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本能寺の変1582 【重史246】 『信長公記』 №6-043 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史246】 『信長公記』     №6-043

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     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     3光秀と光慶  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】
     【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史246】                    №6-043

    ①岐阜中将信忠卿、驄(あしげ)の御馬、

    ②北畠中将信雄卿、河原毛御馬。

    ③織田三七信孝、糟毛御馬、

    ④後には、御馬ども懸け足にめさせられ、御叡覧に備へられ、

    ⑤本朝の儀は申すに及ばず、

    ⑥異国にも、かほどの様(ためし)これあるべからず。

    ⑦天下安泰にして、黎民(れいみん)、烟戸(かまど)さ(鎖)ゝず、

    ⑧かほど面白き御遊興、

    ⑨天子御叡覧、御歓喜斜ならざるの旨、忝くも、御綸言。

    ⑩信長の御面目、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。

    ⑪千秋万歳、珍重々々。

                           『信長公記』

     
    天正九年1581、二月二十八日。
                 158100228

    三人の息子たちは、特に、華やかだった。
    信忠(嫡男)、弘治三年1557の生まれ、この年25歳。
    信雄(二男)、永禄元年1558 〃    〃 24歳。
    信孝(三男)、同年       〃    〃 24歳。
     
      岐阜中将信忠卿、驄(あしげ)の御馬、
      勝(すぐ)れたる早馬なり。
      御装束、事に勝れて、花やかなり。
     
      北畠中将信雄卿、河原毛御馬。
     
      織田三七信孝、糟毛御馬、
      目に立ちて、足きゝ早馬、達者比類なし。

      此の外、何れも、おとらぬ名馬、いづれを何れとも、申し難し。
      似相(にあい)々々の御装束、是れまた、興を催す有様なり。

    天皇は、馬の懸け足を御覧になられた。
     
      後には、御馬ども懸け足にめさせられ、
      御叡覧に備へられ、

      皆々、馬上の達者、花麗(かれい)なる御出立、

      本朝の儀は申すに及ばず、
      異国にも、かほどの様(ためし)これあるべからず。

    人々は、世の平和を実感していた。
    「天下安泰」

    すべては、信長のおかげである。

    信長は、大衆に絶大な人気があった。
     
      貴賤群集の輩(ともがら)、かゝる目出たき御代に合ひ、
      天下安泰にして、
      黎民(れいみん=庶民)、烟戸(かまど)さ(鎖)ゝず、
      生前の思ひ出、有りがたき次第にて、上古・末代の見物なり。

    正親町天皇は、大そう御喜びになられた。

      然うして、御馬めし候半(なかば)、十二人の御勅使を以て、
      かほど面白き御遊興、天子御叡覧、御歓喜斜ならざるの旨、
      忝くも、御綸言(りんげん)。

    信長の功績は、きわめて大きい。
     
      併(しか)しながら、信長の御面目、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。

      晩に及び、御馬を納められ、本能寺に至つて御帰宅。

    めでたし、めでたし。

      千秋万歳、珍重々々。
                               (『信長公記』)


     【引用】【京都馬揃え】【さらなる夢】
         【光秀という男】 目次 結論 目 
         【四国問題】 天正八年 天正九年 天正十年 目次



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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