
本能寺の変1582 【重史283】1/2 №6-260 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史283】1/2 №6-260
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男
2光秀という男 1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
3光秀の後継者 1 信長と信忠 2 光秀と光慶 3 明智の将来
4 先祖の教訓
5 光秀と大量殺戮 1 仰木の事 2 比叡山焼討 3 越前 一向一揆殲滅
6 三人の謀叛人 1 丹波 波多野秀治 2 大和 松永久秀
3 摂津 荒木村重 4 光秀の総括
←3 志向の相違
光秀の苦悩
1 粛清の怖れ
2 光秀の老い
3 志向の相違
4 四国問題 躓き
5 事態急変
6 自立への道
←4 武田の滅亡
1 甲斐遠征
2 勝頼の首
3 武田効果
←5 信長の油断 大要 概略
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日
4月24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
5月11日
3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
5/5 概
5月15日 大 概
密室にて 大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
⑤ 概
4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
5月17日
坂本にて 目次 大 概
1 2 3 ① ② ③
4 ① ② 5 6
5月19日 大 概
5月20日 大 概
5月21日 大 概
5 謀叛人の顔 1 謀叛の結末
2 信長の弱点
時は今、・・・・・
5月26日 大 概
5月27日 大 概
5月28日 大 概
5月29日 大 概
←さる程に、不慮の題目出来候て、
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←【抜粋】
←【注目ポイント】 目次
←【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
←「その一因」 目次大 概説大 目次中
←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史283】1/2 №6-260
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①廿日の書状、今日廿二、府中に至り到来、披見候、
②十七日到来分二千余、
③同十八日、五百・六百つゝ、方々より持ち来り候、
④十九日、茶箋・三七郎・上野介・・・の手より六百余、
⑤廿日・・・千余人切り捨て、生け捕り百余人、首を刎ね候、
⑥廿一日、柴田・惟住方より千余切るの由、注進候、
「高橋源一郎氏持参文書」「織田信長文書の研究」
天正三年1575、八月二十二日。 1575000822
信長は、府中にいる。
信長は、村井貞勝に書状を送り、越前の状況を報せた (①~⑩) 。
前回(八月十七日)に引きつづき、これで二度目である。 →【重史279】
①貞勝は、京都所司代。
信長と、頻繁に、連絡を取り合っていた。
貞勝は、都における広報官でもあった。
二日後、これらのことが公家たちに伝わる。
廿日の書状、今日廿二、府中に至り到来、披見候、
一、此の表の様子、去る十七日に申し遣わすの状、則ち、相届く由、
其の意を得候、
信長は、「報告」を重視した。
信長は、絶対専制君主。
「即決即断」
そのために、早くて、正確、かつ、わかり易い「報告」を必要とした。
すなわち、そのレベルが家臣らの能力を判断する一つの基準となった。
中でも、気に入っているのが明智光秀。
「まるで、見ているようだ」
絶賛している。 →【重史044】 【重史045】
それと、秀吉。
秀吉は、要領がよい。
そして、この村井貞勝だろう。
これに対して、その真逆を行ったのが佐久間信盛であった。
信盛は、それが一因となり、やがて失脚する。 →【粛清 佐久間信盛】
②信長は、十七日~二十一日のことを話した。
そこには、「狂気の世界」があった。
各所で、織田軍による「殺戮」が繰り広げられた。
まるで、競い合うが如し。
「首を刎ね」、「くひをきり」、「くひを切り」、「くひをきり」、
「切り捨て」、「首を刎ね」、「切り」、「くひをきり」、
と続く。
→2-5-3 越前 一向一揆殲滅
→【重史279】 【重史280】 【重史281】 【重史282】
一、木の目・鉢伏追い破り、
西光寺・下間和泉(頼総)法橋・若林、
其の外、豊原西方院・朝倉三郎以下首を刎ね候後、
人数を四手にわけ、山々谷々残すところなく捜し出し、
くひをきり候、
十七日到来分二千余、
生け捕り七八十人これ在り、
則ち、くひを切り候、
同十八日、
五百・六百つゝ、方々より持ち来り候、
一向、数を知らず候、
十九日、
原田備中(直政)守・滝川左近(一益)進を、
茶箋(信雄)・三七郎(信孝)・上野(信包)介に相副え遣はし候、
其の手より六百余、
氏家(直通)・武藤(舜秀)手にて、一乗の然るべき者ども三百余、
柴田修理(勝家)亮・惟住五郎(丹羽長秀)左衛門慰、
朝倉与三、要害を構え楯籠り候を攻め崩し、
左右の者六百余を討ち捕り、生け捕り百余人、
則ち、くひをきり候、
廿日、
ひなかたけと申す山へ、玖右衛門(菅屋長頼)慰・前田又左(利家)衛門
慰、其の外馬廻りの者どもを遣わし、
千余人切り捨て、生け捕り百余人、
これも則ち、首を刎ね候、
茶箋・滝川の手にて、
大滝・白山に於いて籠屋(こもりや)を追い崩し、六百余、
其の外、平野土佐(定久)・あさみ、
鉄炮の者ども五十・六十つゝこれを切り、
生け捕り十人・廿人つゝ到来、数を知らず候、
廿一日、
佐久間甚九郎(信栄)手にて五百余、
生け捕り十余人、即ち、くひをきり候、
何とも、凄まじい光景である。
身の毛がよだつ。
恐ろしい時代であった。
その先頭を走ったのが光秀と秀吉だった。
「手本」を示した様なものである。
諸将は、これに右倣い。
信長は、この二人に、それを期待していたのである。
信長は、満足した。
全て、思惑通り。
使いやすい存在だったのだろう。
二人は、それを心得ていた。
信長は、厳命した。
「山々谷々残すところなく捜し出し」
「籠屋を追い崩し」
将兵は、これを徹底した。
③信長は、朝倉景健を生害させた。
一、朝倉孫三郎、風尾の要害に楯籠り、色々懇望せしめ候と雖も、
赦免せず、
昨日廿一、生害させ候、
彼ら被官 金子兄弟以下、首をはね候、
④柴田勝家と丹羽長秀は、一揆勢千余を斬殺した。
一、廿一日、
柴田・惟住方より千余切るの由、注進候、
同日、
氏家・武藤かたより、二谷を撫で切りにし候て、
数を知らざるの由、申し越し候、
生け捕り三十六人これ在り、
其の内、河野代坊主了源、これも即ち、くひを切り候、
(「高橋源一郎氏持参文書」「織田信長文書の研究」1/2)
【引用】2-5-3 越前 一向一揆殲滅
PS
9月17日より、noteの関連の部分につき、突然、メールの着信が止められてしまいました。
note側・メール会社側、両方とも、原因となり得るヶ所を、幾度も、確認・チェックしておりますが、異常ヶ所が見当たりません。
今までに、経験したことのないトラブルです。
何しろ、キカイオンチのため、大変、困惑しております。
早急に、解決したいのですが・・・・・。
どの様にすれば、復旧するのかなぁ・・・・・?
いろいろと、御迷惑をおかけ致しておりますが、今後とも、よろしくお願い
申し上げます。
⇒ 次へつづく