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本能寺の変1582 【重史279】 №6-254 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史279】 №6-254

    はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
    ←【五大要因】  中  小
    ←1 時代の風潮
     
     1戦国時代=相互不信の時代
      2美濃
      3尾張
    ←2 光秀の実像
     
     1信長という男
      2光秀という男  1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
      3光秀の後継者  1 信長と信忠 2 光秀と光慶 3 明智の将来
      4 先祖の教訓
      5 光秀と大量殺戮 1 仰木の事 2 比叡山焼討 3 越前 一向一揆殲滅
      6 三人の謀叛人  1 丹波 波多野秀治 2 大和 松永久秀
                3 摂津 荒木村重  4 光秀の総括
    ←3 志向の相違 光秀の苦悩 
     
     1粛清の怖れ
      2 光秀の老い
      3 四国問題 躓き
      4 事態急変
      5 志向の相違
      6 自立への道
    ←4 武田の滅亡
     
     1甲斐遠征
      2勝頼の首
      3武田効果
    ←5 信長の油断 大要 概略
      
    「事態急変」
      1 勝利の余韻  概略 4月21日
                  4月24日
      2 四国出陣   概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
                  5月11日
      3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
                         5/5 概
                5月15日 大 概
                密室にて  大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
                         ① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
                         ⑤ 概
      4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
                  5月17日
                坂本にて 目次 大 概
                         1 2 3 ① ② ③
                         4 ① ② 5 6 
                  5月19日 大 概
                  5月20日 大 概
                  5月21日 大 概
      5 謀叛人の顔     1 謀叛の結末
                  2 信長の弱点        
      時は今、・・・・・
                  5月26日 大 概
                  5月27日 大 概
                  5月28日 大 概
                  5月29日 大 概
    ←さる程に、不慮の題目出来候て、

    ←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
    ←【抜粋】
    ←【注目ポイント】 目次
    ←【人物】
    ←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
    ←「その一因」 目次大 概説大 目次中 
    ←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
    ←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
    ←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
    ←【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
    *加筆修正

    【重史279】 №6-254

    【記事一覧】>【重要史料】>【重要史料14】 261~280>

    ①十五日の書状、今日十七朝、到来、披見候、

    ②昨日十六、我々、木の目口出馬候に付きて、

    ③維(惟)任日向守は、浜手より、府中の町へ罷り越し、

    ④羽柴筑前守も、維(惟)任と相談(かた)らひ、府中へ相越し候て、  

    ⑤府中町にて、千五百ほどくひをきり(首を斬り)、

    ⑥其の外近辺にて、都合二千余きり候、

    ⑦即ち、両日の間に一国平均に申し付け候、

    ⑧府中の町は、死かい(骸)計りにて、一円あき所なく候、

    ⑨今日は、山々谷々を尋ね捜し打ち果すべく候、

                            「泉文書」

    天正三年1575、八月十七日。               1575000817

    信長は、府中から、京の村井貞勝へ、越前の戦況を伝えた (①~④) 。
    この日の朝、貞勝から、書状が届いていた。
    それに対する返書である。

    ①京から、越前府中まで、二日ほどを要している。
     発送、「十五日」。
     到着、「今日十七朝」。 
     
        尚々、態(わざ)と飛脚を上すべく候ところ、申し越し候間、
        幸いの事に候条、此の如く候、
     
      十五日の書状、今日十七朝、到来、披見候、

    ②信長は、先ず十四日・十五日の様子を述べた。 
     
      一、此の表の事、
        去る十四日敦賀に至り着陣せしめ、

        則ち、
        十五日
        木の目(芽)口、

     光秀と秀吉は、浜手の街道を北上した。        →【重史277】

        幷(なら)びに、浜手其の外方々へ人数をく(配)はり、
        先ず、浜の方にこれ有る篠尾・杉津両城を攻め崩し、

     光秀と秀吉は、一揆勢二、三百余を討ち取った。    →【重史277】

        数多(あまた)くひ(首)をきり、気を散じ候、

    ③次ぎ、十六日のこと。
     信長の本軍は、山手の街道=木の芽峠を北上、一揆勢を追い立てた。
     
      一、昨日十六、
        我々、木の目口出馬候に付きて、

     信長は、光秀に「挟み撃ち」=殲滅作戦を命じていた。 →【重史277】
     「其の調儀、申し付け候」、とある。

     すなわち、・・・・・。
     光秀が、この作戦の総指揮官=主役だった。

     光秀は、浜手街道を北上する別動隊。
     大良越えにて、越前府中へ。
     一揆勢の背後に廻わり込んだ。

     光秀は、辺り一帯に火を放った。
     幾筋もの黒煙が、勢いよく天に舞い上がった。

     山手の一揆勢が、これを見る。

     信長も、これを見た。
     
        維(惟)任日向守は、浜手より、府中の町へ罷り越し、
        相待つべく候、

        木の目追い崩し候はゞ、にけ還(逃げかえ)るべく候の間、
        其の調儀、申し付け候ひき、

     複雑である。
     難しい役目であった。
     「一網打尽」
     追い込む側と、待ち受ける側。
     「呼吸」が合わねば、取り逃がす。
     斯くなれば、元の木阿弥。
     長期戦となるは、必定。
     その間に、何が起こるかわからない。
     「惟任ならば」
     信長は、そう考えていたのだろう。

     そして、もう一人。
     羽柴秀吉。


     正に、絶妙の組み合わせ。
     さすがである。
     信長の見事な采配であった。

     光秀と秀吉。
     「鉄壁の布陣」
     二人は、逃げ落ちて来る一揆勢を待ち構えた。

     秀吉は、光秀に、次ぐ立場。
     「羽柴筑前守(秀吉)も」「維(惟)任と相談(かた)らひ」、とある。
     秀吉は、光秀のよき理解者。
     これに合力した。
     
     光秀が、総指揮官。
     秀吉は、それに次ぐ立場。
     同位・同列では、ない。 
     
      羽柴筑前守(秀吉)も、去年、木の目の城取られ候遺恨に、
      維(惟)任と相談(かた)らひ、

     秀吉もまた、別動隊。
     一つの作戦を、二つの別動隊が、協力しながら行った

      府中へ十五日夜中に相越し候て、二手につくり、
      相待ち候ところ、 

     信長の作戦は、見事に的中した。
     
      案の如く、五百・三百ずつにけ(逃げ)かゝり候を、

     これが、光秀の実像である。
     秀吉もまた、これに同じ。

     光秀と秀吉は、一揆勢二千余を斬殺した。
     見事、信長の期待に応えた。

     
      府中町にて、千五百ほどくひをきり(首を斬り)、
      其の外近辺にて、都合二千余きり候、
     
      大将分の者、西光寺・下間和泉(頼総)・若林、討ち取り候、
      若林、仮名書くべく候へども、それの名にま(紛)きれ候て、如何の間、
      書かず候(漢字で書いた)、
      定めて、くせ(曲者)ものにて候間、隠れ有るべからず候、

     信長は、わずか二日で越前を平定した。
     
      即ち、両日の間に一国平均に申し付け候、

     以下、信長が府中に入った時、目の前に広がっていた光景である。
     有名な一節。

     「府中の町は、死かい(骸)計りにて、一円あき所なく候」

     自慢しているようにも見える。
     殺伐とした時代だった。
     
      府中の町は、死かい(骸)計りにて、
      一円あき所なく候、
      見せ度く候、

     これを実行したのが、光秀と秀吉だった。
     
     信長は、典型的な戦国武将。
     目的のためには、手段を選ばない。
     恐ろしい男なのである。


     越前は、「一揆持ちの国」。
     平均(へいぎん)するには、「根絶やし」にするしかない。
     そう、考えていたのだろう。

     「同じ穴の狢」
     光秀は、信長と同じ感覚の持ち主。
     秀吉もまた、これに同じ。

     叡山焼討を見よ!!。
     あの時も、そうだった。

     元亀二年1571、九月。
     光秀は、容赦しなかった。
     「数千の屍(しかばね)算を乱し、哀れなる仕合せなり」 (『信長公記』) 。
     そうせねば、都を維持することが出来なかった。

     光秀は、「大量殺戮」を厭(いと)わぬ男。
     否、むしろ、積極的だった。

     結果を見れば、よくわかる。
     信長は、光秀を、家中最大の功労者と評価した。
     近江志賀一郡、拝領。
     坂本に築城を命じられた。 

     このことがあった。

     これらを見ればよくわかる。
     光秀は、決して柔(やわ)な男ではない。
     その逆であった。
     非情で、情け容赦のない一面を持ち合わせていた。
     強靭でしたたかな戦国武将だった。

     その上、「貪欲」だった。
     手柄・勲功、立身出世。
     全ては、子らのため、明智のため。

     だからこそ、今の明智がある。
     光秀の明智家は、「大量殺戮」の上に成り立った家だった。
     過酷な時代であった。

    十七日
    斯くして、掃討戦が始まった。
    織田の諸将もまた、同じ光景を目にした。
    「府中の町は、死かい(骸)計り・・・・・」
    そして、各所へと散開して行く。
     
      今日は、山々谷々を尋ね捜し打ち果すべく候、

    ④信長は、貞勝に、これらの事を荒木村重と三好康長に伝えるよう命じた。
     
      一、越前、此の如く即時に存分に属し、隙を明け候間、
        何口も本意のごとく申し付くべく候間、心(うら)安かるべく候、

        此れらの趣、荒木信濃守・三好山城守以下に申し聞かせ、
        よろこばせ候べく候、
        猶、追々申し聞かすべく候、
        謹言、

              (天正三年)
               八月十七日           信長(朱印)
                村井長門守殿             
                     (「泉文書」「織田信長文書の研究」)

     これによれば、荒木村重は越前にいない。
     摂津に残っていたことになる。
     これ程の大事。
     信長が勘違いするわけがない。
     『信長公記』には、村重の名がある(八月十五日の部分)。 →【重史275】
     これは、太田牛一の誤りだろう。
     おそらく、村重は大坂への押さえとして残された。
     越前攻めには、参陣しなかったのではないか。



    【引用】



     ⇒ 次へつづく


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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