
月の黄昏に酔う地球の話 #9
#9 インスタントじゃないやつ
夜9時、いつも通り和生が帰ってきた。
手を洗ってうがいをする。
テレビをつけて、いつもの場所に座る。
わたしは麻婆豆腐とワカメスープを
温めなおしてから和生の前に出した。
和生は黙って麻婆豆腐を食べる。
視線はテレビの画面に向けたまま。
わたしも黙って麻婆豆腐を食べる。
自分で言うのもなんだけど、
すごく美味しい。
テレビから、どうでもいい雑学クイズの
『ピンポーン』という音が聞こえる。
和生は、やっぱりクイズの答えを
考えていた訳でもなさそうに
「ふふっ」
と笑っていた。
いつもどおりだ。
麻婆豆腐を食べ終わった後、
ショートケーキとミルクレープを
冷蔵庫から出した。
デザート売り場で悩みに悩んだ末、
この2つを買ってきた。
和生はたぶんショートケーキを
選ぶに違いない。
そう思いつつも
「どっちがいい?」
と、聞いてみた。
「こっち」
和生は迷うことなく予想していた通り
ショートケーキを選んだ。
「今日って何かの日だっけ?」
めずらしい!
和生から話しを振ってきた。
「あ、そ、そうなの。じつは……」
今日、パート先でチームリーダーに
選ばれたことを話してみた。
それから、
選ばれてすごくうれしかったけれど、
本当に自分がそれを引き受けていいのか
自信がないということも話してみた。
「よかったね。キミならできると思うよ」
まさか、そんなセリフが和生の口から
聞けるとは思っていなかったので
正直驚いた。
そして、なによりうれしかった。
すごく。
「あ、ありがとう……」
和生はショートケーキを食べながら
「うん」
と言った。
テレビから
『ピンポーン』と音がしている。
ご褒美のケーキも食べ終わって、
さて、洗い物でもしようかと
立ちあがろうとした時、
「あのさ」
ふいに、和生が言った。
「その……
お父さんのことなんだけど……」
「うん? なんかあった?
わたしなにも聞いてないけど……?」
「あ、自分のじゃなくて、
キミのお父さん……」
「えっ!? なに?」
「結婚したばかりの頃、一度だけ家に
来たことがあるんだよ……
キミが仕事で自分が休みの時」
「もしかして、お金でも貸してたの?」
「ち、ちがうよ。キミのことを頼みに
来たんだよ……」
「何ソレ?頼むって…… なに?」
「しあわせにしてやってくれって……
泣きながら……
何度も頭を下げて……
それから
『こんなお願いをする資格はないって
わかってる』
『自分がこんなだから、避けられて
いることも知ってる』って……」
意味わかんない。あのお父さんが???
「なんで、その時教えてくれなかったの?」
「お父さんから、キミには言わないで
くれって頼まれたし……
それに、キミがずっと自分の家の
ことに関わりたくないと思っている
こともわかってたから……」
「……」
「でも、いつか話そうと思ってたんだ。
ずっと……」
なんなの?それ?
そんなの、全然知らなかった。
「コーヒー! 淹れようかな。
インスタントじゃないやつ」
コーヒーを飲み終えた和生は、
スッキリとした様子でお風呂に行った。
洗い物をしながら父のことを
考えていた。
ずっと怖かった。
嫌われていると思っていた。
でも、そうじゃなかった……?
たった1回父親っぽいことしたからって
今さら知っても
父への感情が変わる訳がない……
変わる…… 訳が……
ないはずなのに……
なぜだろう?
今のわたしは父の苦悩がわかるような
気がする。
純粋すぎて不器用……
そんなところは、ちょっと和生も
似ているのかもしれない……
父は……
もういない……
苦くて甘いコーヒーの余韻が
喉の奥に残っていた。
いつもよりだいぶ長風呂をして
しまった。
冷蔵庫から出した麦茶を飲みながら
窓を開けて空を見上げた。
すごい!月が大きくてキレイ。
静かだ。
まるで世の中に自分一人しか
いないみたい。
シンとしていた。
フッと、なにかが揺らいだ。
妙な浮遊感。
あれ?
前にもこんなことあったような……
気が…… する……
#1 ねんきん定期便
#2 知らない場所の夕陽
#3 帰るべき場所
#4 グラスのビール
#5 無自覚という名の深い眠り
#6 記憶の蓋
#7 錆びた鉄の匂い
#8 手前の豆腐
#9 インスタントじゃないやつ
#10 ……間違ってますか?わたし?
#11 それぞれの正義
#12 月と地球
#13 黄昏に酔う