
本能寺の変1582 【重史280】 №6-255 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史280】 №6-255
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男 【信長という男】 目次
2光秀という男 【光秀という男】 目次
1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
3光秀の後継者 1 信長と信忠 2 光秀と光慶 3 明智の将来
4 先祖の教訓
5 光秀と大量殺戮 1 仰木の事 2 比叡山焼討 3 越前 一向一揆殲滅
6 三人の謀叛人 1 丹波 波多野秀治 2 大和 松永久秀
3 摂津 荒木村重 4 光秀の総括
←3 志向の相違
光秀の苦悩
1 粛清の怖れ
2 光秀の老い
3 志向の相違 【光秀という男】 結論 目次
1 京都馬揃え 2 ヴァリニャーノ
3 信長の「さらなる夢」
4 四国問題 躓き
5 事態急変
6 自立への道
←4 武田の滅亡
1 甲斐遠征
2 勝頼の首
3 武田効果
←5 信長の油断 大要 概略
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日
4月24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
5月11日
3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
5/5 概
5月15日 大 概
密室にて 大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
⑤ 概
4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
5月17日
坂本にて 目次 大 概
1 2 3 ① ② ③
4 ① ② 5 6
5月19日 大 概
5月20日 大 概
5月21日 大 概
5 謀叛人の顔 1 謀叛の結末
2 信長の弱点
時は今、・・・・・
5月26日 大 概
5月27日 大 概
5月28日 大 概
5月29日 大 概
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
←【抜粋】
←【注目ポイント】 目次
←【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
←「その一因」 目次大 概説大 目次中
←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史280】 №6-255
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①柴田修理・惟住五郎左衛門・津田七兵衛、
②鳥羽の城へ取り懸け、責め破り、五、六百斬り拾てられ候。
③金森五郎八 (長近) ・原彦次郎 (政茂) 、
④濃州口より、大野郡へ打ち入り、数多斬り拾て、放火候。
⑤国中の一揆、撥忘を致し、右往左往に、山々へ逃げ上り候。
⑥ (信長) 男女を隔てず斬り捨つべき旨、仰せ出だされ、
⑦八月十五日より十九日まで、
⑧搦め取り進上候分、一万二千二百五十余と記すの由なり。
⑨御小姓衆へ仰せ付けられ、誅させられ候。
⑩生け捕りと誅させられたる分、
合せて、三、四万にも及ぶべく候ひし歟。
『信長公記』
天正三年1575、八月十八日。 1575000818
織田軍が北上した。
越前の各所で、殺戮が始まった (①②) 。
①柴田勝家・丹羽長秀・織田信澄。
この三人は、鯖江の鳥羽城を攻めた (福井県鯖江市鳥羽) 。
八月十八日、
柴田修理・惟住五郎左衛門・津田七兵衛、両三人、
鳥羽の城へ取り懸け、責め破り、五、六百斬り拾てられ候。
②金森長近・原政茂は、美濃から越前大野郡へ攻め入った。
金森五郎八 (長近) ・原彦次郎 (政茂) 、
濃州口より郡上表へ相働き、によう(根尾)*1・とこの山(徳山)*2より、
大野郡*3へ打ち入り、
数ケ所小城ども攻め破り、数多斬り拾て、諸口より手を合わせ放火候。
これにより、越前の一向一揆勢は壊滅状態に陥った。
これに依つて、国中の一揆、既に、撥忘(はいもう)を致し(うろたえて)、
取る物も取り敢へず、右往左往に、山々へ逃げ上り候。
*1 根尾 岐阜県本巣市根尾高尾
*2 徳山 岐阜県揖斐郡揖斐川町徳山
*3 大野郡 福井県大野市・勝山市
信長は、容赦しない。
一揆勢を根絶やし(殲滅)にするよう、厳命した。
推し次第(追撃して)、山林を尋ね捜して、
男女を隔てず斬り捨つべき旨、仰せ出だされ、
信長は、一揆勢一万二千二百五十余を誅殺した。
八月十五日より十九日まで、御着到の面(おもて)、
諸手より搦め取り進上候分、一万二千二百五十余と記すの由なり。
御小姓衆へ仰せ付けられ、誅させられ候。
信長は、一揆勢を一掃した。
「生け捕り」と合せて、「三、四万にも及ぶべく候」。
其の外、
国々(参陣した諸勢の国々)へ奪ひ取り来たる(連れ帰った)男女、
其の員を知らず。
生け捕りと誅させられたる分、合せて三、四万にも及ぶべく候ひし歟。
(『信長公記』)
戦国時代、日本の総人口は1200~300万程度だったという (「人口から読む日本の歴史」) 。
これは、現在の凡そ十分の一に相当する(令和元年度比)。
また、福井県の人口は、およそ80万。
これを単純に同比率で計算すれば、8万となる(同)。
すなわち、当時の越前・若狭両国の総人口は、8万人くらいだった。
そうだとすれば、これはその半分に近い数。
信長の侵攻により、越前国はわずか数日で半数近くの人々を失ったことにな
る。
それにしても、恐ろしい事件であった。
叡山焼討 (元亀二年1571) に比して、犠牲者の数が桁違いに大きい。
これが平和の代償。
残酷な話である。
信長は、本願寺を追い込んでいた。
天正二年1574、長島の一向一揆殲滅。
そして、天正三年1575、今度は、越前。
「各個撃破」
本願寺は、順に、その手足を捥(も)ぎ取られていく。
【引用】2-5-3 越前 一向一揆殲滅
PS
9月17日より、noteの関連の部分につき、突然、メールの着信が止められてしまいました。
note側・メール会社側、両方とも、原因となり得るヶ所を、幾度も、確認・チェックしておりますが、異常ヶ所が見当たりません。
今までに、経験したことのないトラブルです。
何しろ、キカイオンチのため、大変、困惑しております。
早急に、解決したいのですが・・・・・。
どの様にすれば、復旧するのかなぁ・・・・・?
いろいろと、御迷惑をおかけ致しておりますが、今後とも、よろしくお願い
申し上げます。
⇒ 次へつづく