の直前。濃(斎藤)、尾(織田)、三河(徳川)は出陣を出す事を承諾。上杉にも改めて要請。
    下の書状は永禄十年に比定・第一回上洛戦と第二回上洛戦の間だが、上杉が兵を出すにあたり、甲(武田)相(北条)と三和を求められた北条氏政が、義昭から武田を説得するように要請している。第一回上洛戦でも同様の動きがあった筈。第一回上洛戦の時に、武田から良い回答が得られていないことを示す。

    『大日本古文書家分け・上杉家1』

     書状をもらった信長は了承の返事をする。幕府再興による平和な世を目指すという事が、信長の目的と全く同じだからである。足利義輝とも上洛して会っている。それを受けて、足利義秋は和田わだ惟政これまさを尾張に派遣し、信長に上洛を促していた。

    画像
    永禄の変の後、足利義昭の支援要請により、和解と団結を促される

    ◇

    「近江の事を教えて欲しいの」
    「近江ですか?」
    「そう、北近江にいたのでしょう?」
    「はい。世話になりました」
    「浅井家はどのような家なの?守護ではなかったわよね」
    「浅井家は、もともと北近江国人衆の一つで、北近江を束ねる国人衆の盟主と言ったところです」
    「信長様のような位置付けと思って良いかしら」
    「家格としては、近いと考えて良いでしょう。守護は京極家ですが、浅井家が仕切っていますから」
    「だから、六角義賢殿は、浅井長政殿との縁組を言ってきたのね」
    「そんなことが・・・。まあ悪くない話だと思いますよ」
    「どうして」
    「多分、浅井家の方が強いからです」
    「ついこの間まで、六角家の下についていたのでしょう?」
    「はい。先ほど、盟主と言いましたが、国人衆が長政様を盛り立てているのです」
    「どういうことかしら」
    「信長様は、謀反を力で潰して尾張を纏めてきました。長政様は逆です。国人衆が反六角の謀反を起こし、その集団の頭目に担がれたのが長政様です。長政様の父・久政様が六角家にべったりなのを不満に思う者達が、集まって久政様を隠居させ、その集団の頭目として長政様を推したのです」
    「だから、初陣から1万人以上が集まったのね」
    「はい。しかも、自分たちが推しているのだから、ヤル気が違います。指示などしなくても、それぞれが思う最善で戦の準備をしていますから」
     永禄二年(1559年)、浅井長政が元服(15才)すると浅井久政を隠居させて家督を取り、六角氏の支配から独立した。永禄三年(1560年)八月、六角義賢よしかたは浅井方に寝返った高野瀬秀隆への攻撃を開始する。高野瀬秀隆を援護するために浅井長政も出陣する。そして、野良田で六角軍と浅井軍がぶつかった。野良田の戦いである。この時、六角軍は2万5千人、対する浅井軍は1万1千人であった。この戦いは、兵数が半分以下の浅井軍が勝ったのだった。
     15才の若者に1万人以上が付き従っただけでも凄いと思うのに、その2倍以上の軍勢を破ったのである。当時、この話を聞いた時、胡蝶には想像もできなかった。ただただ、凄い男が居るという印象だったのである。
    「そういうことなのね。ヤル気かぁ。」
     竹中半兵衛の説明を聞いて、胡蝶は初めて浅井軍の強さの秘密が分かった気がした。斎藤義龍の目論見が外れた理由でもあった。

    「少し補足してやろう」
     そう言うと、沢彦(道三)が話をつづける
    「北近江は京極氏が守護じゃ。京極家でお家騒動があって力を失い、その中で台頭してきたのが、先々代の浅井亮政あきまさじゃ。もともと国人衆の一人に過ぎず、国人一揆の盟主に収まっただけの話よ。
     で、天文十一年(1542年)にその浅井亮政が死んで、その子・浅井久政が跡を継いだ。丁度、わしが土岐頼芸を追放した年よ。互いにまだ混乱しておったから、人質のつもりで、政略結婚を持ちかけた。そしたら、利害が一致したんじゃろうな、素直に義龍の嫁に近江の方を出してきた。だから斎藤家としても縁がある」
     その子が斎藤龍興である。

    画像
    信長の尾張支配と浅井氏の近江支配の成立過程の違いが組織文化の違いを生む

    「それに不思議なことに、長政様と父・久政様の仲は良いのですよ」
     半兵衛が続けた。
    「そうなの?無理やり隠居させられたのに、恨んでないのね」
    「はい。本当に仲は良いです」
     実際、浅井長政が妻を離縁した直後の『島文書』により、父・久政との関係が良い事が示されており、一方で強制的に父・久政を隠居させた事実と合わせると、本人の意思ではなく国人衆の力が大きく、浅井家は国人衆の代表者・盟主(お神輿みこしのような立場)という位置付けにある事が、こちらからも推測されるのである。

    画像
    京極氏を嫌う浅井久政を、国人衆が隠居させて、浅井長政を擁立した

    島記録所収支書(第一九號)に由れば、是歳五月廿三日、今井定清小谷に登城せしに、久政父子共、色々懇之様体共候き」とあれば、當時当時久政父子が不和の状態に非ざりしことを知るべし。勿論久政は初よりして賢政の妻平井氏を離別して六角氏と絶つことに賛意を表せるに非ず。されど賢政の風采を想望せる老臣等が敢て之を請ふに及んでは、久政之を拒むことを得ず、危みながらも終に其意に任ぜしものと見ゆ。

    東浅井郡史 巻2 (国立国会図書館デジタルコレクション) 

    「でも、六角ろっかく義賢よしかたは南近江の守護でしょう?どうしてそんなはっきりと浅井家より弱いと言えるの」
     斎藤道三をボロカスに伝える『六角承禎条書』を書いたのがこの六角義賢である。剃髪して承禎じょうていを名乗っている。斎藤義龍は北近江(浅井領)に侵攻するにあたり、六角義治と斎藤義龍の娘との縁組をしようとしたが、六角義賢(承禎)は強烈に反対した。その反対を伝える書状が『六角承禎条書』である。
    「観音寺騒動がありましたからね」
    「何ですか。それは」
    「3年前になりますが、六角義賢は、息子の六角義治に家督を譲ったのです。その六角義治が重臣の後藤ごとう賢豊かたとよを殺したんです」
    「何故、殺したの?」
    「知りません。ただ、後藤賢豊は人望が厚かったらしく、多くの者がその事に抗議して、六角家に反旗を翻ひるがえしたのです」
    「それを鎮圧する時に消耗したの?」
    「いいえ。六角義賢も六角義治もまとめて、観音寺城から追い出されました。ですが、蒲生定秀・賢秀親子が仲裁して回り、観音寺城に戻ることができたと聞いています」
    「それじゃ、六角親子は家臣から全く信頼されていないのではなくて?」
    「おそらくは。今は、蒲生親子の影響力の方が大きいでしょうね」
    「六角も落ちたものよな」
     そこまで聞くと、道三が話に入ってきた。
    「六角義賢は13代将軍・足利義輝や細川晴元を助け、三好長慶と戦ったこともある男じゃ。三好長慶と和睦した後、北近江を攻めたんじゃ。そして地頭山合戦に勝って、浅井久政以下、北近江を支配下に置いた。なかなかのやり手なんじゃ」

     そして、ひと呼吸おくと続けた。
    「六角も京極も、元を辿れば、バサラ大名、佐々木道誉につらなる名門の家じゃ。以前は、比叡山延暦寺の僧兵と一緒に、京に攻め上り、法華宗を焼き討ちした事もある。なかなかの武闘派の家系じゃ」
    「えっ、延暦寺が京を焼き討ちしたのですか」
    「なんじゃ、天文法華の乱を知らなんだか」
    「はい。知りませんでした」
     天文五年(1536年)延暦寺の華王房が法華門徒の松本久吉と宗教論争(松本問答)で破れると、それを不服として延暦寺(山門、または山門衆)は南近江の守護六角氏を連れて京都の法華宗二十一本山を焼き討ちしている。天文法華の乱である。これにより応仁の乱以上に市街地が被害を受けたという。

    「そもそも延暦寺は武闘派ぞ。随分昔に、天台座主の良源が『二十六箇条制式』を定めたんじゃ。その二十六条のひとつに『修学に耐えざる愚鈍無才の僧侶を選び、武門一行の衆徒となす』というのがあっての。筋の良い僧侶は皆が想像する通り、しっかりと学んでおるが少数よ。大多数の愚鈍無才の僧は『武門の衆徒』となって、僧兵になっておる。
     それでの、延暦寺(天台宗)の華王房という僧侶が法華宗(日蓮宗)の宗徒に論破されおって、面目を潰されたもんじゃから暴挙にでたんじゃ。法華宗側だけで数千人が殺されたと聞く。まあ、法華宗も黙って殺される連中ではないがの。天文法華の乱の前には、法華宗は管領かんれい・細川晴元と組んで一向一揆と戦って、山科本願寺(浄土真宗)を焼き討ちしとるからの。うちは法華宗じゃったから、いろいろ武勇伝やら恨み言やら聞かされたわ。
     そうそう、同じ天台宗でも、三井寺(園城寺)を寺門(円珍派)、延暦寺を山門(円仁派)と言う。覚えておくといい。この二つも歴史的に仲が悪い。同じ天台宗なのに、山門は寺門の三井寺(園城寺)を何度も焼き討ちしておるわ。
     近江を知りたいなら延暦寺も知っておくべきじゃろうな」

    ◇

     道三が言う、天台座主の良源(912年~985年)は山門流円仁派の僧侶である。良源が定めた『二十六箇条制式』の本来の意図は『愚鈍無才であっても、武道による精神修養で悟りを開く事が出来る』という意味だったのではないか。なぜなら、『二十六箇条制式』は風紀の乱れを正す事が全体の目的であり文脈からそう考えるのが妥当と思われるからである。
     『法華経(五百弟子授記品)』や『阿弥陀経』に周利槃特(しゅりはんどく・チューラパンタカ)の名が出る。周利槃特は仏陀の弟子のひとりで、優秀な兄と異なり、愚鈍無才で修学に向かない者であった。それでも掃除をしたり仲間や来訪者の履物をただ綺麗にすることに専心して、ついには悟りを得ている。当然、良源は知っている筈である。だから愚鈍無才でも武道に専心すれば悟りを得られると考えたとしても不思議はない。
     しかし、長い歴史の中では、貧困から夜逃げした者だけでなく、犯罪者も寺社に逃げ込んでいた。寺社は実質的治外法権にあり、寺社に逃げ込めば、犯罪者であっても逮捕されないからである。そして、悪意をもった者も安易に得度して僧侶の肩書を得る。そんな悪意を持った僧侶が僧兵となり、自分に都合の良いように解釈して徒党を組む。良源の時代ですら、そうした状況だったから『二十六箇条制式』を作ったのだ。
     まして戦国時代である。風紀の乱れは想像を超えていた。この時代の僧侶・僧兵の大多数は現代の僧侶のイメージとはかけ離れていたのである。

    『このように比叡山にて、僧たちの悪しき行状をご覧になり慈円の多数の知友は叡山の滅亡を思われた』

    『甲陽軍鑑』品第十

    ◇

    「ありがとうございます。ちちっ・・・、沢彦和尚」
     胡蝶は、父上と言いかけて言い直した。そして、竹中半兵衛に向き直ると礼を言った。
    「ありがとう。半兵衛。いろんな意味で浅井長政殿との縁組は良い話のようね。それにしても上洛するとなると、比叡山も気にしないといけないのね。信長様はどの程度ご存知かしら」

    ◇

     初陣の動員力が8百人の織田信長。初陣の動員力が1万1千人の浅井長政。実力を示し続けた信長のカリスマ性によるトップダウン型の織田軍と、共通の苦難を乗り越えるために集まり、合意形成による判断を行うミドルアップダウン型の浅井軍。これは経路依存性に依る組織文化・組織風土の違いである。もともとの家格としては近いと言える二人だが、その内実は極めて対照的である。
     現代なら、信長は叩き上げ創業経営者・経営のカリスマであり、浅井長政は中堅企業の中興の祖となる優秀なサラリーマン社長というイメージである。当然、組織文化は大きく異なっていたのである。
     組織文化・組織風土はその成り立ち・紆余曲折うよきょくせつによっていろいろな影響を受けている。「以前にこんな出来事があったから、このようにしている」というものが積み重なって、暗黙の内に形成されているのである。それが経路依存性である。そういう意味では人の性格、あるいは信条に似ている。
     だから、同じ業種、同じ規模の企業があったとして、外部要因で似たような組織文化・組織風土を作る反面、内部要因では同じ出来事を共有しないため、全く同じ組織文化・組織風土にはならない。内部要因が支配的な時は、全く異なる組織文化・組織風土になることもある。

     ビジネスにおいても業種、リスクの大きさ、環境の変化の速さ、組織の規模に応じて、どんな組織文化・組織風土が優れているかが決まる。組織は戦略に従う。規則や組織構造は比較的容易に変更できる。しかし、組織文化・組織風土は経路依存性が強いために、容易に修正できないのである。


    全体目次・次のトピックス・関係するトピックスへのリンク

    最初の記事:全体目次へ戻る(前書き・後書き)
    次項:現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長「歸蝶の戦国記」4-6 へ
    関連:
     組織文化の影響:金ヶ崎7-1 村重謀反8-3 秀吉情報操作8-4
     浅井長政:謀反・金ヶ崎の戦い7-1   浅井長政討伐7-6
     延暦寺焼き討ち7-3
     竹中半兵衛:稲葉城奪取4-4  黒田官兵衛の子を保護8-4

    主要参考文献など

    第4章:参考書籍
     信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
     甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
     武功夜話・信長編    加来耕三・訳
     斎藤道三と義龍・龍興   横山住雄・著
     武田信玄と快川紹喜   横山住雄・著
     天下人信長の基礎構造  鈴木正貴・二木宏・編 の3章 石川美咲・著
     近江浅井氏の研究   小和田哲夫・著
     属人思考の心理学 岡本浩一・鎌田晶子・著
     比叡山の僧兵たち    成瀬龍夫・著
     大日本古文書家分け・上杉家
     三好一族と織田信長  天野忠幸・著

    第4章:参考インターネット
    六角承禎条書
    https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/gakumonjo/gallery.files/R2.4.pdf
    天文法華の乱
    https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi15.html
    三井寺(園城寺)
      http://www.shiga-miidera.or.jp/about/ct.htm
    小氷期
      https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2017/20170104.html  
      https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/656/656PDF/takahashi.pdf
    ストレスの大きさ
     国立保健医療科学院
     
    https://www.niph.go.jp/journal/data/42-3/199342030005.pdf
     国立精神・神経医療研究センター
    https://www.ncnp.go.jp/hospital/patient/rinshoshinri/rinshoshinri_blog20220411.html
    (国立国会図書館デジタルコレクション)
      黒田, 惟信 編『東浅井郡志』 2巻、滋賀県東浅井郡教育会
    Wikisouce: 美濃国諸旧記  編者)黒川真道
    Wikisouce: 濃陽諸士伝記  編者)黒川真道
    Wikipedia

    #創作大賞2025 #ビジネス部門

     
     
     
    戦国時代を舞台にビジネスの視点を表現しようとNoteを始めた。調べ始めたら、信長像が大きく変わって調査続行中。また、それとは別に思った事をツラツラと公開してます。

    あなたへのおすすめ