
現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長 「歸蝶の戦国記」2ー5
第2章 時代背景・胡蝶が学ぶ道三の教え
~勝つ為の視点~
第5節 胡蝶の輿入れ・DOICサイクル(実行・観察・改善・検証)
天文十三年(1544年)九月、織田信秀(信長の父)は美濃に攻め込んだ。朝倉孝景との連合軍であった。斎藤道三に美濃を追われ、尾張で保護された元守護・土岐頼芸を美濃に復帰させる事が大義名分である。織田信秀は稲葉山城の近くまで攻め込んでいるが、攻めきれず、撤退のタイミングを斎藤道三に追撃されて大敗している。これが加納口の戦いである。この時、織田軍は多くの将兵が討ち取られ、『信長公記』によれば、死者の数は5千人とされる。そして、その後の第2次小豆坂の戦い(1547年)で今川に大敗する原因の一つとなる。
『永泉余滴』によると天文十五年(1546年)秋に美濃の講和がなされている。(なお、加納口の戦いには1547年説があるが、この講和の記載が加納口の戦いを指すと考えると、1544年説を支持するものとなる。)
この講和は主に朝倉孝景との講和を指している。講和の条件として道三の娘が土岐頼純に嫁いでおり、それが濃姫・帰蝶という説がある。その後、土岐頼純は大桑城を攻められ越前にて死ぬ。嫁いだのが帰蝶だとすると帰蝶は12才にして、今で言うバツ1(さらにその後、頼純の弟の嫁になった説があり、その場合はバツ2)という事になる。
但し、当時は、他家の娘を養子縁組して、それから嫁がせる事も頻繁に行われており、この娘が帰蝶ではない可能性も十分にある。もし、別の娘であった場合には、朝倉に娘を人質に出して講和したのだから、織田にも講和のために人質を出せと言われて出した娘が帰蝶と言う話になる。
ともかく、天文十八年(1549年)三月、濃姫は信長に輿入れする。平手政秀がとても頑張ったようである。
◇
さて、この物語の胡蝶は一度も嫁いだことはない。相も変わらず道三の壁打ち(と称するスパルタ教育)を受けており、メンタルも鍛えられていた。時折、道三に連れられて市井に降りる事もあった。
そんな天文十七年(1548年)某日、泰秀宗韓和尚が一人の男を連れて、稲葉山城を訪れた。
◇
泰秀宗韓は大宝寺(岐阜市)の2世住持である。天文元年(1532年)には愛知県犬山市の永泉寺の開山和尚に指名されており、天文六年(1537年)には斎藤利紹に招かれて泰秀宗韓は現在の岐阜県関市にあった万年山霊松寺にも入寺している。濃尾地区では高僧として知られており、しかも中国古典に精通した高僧である。泰秀宗韓は、天文九年(1540年)『沢彦』宛てに印可状を与えている。その後、天文十二年(1543年)に、泰秀宗韓は『沢彦』に二度目の印可状を与えている。印可状とは、師となる僧が、その道に熟達した事を認めて弟子に与える書状であり、通常、印可状を複数回出す事は無い。卒業証書を2回もらうようなものである。
◇
この物語では、なんとその『沢彦』が道三である。道三の父・庄五郎は元・僧である。その父に勧められるままに道三は、泰秀宗韓に師事する事にしたのだ。そもそも道三は兵法書が目的であったのだが中国古典全般にハマり、兵法書に限らず仏教経典も習得していった。泰秀宗韓から見ても道三は十分な知識を習得したので1回目の印可状をだした。2回目は道三が国主となって落ち着いた頃である。これには多くの寄進に感謝の意を伝える形を取りながらも、美濃支配を確立した道三に仏法を思い出させようとしたものだった。なお、この物語では知名度の高い『道三』を最初から用いているが、家督を譲る天文二十三年(1554年)以前は『斎藤利政』と名乗っている。つまり『斎藤利政』は武士としての名前であり、法名『沢彦』は僧として活動する時のペンネームである。道三は、武士の活動と僧の活動を完全に分けているのだ。
道三の師・泰秀宗韓が連れてきた男は平手政秀。織田信長の教育係である。ついこの間まで、戦っていた織田の家臣である。道三にとって気分が良い訳がない。
平手政秀は茶道や和歌など当時の先端文化に精通した文化人である。天文二年(1533年)に公家・山科言継が尾張を訪問した際には賞賛を受けるほどの紳士である。そんな、平手政秀の所作が落ち着いている上に、恩師が一緒では、道三も良識を持って対応せざるを得ない。
もちろん用件は分かっている。同盟、つまり、胡蝶の輿入れである。
「胡蝶、これへ」
呼ばれた胡蝶は道三の横に立った。泰秀宗韓とは顔見知りである。書物を借りた事もある。何度か講話を聴いたこともある。泰秀宗韓も胡蝶を見て、にっこりとほほ笑む。平手政秀は、興味深そうに胡蝶を見た。事前に何か聞かされていたのだろう。
「胡蝶。お前が決めよ」
胡蝶は一瞬驚いたが、少し笑みを浮かべながら道三を見上げた。女子は同盟や調略の道具として扱われる事が多い。胡蝶の意思など相手にされないと思っていた。それが、自分で決めて良いと言われたのだ。うれしくない訳がない。
「はい。では、そのうつけ殿を見てみたいです」
うつけ殿とは、当然、信長のことである。
「あい分かった。見合いの席を設けよう」
平手政秀は顔色も変えずに即答した。世間の評判は承知している。しかし、美濃の小娘に『うつけ殿』と呼ばれては先が思いやられる。
「いえ。見合いではなく、普段のうつけ殿を見てみたいです」
平手政秀は少し驚いた顔をしていたが、泰秀宗韓と道三は目を配せながら、クスクスと笑っていた。
「よし、安藤守就と稲葉良通を連れていけ」
のちに美濃三人衆といわれるうちの二人である。見た目も少々厳つい。こっそり見に行こうとしているのに、目立ってしょうがない。
(仕方ないか・・・)by胡蝶
それを聞いて、胡蝶は微妙な顔をした。
胡蝶は、うつけ殿のアホ面みたら、ボロクソ言って、断ってやろうと内心思っていた。恐らくは道三もそれを期待していたのかもしれない。
心中穏やかでないのは平手政秀である。敵将、それも猛将と名高い二人を後ろにして、道中を歩き続ける事になるのだから。
翌日、準備を整えた5人は尾張に入っていた。
尾張領に入ってしばらく行くと、大勢の声が聞こえる。合戦のようである。5人に一瞬緊張が走る。
「恒興軍の勝ちじゃ」
大きな声が響くと、平手政秀がほっとした様子を見せた。そして、穏やかな表情に戻ると、胡蝶の耳元でつぶやいた。
「今のが、信長様の声です」
そして、5人は草陰に隠れて、様子を伺った。
場を仕切っているのは、髪は茶筅髷、それを紅や黄色の紐で結って立て、湯帷子を片方だけ袖脱ぎにして、半袴、腰には瓢箪やら袋やら、いろいろぶら下げた男である。
(うわぁ。パンクだわ。でもイケメン・・・?)by胡蝶
時々『胡蝶の夢』で見た言葉がふっと湧いて出てくるのだが、意味までは思い出せない。戦国時代の言葉ではないのだろう。
「もう1戦やるぞ。っとその前に集まれ!」
合戦のようにも見えるが、槍の先には薄く朱をにじませた布が丸くついていた。ケガを防止して、且つ、当たり判定をしやすくしているのだ。
「利家。負けた理由は何か」
「長い槍は上手く使えば、敵の攻撃を受ける前に敵を刺せます。ですが、その内側に入られると、引き戻せずに刀に対抗できませんでした」
「どうすれば良いか?」
「わかりません」
「わかる者はおるか?」
信長は周りを見渡すと、
「仕方ねぇな。自分の命がかかってんだぞ。頭使え!」
そう言うと、半分の槍を半間ほど切らせた。
「2列に並べ!前に立つものは今切った短い槍を持て、後ろの列は長いままの槍を持って、前の列が討ち漏らした奴を狙え。隙間に入らせるな!」
そして、第2戦は利家軍が勝った。以来、三間槍と三間半槍の二種類に揃えさせ、上槍隊・下槍隊の2列で訓練するようになった。
信長は十六・十七・十八の頃までは、特にこれといった遊びにふけることもなく、馬術を朝夕に稽古し、また、三月から九月までは川で水練をした。泳ぎは達者であった。その頃、竹槍の訓練試合を見て、「いずれにせよ、槍は短くては具合が悪いようだ」と言って柄の長さを三間または三間半に揃えさせた。
また『甲陽軍鑑』に、次のようなくだりがある。
ある時信長公の母君より、金一封が届いた。
信長公は近辺の子供を集め、合戦ごっこの遊びをした。
母から銭を武器に強そうな者にまず前金を与えてから
二つの部隊に分けて戦い、おもうままにたたき勝ってから
上機嫌で引きあげた。その時に味方で強かった子供たちは
先の約束通り、残った銭を受け取ったという。
この頃から、信長は合戦ごっこと称して、次世代親衛隊の軍事訓練をしていたのである。
「帰りましょう」
胡蝶が静かに告げる。
「お遊びよな」
「あぁ。あのようなオモチャではな」
安藤守就と稲葉良通が感想を言いあった。
「普段の恰好はもう少しマシなのですが、今日は特に・・・」
平手政秀が、申し訳なさそうに言った。
彼らの会話に、胡蝶は僅かに驚いたような表情を見せたが、気付くものはいない。
(判ってないの?実戦訓練、臨機応変な改善に創意工夫、直ぐに効果を
確認。あっという間に強くなるわ。何なのよ、あいつ)by胡蝶
小さくため息をつくと、胡蝶はうつむいた。そして、小さく呟いた。
「はぁぁ。決めたわ。了承します」
それを聞いて、平手政秀は一瞬耳を疑って、聞き返す。
「今なんと」
「了承します。輿入れします」
今度ははっきりと言い放った。それを聞いて、平手政秀は手を叩いて喜んだ。一方、安藤守就と稲葉良通は驚きを隠せなかった。
「これは、めでたい。では、急いで準備を始めましょうぞ」
(あんなのを敵にして、どうしろって言うの)
これまで同世代の男を見ても幼児にしか見えなかった。それが信長を見た時、胡蝶の頭の中では、負けを認めて輿入れするか戦って負けるかの二択しか浮かばなかった。
そして、泰秀宗韓を見上げた。「この人なら分かるはず」そんな気持ちがあった。泰秀宗韓は穏やかな表情で、複雑な表情を見せる胡蝶を見下ろしていた。
(あぁ、私、輿入れするのか・・・。)
軽い敗北感に包まれながら、胡蝶は天を見上げた。
(あら、空がきれい。)
◇
天文十八年(1549年)、胡蝶は織田信長に輿入れする。
信長公記に、その後の天文二十二年(1553年)四月、斎藤道三は織田信長と正徳寺にて初めて面会したとされる。その帰路、猪子高就との会話にて道三の言葉がこう記される。
途中、茜部というところで、猪子高就が斎藤道三に、「どうみても信長殿は阿呆でございますな」と言った。道三は、「だから無念だ。この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の門前に馬を繋ぐことになろう」とだけ言った。
これは創作の可能性が極めて高い。道三と一緒に美濃に向かっていないと聞く事ができない会話である。まず太田牛一はこの頃、部外者。太田牛一は天文二十三年(1554年)から織田家足軽になったので実際に聞くことはない。次に猪子高就は天文十五年生まれなので、道三との会話は猪子高就8才の時である。道三は8才の子供を連れていき、こんな会話をしたことになる。猪子高就が嘘を太田牛一に伝えたかもしれない。しかし猪子高就は本能寺の変で信長・信忠に殉じた人物であり、そのような嘘を伝えるとは考え難い。だとすれば、太田牛一の創作(印象操作)である可能性が非常に高い。
近年、天文二十一年(1552年)頃に近隣の領主に向けて道三が書いた書状が発見された。その書状には「信長とあなたは大変親しいということでうれしく思う」と記し、信長については「若造で至らない点もあるがご容赦いただき、末永くつきあってほしい」とある。
一.斎藤道三書状 〔天文二十一年(一五五二)頃〕二月六日
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[釈文]
如芳札未申通候処、示預候、/殊御使幷御太刀一腰・馬/一疋贈給候、本望之至候、/仍織三(織田信長)与御間之儀、別而御/入魂之旨於此方令祝/着候、若年之条毎事/可為不相届候耳候歟、有/御用捨永可被仰談事、/専要候、爰許相応之子細/不可有疎意候、猶自是/可申之間、抛筆候、恐々/謹言
三月六日 道三(斎藤)(花押)
佐治左馬允(為平)殿
御返報
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[大意]
今までご挨拶をしたことはありませんが、先のお手紙の通りご連絡をいただきました。とりわけ、お使いと太刀一振り・馬一匹をいただいたことは本望です。織田三郎(信長)と(あなた様)の間が大変親しいとのことで、当方もうれしく思います。(信長は)若造なので、色々と至らない点ばかりだと思いますが、末永くお付き合いいただくのが大切です。こちらでできることがあれば、(あなた様のことを)疎かにすることはありません。その他は、この使者から申し伝えますので、ここで手紙を終わりにします。
(会期:令和七年(二〇二五)三月二十二日~五月二十五日)
配布資料より・「戦国武将書翰集」の釈文と大意
そうすると、次の浅井文書の意味も同様と言える。信長公記の与えるイメージ(道三は信長が嫌い)では「信長では尾張を掌握できないなら獲れないか」と調略の意味で解釈されるかもしれない。しかし、上記の書状と合わせて読めば、文言通り素直に若い信長を気遣っていると解釈するべきだろう。
浅井文書(淺井又太郎氏所藏)
齊藤道三書状〔影寫本〕
御札拝覧申候、御家中之體、如仰外聞不可然次第候、於此方令迷惑候、
不寄退候間共、不被捨置可被仰談事可然候、何篇重而以使者御存分可承候、
三郎殿様雖若年之義候、不謂御苦勞可爲尤候、猶〱期來音候、
恐惶謹言
六月廿二日 道三(花押)
織田玄蕃允殿
御報
さらに後日の村木砦の戦いで、安藤守就を派遣したことも併せて考慮すれば、斎藤道三が織田信長を好意的に見ていると考える方が自然である。
そうなると通説では、国譲り状は偽書とされるが、本物と解釈するべきではないだろうか。そして国譲り状の「明日及一戦」は長良川の戦いということになる。「明日の合戦では負けるかもしれない」と、覚悟して書いた書状になる。
妙覺寺文書 齋藤道三(利政)遺言状
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態申送候意趣者、於美濃之國大桑、終には織田上總介可任存分之条、譲状對信長渡遣、爲其節下口出勢眼前也、其方事、如堅約之、京之妙覺寺へ被登尤候、一子出家九族生天といへり、如此調候一筆泪計、よしそれも夢、齋藤山城至之、法花妙射之内、生老病死之苦をは、修羅場ニをゐて得佛果、嬉哉、既明日及一戦、五躰不具之成佛、不可有疑、けにや捨てたに此世のほかはなき物を、いつくかつゐのすみかなりけん、
弘治二年 四月十九日
齋藤山城入
道三(利政)
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この物語で胡蝶を心変わりさせた信長の行動、DOICサイクルとは、Do(実行)Observe(観察)Improve(改善)Check(効果確認)からの造語である。日常の改善活動であるため、ここに計画は無い。
一般的にはPDCAサイクルが有名である。PDCAとは、Plan(計画)Do(実行)Check(評価)Action(改善)であり、重厚長大高リスクな案件やウォーターフォール型のプロジェクトに向いている。近年ではIT化が進み、OODAサイクルが良いとされる。OODAとは、Observe(観察)、Orient(方向づけ)、Decide(意思決定)、Act(行動)の略であり、変化が早い軽薄短小低リスクな案件やアジャイル型プロジェクトに向いている。
信長の行動は、むしろ、リーン生産方式における現場作業員による不具合改善(改善活動)に似ている。実行(日常運転・模擬戦=Do)において、不具合や改善点を探して(Observe)、直ちに改善(Improve)し、効果を評価(Check)する。これを称してDOICサイクルと呼んでいる。
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次項:現代の経営戦略で視る新解釈・織田信長「歸蝶の戦国記」3-1 へ
関連:
平手政秀の諫死:3-2
主要参考文献など
第2章:参考書籍
信長公記 太田牛一・著 中川太古・訳
甲陽軍鑑 腰原哲朗・訳
武功夜話・信長編 加来耕三・訳
信長公記・戦国覇者の一級史料 和田裕弘・著
姫君の戦国史 榎本秋・安達真名・鳥居彩音・著
斎藤道三と義龍・龍興 横山住雄・著
荘子 金谷治・訳注
濃尾歴研・創刊号 濃尾歴史文化研究所(横山住雄・著)
君主論 マキアヴェッリ・著 黒田正利・訳
指導力革命 ロバート・E・ケリー・著
行動科学の展開 P・ハーシー、他2名・著 山本成二・山本あづさ・訳
リーン生産方式が世界の自動車産業をこう変える
ジェームズ・P・ウォマック、ダニエル・ルース、ダニエル・T・ジョーンズ・著
第2章:参考インターネット
濃姫の名前
https://www.jstage.jst.go.jp/article/toyotakosenkiyo/46/0/46_KJ00008915460/_article/-char/ja/
六角承禎条書
https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/gakumonjo/gallery.files/R2.4.pdf
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/75390/
道三の書状
(NHKニュース2024年4月24日は現在はリンクが切れている)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240424/k10014431231000.html
(水戸市立博物館・特別展示)
https://www.city.mito.lg.jp/site/museum/95590.html
https://www.city.mito.lg.jp/uploaded/life/95590_182770_misc.pdf
ソロバン
https://www.shuzan.jp/gakushu/history/
https://www.hashiriimochi.co.jp/history06.html
水疱瘡・疱瘡
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/418-varicella-intro.html
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/445-smallpox-intro.html
その他
Wikisource : 美濃国諸旧記・巻之二 黒川真道・編
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