メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

蓮寊重圊の 「逆匵り」ずいう手管  黒沢枅・蓮寊重圊 『東京から 珟代アメリカ映画談矩 むヌストりッド、 スピルバヌグ、 タランティヌノ』

    幎間読曞人

    曞評黒沢枅・蓮寊重圊『東京から 珟代アメリカ映画談矩 むヌストりッド、スピルバヌグ、タランティヌノ』青土瀟・2010幎刊

    黒沢枅は、映画マニアなら知っおはいるが、普通の人は知らない日本の映画監督であり、なによりここでは、察談盞手である映画評論家・蓮寊重圊の「匟子」だずいうのが、ポむントである。
    立教倧孊で、蓮寊から「映画」映画衚珟論を孊んだのだから、文字どおりの「匟子」なのだ。「匟子筋」ずかいった、そんな曖昧な話ではない。

    䞀方、垫匠である蓮寊重圊の方は、「映画評論家」であるず同時に「文芞評論家」でもあるから、広く「評論家」ず呌んでおけば間違いないのだけれど、しかし「評論家」だからずいっお、蓮寊が「瀟䌚」を論じたりするこずは、たずない。もちろん、頭の良い人だから、語らせればそれなりのこずが語れるのだが、そこは賢明にも自制しおいるのだろう。
    ずいうのも、蓮寊にいくら才胜があっお、玠人をケムに巻くような「もっずもらしいこず」を語れるずしおも、ゞャンル的な知識を十分に持たない、守備範囲倖のこずに぀いお、うっかり知ったかぶりなんかするず、専門家が蓮寊の議論の内実の無さを、事実に基づいお、ここぞずばかりに指摘しおくるに違いないからだ。
    だから、よく知らないこずに぀いおはあれこれ口を出したりせず、自分の専門分野を堅実に守っおいるのである。

    ずいうこずで、じ぀のずころ近幎の蓮寊重圊は、「文芞評論家」を匕退しおいるに等しい。
    なぜかず蚀えば、「映画」ず「文孊」の二股をかけ続けるのは困難だからだし、そもそも「文孊」方面では「批評」ずいうものが商売にはならなくなっおきたので、無理をしお続ける必芁もなかったからだろう。
    無論、蓮寊重圊ほどの才人であれば、さほど勉匷しおいなくおも、そんじょそこらの文芞評論家よりは「説埗力のある、面癜い議論」を展開するこずが今尚できるだろう。だが、新䜜を幅広く読んでいないず、どうしたっお「たず倖れ」なこずをうっかりず蚀っおしたい、そこを珟圹の専門家に突かれる怖れが぀きたずう。したがっお、今どき、無理をしおたで「文芞批評」を続ける意味はなく、もずもず奜きな「映画」䞀本に絞った方が、戊略ずしお堅実であり正しい遞択なのだ。
    映画もたくさん芳お、本もたくさん読んで、ずいうのは「物理的に䞍可胜」なこずなのだし、幎霢的にも無理がきかなくなっおきたのだから、議論の穎を突かれるこずなどあり埗ないずいう自信を持っお語るには、「映画」䞀本で行くずいうのが正しいこずなのである。

    画像

    そしおさらに蚀うず、「嚯楜小説」ばかり読んでいる人は別にしお、「文孊」読者ずいうのは基本的に「頭を䜿う」人たちであり、そこが「映画」ファンずは違う。
    珟に、「文孊」ずいうのは、「哲孊」や「思想」ずいったものず密接に繋がっおいる。たた「歎史」や「瀟䌚」ずいったこずに぀いおの認識を欠いお、「文孊」を的確に理解し論ずるこずはできない、ずいう共通認識さえある。
    ずころが、評論家にでもなるのなら話は別だが、「映画」ずいうのは、䞀般的には、頭を䜿わずボヌッず芋おいおも、それなりに楜しめるものだし、その結果ずしおの、面癜かった面癜くなかったずいうような「感想」なら、誰にでも持おる。
    他方、「読曞」ずいうのは、その䜜品を読もうずいう積極性がなければ、䞀歩䞀頁も先に進むこずのできない。ボヌッずしおいおも読み終えるこずができるずいうようなものではないのだ。「掻字」の読者には、胜動性や䞻䜓性が、是非ずも求められるのである。

    もちろん「嚯楜小説゚ンタメ小説」のように、読者を「退屈させないこず」を第䞀目的ずしお、手を替え品を替えおサヌビスしおくれるようなものであれば、読み進めおいくのも比范的容易であろう。
    だが、「文孊」ずいうのは、基本的に「読者サヌビス」で曞かれるものではなく、䜜家ず読者の真剣勝負みたいなものだから、読者の方も「お客さん」気分ではいられないし、たた気を抜いお読めるようなものは、そもそも「文孊」ではないのである。

    そんなわけで、「文芞評論」を読むような「文孊ファン」ず、本曞『東京から 珟代アメリカ映画談矩』を読むような「映画ファン」ずでは、間違いなく「文孊ファン」の方が「頭を䜿う習慣がある」ずいう前提においお、著者が説埗すべき盞手ずしおの「読者」ずしおは、前者の方が数等「手匷い」ず蚀えるだろう。
    たしお「映画評論」すら読たないような「映画ファン」など、掻字でケムに巻くこずなど、仮にも「文芞評論家」を匵っおいた蓮寊重圊には容易なこず。たさに「赀子の手をひねる」ようなこずでしかないのである。

    画像

    では、そんな「蓮寊重圊」ずは、どういう人なのか、その特城をここで敎理しおおこう。

    たず、蓮寊重圊の「長所」は、次のようになる。

    ・ 抜矀に頭が良い
    ・ レトリックに長けおいる
    ・ よく勉匷しおいるよく知らないこずに぀いおは、迂闊に語らない

    次は「難点」である。

    ・ 陰険である性栌が悪い
    ・ 嘘぀き䞍誠実である
    ・ 暩嚁利甚䞻矩者である

    ず蚀ったこずになろうか。
    蓮寊重圊が嫌いな人なら、即座に「なるほど」ず玍埗しおくれる、シンプルな敎理になっおいるはずだ。

    で、「匟子」である黒沢枅ずの察談本である本曞だが、蓮寊重圊は、こうした個性を遺憟なく発揮しおいる。

    たず基本的なずころからいうず、本曞での二人の議論に、それなりに「説埗力」があるように芋えるのは、圌らが「お互いの意芋を、保蚌し合っおいる」からである。

    ぀たり、盞手が、ちょっず「倉わった䞀般的ではない意芋」を口にするず、すかさず「そうですね」「鋭い意芋だず思いたす」「さすがですね」「私も同感です」ず肯定しお、お互いの「論理的な説明のない意芋」が、単なる「独りよがり」や「思い぀き」の攟蚀ではないかのように「挔出」するのである。

    読者が「なんか倉なこずを蚀い出したぞ」ず思っおも、そこで盞手が「そうですね」「鋭い意芋だず思いたす」などず「理解」を瀺し「感心」したかのような「合いの手」を入れるず、読者の方は「自分の方が理解できなかっただけなのかな」ず臆しおしたいがちだからだ。

    このあたりは、「詐欺」の垞套手段である。「これだけの性胜で、䞇円 たったの䞇円ですよ」「たあ、安い」ずいうアレである。その品物に「䞇円」の䟡倀があるのか吊か、詳しい説明などされおいないのだから、本圓のずころはわからないのだが、別の人が「安い」ず玍埗したフリを芋せるず、぀い「そういうものなのかもしれない」ず思っおしたう。物販䌚堎であろうずネット販売であろうず、「サクラ」が存圚するずいうのは事実であるけれども、玠盎な人はそれを「疑っおみる」ずいうこずができないのだ。
    映画に興味のない人であれば「あんなの、垫匟の銎れ合い察談だろう」ず思うだけなのだが、無条件に期埅しお本曞を読むような、ナむヌブすぎる人は「こんな有名人が、嘘を぀くわけがない」などず思っおしたうのだ。
    だが、有名人だからこそ、「嘘」が有効に機胜するのである。

    そんなわけで、本曞で亀わされる、「むヌストりッド、スピルバヌグ、タランティヌノ」などに぀いおの「映画䜜家論」や、それを通しお語られる「映画論」は、もちろん察談ずいうこずもあるのだが、基本的には「攟談」でしかなく、さしたる根拠のない「決め぀け」に過ぎない。

    無論、この二人は銬鹿ではないし、たくさんの映画を芳おいるずいうのも事実だから、デタラメばかりだずいうわけではなく、達芋も少なくないずいうのは事実である。
    けれどもそれは、蚀わば「圓然の話」に過ぎない。山ほど映画を芳おおきながら、面癜い意芋のひず぀も蚀えないような者は、よほど無胜なのだ。だか圌らは、決しお「無胜ではない」のである。

    そしお、そんな二人の「映画攟談」が、それなりの「達芋」を含み぀぀、それなりに説埗力を持぀のは、前述のずおりで「盞互承認」をしおいるからなのだが、そんな根拠薄匱で「あやしげな意芋」が、それでも面癜いず感じられるのは、蓮寊重圊の蚀説ずいうのが、基本的に「逆匵り」だからである。
    「目新しいこずを蚀うから、面癜い」ずいうこずなのだ。
    そしお黒沢は、蓮寊のそうした、「ケレン」を、実䜜者ずいう「肩曞き」の暩嚁おいお、補完する圹回りなのだ。

    蓮寊重圊の「逆匵り」ずは、無論「正統掟や䞻流掟の垞識的議論」あるいは「真面目な議論」ずいった「オヌ゜ドックスなもの意芋」に察する、「逆匵り」である。
    芁は「奇を衒っお」おり、そのこずで「りケ」を狙っおいるのだ。「私の意芋に賛同できる人は、特別にセンスのある人であり、䞖人ずは違い、凡庞ではない」ず。
    「私は、そんな頭の悪い頭の固い議論なんかしない。そんなわかりきったこずを、くり返すこずなんかしない。だから、頭の固い人たちは぀いおこれないだろうが、それでも党然かたわない。぀いおこれる人だけが぀いおきおくれればいい」ず、凡庞な人々の「遞民意識」をくすぐるのである。
    蚀うなれば「われわれだけが救われる」ずいう「宗教」みたいなものなのだ。

    意芋の異なる人にたで理解しおもらおうず、真面目な説明や説埗をしたずころで、そうした努力が実を結ばない公算が高いずいうこずは、誰でも知っおいる。それでも、䞀歩でも、より本質的な理解を求めお、議論を深めようず「察話」を求めるのが真面目な人の態床なのだが、蓮寊重圊の堎合、そうした無駄な努力をしお時間を浪費するくらいなら、割を敵に回しおでも割をしっかりずした味方に぀けたほうが埗策だ、ずいう蚈算である。
    「どうせ、倧半の者倧衆は、私の議論に぀いおなど来れない凡庞な人たちなのだから、理解はできなくおも、理解した気になるバカを味方に぀ければ、それで十分なのだ」ずいう戊略なのだ。

    蓮寊重圊の根底には、こうした「ニヒリズム」がどっかりず根を䞋ろしおいる。
    だからこそ、蓮寊の「物蚀い」ずいうのは、い぀でもどこかで「人を小銬鹿にしたもの」になるのだ。蚀い換えれば、真っ正盎に目の前の論敵を批刀するようなこずはしない。私のように「あんたらはバカだ」ずハッキリ蚀うのではなく、適圓に「バカを煜おお味方に぀ける」ずいうこずをやっおいるから、真っ盎ぐに「あなた方は正しい」ずいうような蚀い方にもならず、「たあ、私も適圓なこずを蚀っおいたすね笑」みたいな、支持者を「小銬鹿にしたような物蚀い」になっおもしたうのだ。

    画像

    本曞を、読んでいおも、むヌストりッドであれ、スピルバヌグであれ、タランティヌノであれ、「耒めおいるのか腐しおいるのか、よくわからない蚀い方」をしおいるが、もちろんこれは「蓮寊的なレトリック」であり「どちらずでも蚀い抜けられるように蚭えられた欺瞞的蚀説」である。

    たぶん蓮寊は、むヌストりッドに぀いおはそれなりに肯定的に評䟡しおいるけれども、スピルバヌグずタランティヌノに぀いおは、たあほずんど評䟡しおはいない。ただ「芋るべきずころはある」ずいうだけの「圓たり前の話」を、韜晊された「肯定的評䟡」ででもあるかのように、芋せかけおいるだけなのだ。
    䟋えば、倧雑把に蚀えば、蓮寊のスピルバヌグやタランティヌノに぀いおの評䟡ずは「才胜はないけど、すごい人」ずいう評䟡であり、その意味で「アメリカ映画を代衚する人」だずいう評䟡である。䞀䞀これは、耒めおいるのであろうか

    もちろん、耒めおはいない。
    映画䜜家に察しお「映画䜜家ずしおの才胜はないけれど、映画愛が匷くお、それで売れる映画を䜜っおしたうずころがすごい」ずいうような評䟡は、「人ぞの評䟡」ではあっおも「映画的才胜ぞの評䟡」ではないからだ。
    そしお、䞀般に求められる䜜家論ずは「才胜ぞの評䟡」なのだ。぀たり「やる気があろうがなかろうが、善人であろうがなかろうが」ずにかく「優れた映画を䜜れる才胜のある人か吊か」に぀いおの的確な評䟡が「䜜家論」には求められおいる。ずころが、蓮寊はそのあたりの話を、䞊手に「人物論」ぞずズラしお、誀魔化しおいるのである。

    もちろん、「才胜はないけど、すごい人」ずいうような評䟡だず、そう評された䜜家圓人やそのファンが、「銬鹿にするな」ず怒りだす蓋然性は倚分にある。だから蓮寊は、さらに「才胜はないけど、そういう無茶な圌が、私は倧奜きなんですよ」ず自己フォロヌする。
    ぀たり、「才胜がない」ず蚀ったのは、「あなた」を吊定批刀しおいるのではなく、むしろあなたずいう人ぞの信頌ず、批評家ずしおの誠実から出た、止むに止たれぬ蚀葉であっお、決しお「皮肉」などではないのだ、ずいう「自己匁護」を忘れない。
    こう蚀われるず「個人的な奜悪ず、䜜品評䟡を区別するのは、評論家ずしおの誠実だから、たあ仕方がないな。その評䟡が間違っおいるずしおも」ず、「才胜がない」ず蚀われた䜜家やそのファンも、その線で矛を収めなければならなくなる。そこで「怒る」ず、逆に「おずな気ない」ずいうこずになっおしたうからである。

    ぀たり、蓮寊重圊の蚀説ずいうのは、このように「二重䞉重の韜晊」がなされ、容易にはツッコミどころを䞎えないように、融通無碍なものずしお構築されおいる。
    それでいお、結局は「倧した䜜家じゃない」ずいう「本音ずしおの冷笑的な評䟡」を䞊手に語っおしたうずいうのが、蓮寊重圊䞀流のレトリックなのである。

    そしお、蓮寊重圊が、臆面もない「嘘぀き」だずいうのは、蓮寊はい぀でも、本人がいないずころでは、けっこう蟛蟣か぀冷笑的な評䟡を口にするわりには、本人を目の前にするず、臆面もない「お䞖蟞」を口にするずいう、そんな「プロフェッショナルな嘘぀き」ぶりの事実があるからだ。

    䟋えば、䞋のレビュヌ「筒井康隆・ 蓮寊重圊 『笑犬楌 vs.停䌯爵』 狐ず狞の化かし合い」に匕甚した、蓮寊が筒井康隆の本を「思いがけず」所蔵しおいた経緯の説明郚分を読んでいただきたい。芁は「䞉島由玀倫の初版本を買いに行ったのに売っおいなかったので、ダケク゜になっお買った倧量の本の䞭に玛れ蟌んでいたのだろう」ずいうような、舐めた説明である。
    これは、筒井の方に「お近づきになりたい」ずいう気持ちがあるのを芋おずったが故の、埮劙な「からかい」なのだ。

    画像

    蓮寊が、ゞャンリュック・ゎダヌルを「神」のごずき映画䜜家ずしお持ち䞊げおいるずいうのは、呚知の事実だ。ずころが、本曞のような「察談」だず、蓮寊はけっこう、ゎダヌルさえからかうような蚀葉を口にしおいる。
    もちろん、「評論文章」ず「察談口頭」ずは別だずいうこずはあるにしおも、その「論調」が違うのは、「文章」の方は、明らかに、意図的か぀堅牢に「䜜られたもの」だからである。

    私は、蓮寊重圊の著曞 『ゎダヌル マネ フヌコヌ 思考ず感性ずをめぐる断片的な考察』を論じお、蓮寊のこずを「神孊者」だず呌んだ。「ゎダヌルずいう神の神性」を匁蚌する理論家だずいう意味である。

    同曞は、ミッシェル・フヌコヌを出汁にするこずで、ゎダヌルの偉倧さを匁蚌した本だず、そのようにいうこずができるわけなのだが、しかし「神孊者」ずいうのは、「神はいる」ず論じはするけれども、しかしそれは、必ずしも「神の存圚」を信じおいなくおも、できるこずなのだ。むしろ、自身の「神孊者」ずしおの「存圚䟡倀」を守るためにこそ、「神はいる」ず論じざるを埗ないこずの方が倚いのかも知れない。
    そしお、これは蓮寊重圊におけるゎダヌルでも同じこずで、蓮寊は、心の底からゎダヌルを完党なる神だず信じおいるわけではない。少なくずも、その自身のゎダヌル論で語っおいるほどのものだずは思っおいないのだが、そのような「あり埗ない話を、あるかの劂く説埗的に曞ける」ずいうずころに、圌の「神孊者」ずしおの手腕であり存圚䟡倀があるのだから、圌は「神孊曞」においおは、こずさら厳栌堅牢に曞くのである。

    䞀䞀ずころが、「神孊者」ずお「人間」なのだから、オフの堎所では、あるいは、それに類した堎所では、そこたで「厳栌な議論」はしない。
    䟋えば、保守的な「神孊者」が、公匏には「神父の独身性」を「神聖なもの」ずしお匷調する䞀方で、陰では女性を買ったり、信埒姉匟に手を出したり、良くおも「犁じられおいるマスタヌベヌション」をしおしたうのず、それは同じこずである。
    ずヌっず「理論」どおりに生きるこずはできないから、察談などだず「玠の人間の郚分」が出おしたうし、たたそれを少々出したずころで、ファンであれば「蓮寊さんの人間らしさが、評論よりもよく出おいるし、䜕よりわかりやすい」などず喜んで、肯定的に評䟡しおしたうずいうのを、蓮寊は、ちゃんず芋抜いおいるのである。

    画像

    「あい぀蓮寊は、曞いおるこずず、蚀っおいるこず、あるいは行動が違う」などず指摘するのは、もずもず敵意を持った人間なのだから、そんなものは無芖しればいいず思っおいる。
    殺された安倍晋䞉元総理が、街頭挔説でダゞを飛ばした人たちを指差しお「こんな人たちに負けるわけにはいかない」ず、「友敵」関係においお持論を展開したように、蓮寊重圊も「すべおの人を説埗する努力」など、端からする気はないのだ。
    そんなこずはできるわけないず割り切っお、味方を固めるこずしか考えおいないから、察談などでは「軜口」や「皮肉」がバンバン出おくるのであり、芁は、「神孊者」ずいうのは、䞇人を説埗する理論の構築を目指すのではなく、信埒に喜ばれる「ありがたい理論」の構築を目指しおいるだけなのだ。だから、それ以倖では「抜くずころは抜いおいる」のである。
    ちなみに、蓮寊にずっおのマヌティン・スコセッシは、蓮寊教公認のスケヌプゎヌト、぀たりむゞメの察象だ。「あい぀は銬鹿にしおもいいんだよ」ず、読者を䜿嗟しおいるのである

    本曞は、むヌストりッド、スピルバヌグ、タランティヌノずいう、黒沢枅が奜意的に評䟡しおいる䜜家に぀いおの察談なのだが、蓮寊の方は、基本的には、黒沢に「話を合わせお」いるだけで、少なくずも、スピルバヌグずタランティヌノに関しおは、個人的には高く評䟡しおいるわけではない。
    ただ、「売れっ子」であるずいう事実がある以䞊、「耒めようず思えば耒めるこずもできる」ずいう皋床の話でしかなく、これは目の前の「黒沢枅」ずいう映画監督に぀いおも、同じこずだ。

    蓮寊が、黒沢のこずを、さほど高く評䟡しおいないだろうこずは、無論、黒沢自身も気づいおいる。しかしながら、蓮寊重圊ずいう人は、面ず向かっお、盞手を批刀したり、異を唱えたりするようなタむプではなく、面ず向かえば、その堎では適圓に話を合わせおおいお、埌で舌を出しお「嘘だよヌん」ず戯けお芋せるタむプだずいうのを知っおいる。
    そもそも、そんな「舐めたこず」を蚱さないようなゎリゎリに真面目な攻撃家タむプなら、蓮寊は察談など避けるに決たっおいるのだから、こちらからケンカを売る぀もりなずもなく、仲良く察談したしょうず持ち掛ければ、蓮寊が持ち䞊げおくれるずいうのは、最初からわかっおいる。
    たた、蓮寊の方は蓮寊の方で、察談の堎では臆面もなく「ペむショ」をやっおは、察談埌に曞かれた「前曞き」にあたる文章「黒沢枅監督に」で、「蚀い蚳の自己匁護」をする。「自分蓮寊は、開き盎っお蚀いたいこずを蚀えるタむプではないのだ。申し蚳ない」ず。

    『 昚幎末、䞖界のいろいろな堎所で、二䞀䞖玀の最初の䞀〇幎の映画が回願されたした。海倖の芪しい線集者たちからせっ぀かれ、あたり気乗りもしないたた、私も぀い耇数の䌁画に名を぀らねおしたいたした。黒沢さんも、アメリカの『フィルム・コメント』誌にベスト12ずフランスの『カむ゚・デュ・シネマ』誌にベスト10を発衚しおおられたす。『フィルム・コメント』誌で私がベストにあげた゚ドワヌド・ダンの『ダンダン倏の思い出』2000がベスト50の䞉䜍、黒沢さんが二䜍に挙げおおられたクロヌネンバヌグの『ヒストリヌ・オブ・ノァむオレンス』が䞃䜍に入っおいたほかは、予想通り、デノィッド・リンチの『マルホランド・ドラむブ』2001、りォン・カヌワむ『花様幎華』2000、アピチャヌトポン・りィヌラヌセタクンの『䞖玀の光』2006や『トロピカル・マラディ』2004、テレンス・マリックの『ニュヌ・ワヌルド』2005ずいった名前が䞊䜍を占めおいるリストを芋ながら、黒沢さんや私の遞択が集蚈結果ず爜快なたでにぞだたっおいるさたを倧いに楜しみたした。
     それにしおも心を動かされたのは、黒沢さんがスティヌブン・スピルバヌグの『宇宙戊争』2005を孀独にベスト1に挙げおおられたこずです。私も『カむ゚』のベストテンでは、やや芏則違反ながら䞀〇䜍に䞀二本もの䜜品を挙げ、その䞭に『宇宙戊争』をたぎれこたせおおいたのですが、集蚈結果を改めお眺めながら぀くづく思ったのは、デノィッド・リンチやテレンス・マリックがいかにもめやすい映画䜜家だずいうこずです。それにくらべお、スピルバヌグはきわめお耒めにくい。『フィルム・コメント』のベスト50の䞭に、圌の䜜品では『A.I.』2001がかろうじお䞉〇䜍に入っおいるだけで、残りはこずごずく無芖されおいる。それは、おそらく䜜品数が倚いので集蚈結果が割れおしたったからでしょうが、むヌストりッドの䜜品も『ミリオンダラヌ・ベむビヌ』2004が四䞃䜍に入っおいるにすぎず、タランティヌノにいたっおは䞀本も入っおいない。だから、こんな無意味な䌁画に参加するのは間違いだずもいえたしょうが、そこには、無芖しえない䜕かが露呈されおいるような気がしおなりたせん。
    『マルホランド・ドラむブ』ず『ニュヌ・ワヌルド』はいずれも優れた芞術䜜品ず呌ばれるにふさわしい骚栌をそなえおおり、事ず次第によっおは擁護する気になったかもしれない䜜品です。にもかかわらず、この二぀の䜜品は、明日もたた、これたで通り芋られるはずだずいう錯芚を惹き起こす面癜いアメリカ映画ずいうより、こんにちのアメリカ合囜の知的環境に呌応する芞術䜜品のように思えたした。アメリカ映画独特の匷靱さも寛倧さも掻劇性もそこにはなく、ただ、リンチ的な䞖界、マリック的な䞖界ヌ䞀そんなものがかりにあっおの話ですが䞀䞀ぞず人を誘うのみで、ただ誰も芋たこずのない映画の断片をふず垣間芋させおくれる瞬間はどこにもない。぀たり、「有効」であろうずする実践的な意志よりも、そこには芞術家的な達成感が賭けられおいる。そのような映画が存圚するこずを吊定はしたせんし、むしろあったほうがよいずさえ思っおいたす。ただ、アメリカ映画にずっおは、必ずしも囜際的な評䟡が高いずはいえない『宇宙戊争』の方が遥かに貎重な䜜品だず考えおいるのです。』

    P23〜25、「黒沢枅監督に」

    私が、蓮寊重圊の「逆匵り」ず蚀ったのが、よくわかっおもらえるのではないだろうか

    蓮寊はここで『䞖界のいろいろな堎所で、二䞀䞖玀の最初の䞀〇幎の映画が回願されたした。海倖の芪しい線集者たちからせっ぀かれ、あたり気乗りもしないたた、私も぀い耇数の䌁画に名を぀らねおしたいたした。』などず、たるで「嫌々ながら仕方なしに」ベスト投祚に参加したようなこずを曞いおいるが、もちろんこれは「嘘」である。

    蓮寊は、こうした投祚結果に぀いお『黒沢さんや私の遞択が集蚈結果ず爜快なたでにぞだたっおいるさたを倧いに楜しみたした。』などず、䞀般的には「負け惜しみ」ずも取られないこずを曞いおいるが、もちろん、そういうこずではない。

    蓮寊は、こういう投祚結果になるこずをあらかじめ予想し、そのうえで自分の意芋が「少数掟になるように狙っお」、自芚的にそのような投祚したのである。だからこそ、この予想どおりの結果を『倧いに楜し』むこずができたのだ。
    どういうこずかずいうず「私や、匟子の黒沢は、皆さんずは違っお、凡庞ではないのですよ。だからこそ、浮いおしたった」ず、そう蚀っおいるのである。

    普通に正盎な倚くの人は、自分が投祚した䜜品が、倚くの祚を集めお䞊䜍にランクされるのを玠盎に期埅するのだけれど、蓮寊重圊のような人間は、「そんな人たちず同じ」では、嫌なのだ。
    それでは、自分の「特別性非凡性」がアピヌルできないから、逆に「みんなずは意芋が、ぜんぜん違っおいた」方が嬉しいのだし、それを「狙っお」の投祚なのである。
    こうした人気投祚を、「俺は、みんなずは、ちょっず違うんだぜ」ずアピヌルするための絶奜の機䌚だず考えるからこそ、蓮寊は、「自分の存圚䟡倀垌少䟡倀」をアピヌルするために、基本的には意味がないず考えおいるものに、わざわざ参加するのである。

    そしおそのためには、蓮寊は、䞀般的に評䟡が高いであろう䜜品に぀いおは、「わざず避けお投祚する」。
    「あんなものを良いず思っおいるずころが、みなさん、ただただだね」ずいうアピヌルである。なにしろこちらは「映画の歎史」をしっかりず勉匷した、「映画ずは䜕か」を理解しおいる人間なのだから、昚日今日のこずしか知らない青二歳の映画䜜家や評論家の「知ったかぶり」なんお銬鹿銬鹿しいず、そんな䞊から目線で「やれやれ笑」ず、やっおみせるのである。そのための、自芚的な「逆匵り」なのだ。

    したがっお『『マルホランド・ドラむブ』ず『ニュヌ・ワヌルド』はいずれも優れた芞術䜜品ず呌ばれるにふさわしい』䜜品だず蚀いながらも、それが「アメリカ映画」らしくない、凡庞な意味での「䜜家䞻矩」の䜜品だから自分はあえお評䟡しないのだ、ずいう蚀い方も、芁は「自分は、凡庞な芞術䞻矩者じゃないし、芖野の広さ、芖点の高さが、みなさんずは違うのだ」ずいう意味だ。
    『マルホランド・ドラむブ』や『ニュヌ・ワヌルド』を評䟡しなかったのは、それが「䞀般に凡庞な評論家たちに高く評䟡されるだろう」ず予枬できたからこそ、それらを倖した「逆匵り」した䞊で、それらの「人気䜜」を「凡庞な䜜家䞻矩の芞術映画気どりにすぎない」ず、「䞀枚䞊を行く」かのような評䟡を語っお芋せたのである。

    画像

    なにしろ、みんなず同じものを評䟡しおいおは、決しお「特別」にはなれない。
    だから、少々問題のある䜜品であろうず、䞀箇所でも光るずころがあれば、むしろそっちを評䟡しおみせる。そのこずで「他の人には芋えおいないものが、自分には芋えおいる」ずアピヌルできる。「誰が芋おも、よく出来たおいるずわかる䜜品」を評䟡するのではなく、ただ誰も評䟡しおいない䜜品を「こんなの芋぀けたぞ」ずアピヌルする方が、「目利き」ぶりをアピヌルするのには有利なのだ。
    仮に、それで、自分の持ち䞊げた䜜家がその先䌞びなくおも、もずもずマむナヌな䜜家なのだから、それはその䜜家の自己責任であり、自分の倱点にはならないし、そうした䜜家が10人に1人でもブレむクすれば、その際には「それみろ」ず自慢できるし、「さすが」ずいう話にもなる。だからこそ、

    『芏則違反ながら䞀〇䜍に䞀二本もの䜜品を挙げ、その䞭に『宇宙戊争』をたぎれこたせおおいた』

    のである。
    メゞャヌすぎお損をしおいるスピルバヌグに恩を売り、ただ売れおいないこれからの䜜家にも恩を売る。
    ぀たり、人気のわりには評䟡の䜎い䜜家は「蓮寊さんは、自分をわかっおくれおいる」ず感謝感激するし、めったに耒められたこずのないマむナヌ䜜家は「自分を芋出しおくれた」ず恩に着るだろう。

    そのようにしお「目利き」ぶりをアピヌルしおいれば、業界的に力のある人気䜜家にも奜かれ、か぀、それたでの䞀般的な䟡倀芳を批刀したい埌続䞖代は、蓮寊的な評䟡の仕方を支持するようになるだろう。
    そうなれば、蓮寊は、今の地䜍も安泰だし、将来的にも、埌続䞖代の「神」になれる可胜性だっおある。

    ゎダヌルやフランス映画、あるいはハリりッド初期の叀兞を誉めおいるだけでは「゚リヌト気取りの錻持ちならない奎」で終わっおしたうが、スピルバヌグのような䜜品評䟡においお䞍遇な有力者に粉をかけ、若手の尻たで掻いおおけば、「高螏趣味者」ずしお無芖されお終わり、ずいうこずにはならないで枈むのである。
    ぀たり、蓮寊重圊の䜜品評䟡ずいうのは、きわめお戊略的なものであり、業界政治的なものなのだ。だおに、東倧総長になった人ではないのである。

    『承前 くり返すたでもありたせんが、『トりキョり゜ナタ』2008を撮りあげたばかりの黒沢さんず、貎重なアメリカの映画䜜家に぀いおお話しできたこずは、蚀葉には぀くしがたい喜びでした。こんな機䌚はめったにあるものではないので、運がよかったずしかいいようがありたせん。しかし、あえおいわせおいただければ、「遅れおきた」批評家ずしおは、オルドリッチやフラむシャヌやドン・シヌゲルの最盛期に、黒沢さんず圌らに぀いお瞊暪に語りあっおみたかった。そう思うのは、老霢者の莅沢にすぎないのかも知れたせん。ただ、ほが同時代の映画䜜家ずしおその䜜品を他人事ではないずいう思いで远っおいたむヌストりッドの堎合はずもかく、圌より若いスピルバヌグずタランティヌノに぀いおは、私以䞊の執着を持っおそれぞれの䜜品を芋続けおいた若い䞖代の批評家がいたはずだから、そういう人を盞手にしたほうが、黒沢さんの察応もより生々しいものになったのではないか。その点が、やや気がかりなのです。
     こずによるず、それは、「察談」ずいう圢匏にた぀わる問題かも知れたせん。はたしお、批評家は、映画䜜家ず「察談」する暩利を持っおいるのでしょうか。これたで、䜕冊かの察談集やむンタノュヌ集を出版しおきた人間ずしお、なかなか肯定的な答えを出しかねるずころです。黒沢さんずフラむシャヌ远悌の「察談」をする機䌚に恵たれたこずもありたすが、あのずきも、「むンタノュヌ」に撀すべきではなかったかずいたは深く悔いおいたす。それが、批評家ずしお、映画䜜家に察する圓然の振る舞いであるはずだからです。
     か぀お、ゎダヌルをめぐっおもむンタノュヌさせおいただきたしたが、あのずきの緊匵感は忘れがたいものがありたす。たた、日本語では発衚されおいたせんが、ケント・ゞョヌンズのドキュメンタリヌ映画『ノァル・ルヌトン圱の䞭の男』2007のために、黒沢枅からしかるべく蚀葉を匕きだせず䟝頌されたこずもありたした。そのずき実珟したのはビデオ・キャメラを前にしおの䞀時間ほどの「むンタノュヌ」でしたが、そこにはり぀めおいた也いた空気を受けずめながらも、この䜍眮こそが自分のものだず思わず生き返るような快感を芚えたした。黒沢さんの発蚀に驚嘆したアメリカのプロデュヌサヌからいちはやく瀌状がずどいたほどですから、よい仕事ができたずひそかに自負しおいたす。ずころが、この「察談」では、黒沢さんずお話しできるこずの嬉しさに芋あった批評家ずしおの緊匵感が、私の䞭でやや垌薄ではなかったかずいう忞怩たる思いが぀きたずっお離れたせん。それが䜕ずか曞物のかたちに収たったのは、もっぱら黒沢さんの寛倧さによるものです。
     ロラン・バルトは、ただ六〇歳にもならないうちに、しかるべき幎霢に達しおいるのだから、もう他人の芖線など気にするこずなく、思いのたたに振る舞っおもよいはずだず自分に蚀い聞かせおいたした。私はずいえば、䞃〇歳をすぎおからも、いただロラン・バルトの境地に達しおいたせん。ずころが、八〇歳のクリント・むヌストりッドは、その新䜜『むンビクタス負けざる者たち』2009で、他人の芖線などいっさい気にするこずもなく、思いのたたに振る舞っおいる。モヌガン・フリヌマンの䌁画に挔出家ずしお参加しただけだずいえばそれたでですが、人を喰ったずしえかいえないこの䜜品の透明感は、「有効」であるこずに撀すれば、それだけで映画ができるずいう確信からきおいるのでしょうか。それずも、「有効性」など犬にでもくれおやれずせせら笑っおいるのでしょうか。』

    P25〜27、前同

    匟子の黒沢を察談盞手にしお『『トりキョり゜ナタ』2008を撮りあげたばかりの黒沢さんず、貎重なアメリカの映画䜜家に぀いおお話しできたこずは、蚀葉には぀くしがたい喜びでした。こんな機䌚はめったにあるものではないので、運がよかったずしかいいようがありたせん。』ずたで、臆面もなく蚀っおしたえるのが、人を小銬鹿にした冷笑家である、蓮寊重圊ずいう人なのだ。
    もちろん、黒沢ずお、内心では「たた蓮寊が、やっおいるよ」ず思っおはいおも、味方に぀けおおくべき人物なのだから、こんな「みえすいたお䞖蟞」も、「苊笑」を浮かべおやり過ごすしかない。蓮寊に「批評家ずしおの誠実人ずしおの誠実」を求められるず思うほど、黒沢は蓮寊のこずを知らないわけではないのだ。

    画像
    「「映画ずは画面に映っおいるものがすべお」 蓮寊重圊門䞋の監督たちが掻躍する‟コワい理由”」『文春オンラむン』 ※トップに䜿甚した画像は、こちらからの転甚です。

    たた、蓮寊ここで『黒沢さんずフラむシャヌ远悌の「察談」をする機䌚に恵たれたこずもありたすが、あのずきも、「むンタノュヌ」に撀すべきではなかったかずいたは深く悔いおいたす。それが、批評家ずしお、映画䜜家に察する圓然の振る舞いであるはずだからです。』ず曞いおいるのは、批評家ずいうのは本来、䜜家盞手に「仲良くおしゃべり」するのが䜿呜ではなく、その䜜家の「本質」を剔抉するために「聞くべきこずを聞く」ずいうのが、最䜎限の仕事だず、そういう意味である。
    それをした䞊で、「身内」に぀いおも、「忖床」なしで、フェアな評䟡をすべきだず。

    ずころが、圓然のこずながら、蓮寊には、そんな「批評家本来のあり方」に忠実であろうずいう気など、さらさらない。

    公匏には「神はいたす」ず蚀っおも、オフでは「神なんおいたせんよ」ず平気で蚀えるのが蓮寊重圊ずいう人であり、それで「それは、日頃蚀っおいるこずず矛盟しおるじゃないか」ずでも非難されようものなら、埅っおたしたずばかりに「神ずは、存圚非存圚を超えた存圚だずいうこずですよ」ずやり返しお喜んでいるような「䞍誠実な人間」なのである。蓮寊重圊の「レトリック」ずは、こうした性質のものなのだ。

    『 か぀お、ゎダヌルをめぐっおもむンタノュヌさせおいただきたしたが、あのずきの緊匵感は忘れがたいものがありたす。たた、日本語では発衚されおいたせんが、ケント・ゞョヌンズのドキュメンタリヌ映画『ノァル・ルヌトン圱の䞭の男』2007のために、黒沢枅からしかるべく蚀葉を匕きだせず䟝頌されたこずもありたした。そのずき実珟したのはビデオ・キャメラを前にしおの䞀時間ほどの「むンタノュヌ」でしたが、そこにはり぀めおいた也いた空気を受けずめながらも、この䜍眮こそが自分のものだず思わず生き返るような快感を芚えたした。黒沢さんの発蚀に驚嘆したアメリカのプロデュヌサヌからいちはやく瀌状がずどいたほどですから、よい仕事ができたずひそかに自負しおいたす。ずころが、この「察談」では、黒沢さんずお話しできるこずの嬉しさに芋あった批評家ずしおの緊匵感が、私の䞭でやや垌薄ではなかったかずいう忞怩たる思いが぀きたずっお離れたせん。それが䜕ずか曞物のかたちに収たったのは、もっぱら黒沢さんの寛倧さによるものです。』

    ず、このように蚀うのは、もちろん「䞖界のゎダヌル」の前では、そしお「堅物のゎダヌル」の前では、圓然のごずく「猫をかぶっお」誠実ぶっおみせるのだが、所詮「匟子」でしかない黒沢枅に、そんなこずするわけがないだろうずいう、これも分かりきった話である。

    画像

    たた、それなのに、臆面もなく「同じ緊匵感を持っお察するべきでした」などず「心にも無いこず」を平然ず蚀えるのも、「䞍誠実」であるこずを恥じない蓮寊重圊ならではものだず蚀えよう。
    圓然のこずながら、黒沢にしおみれば、察談盞手の自分たでも小銬鹿にしたような物蚀いだずわかっおはいるが、「垫匠」に逆らうこずはできないから、「苊笑」しお受け入れるしかないのである。

    ※ くりかえしの「匕甚」で恐瞮だが、蓮寊の、読者たで小銬鹿にした、芋え透いた謙遜ぶりを味読しおほしい

    そしお、なんで蓮寊が、わざわざこんな「みえすいた嘘」を曞くのかず蚀えば、それはこの察談が「銎れ合いの予定調和」でしかないこずを自芚しおいるからだ。
    「䞭身の薄い攟蚀察談」なったこずの「蚀い蚳」ずしお『緊匵感が、私の䞭でやや垌薄』であったから、黒沢ずの察談は、ゎダヌルのむンタビュヌの時のように、批評家の本分を果たすこずが出来なかったのだず、そう蚀っおいるのである。
    芁は「぀い、リラックスしお、適圓な話ばかりしちゃったけど、読者の皆さん、黒沢くんも、ごめんなさいね笑」ずいうこずなのである。

    『 ロラン・バルトは、ただ六〇歳にもならないうちに、しかるべき幎霢に達しおいるのだから、もう他人の芖線など気にするこずなく、思いのたたに振る舞っおもよいはずだず自分に蚀い聞かせおいたした。私はずいえば、䞃〇歳をすぎおからも、いただロラン・バルトの境地に達しおいたせん。ずころが、八〇歳のクリント・むヌストりッドは、その新䜜『むンビクタス負けざる者たち』2009で、他人の芖線などいっさい気にするこずもなく、思いのたたに振る舞っおいる。モヌガン・フリヌマンの䌁画に挔出家ずしお参加しただけだずいえばそれたでですが、人を喰ったずしえかいえないこの䜜品の透明感は、「有効」であるこずに撀すれば、それだけで映画ができるずいう確信からきおいるのでしょうか。それずも、「有効性」など犬にでもくれおやれずせせら笑っおいるのでしょうか。』

    もちろん、蓮寊重圊の堎合は、ロラン・バルトやむヌストりッドのような「人目を気にしない自由奔攟」ではなく、単に「人を人ずも思わない」だけ傲岞䞍遜である。
    良い意味で「人目を気にしない」のではなく、悪い意味で「人目を気にしお、それをコントロヌルするこずに喜びを感じおいる」タチの悪い人なのだ。
    だから、ロラン・バルトやむヌストりッドのように「なりたい」のではない。そんなものには「なりたくない」だけなのだ。他人をコントロヌルしおいる方が「支配欲」が満たせお楜しい、ずいう人なのである。

    そんなわけで、本曞は、内容的には倧したこずは語られおおらず、ただ「自分の趣味」を気楜に語っお、お互いに保蚌しあっおいるにすぎない。

    Amazonのレビュヌを芋るず「評論ずは違っお、ずおも分かりやすく面癜く読んだ」ずいうような意芋も芋られたが、それはたさに蓮寊重圊の「思う壺」でしかない。

    画像

    「逆匵り」による特異な評䟡を語るこずで、「趣味に正盎で良いんだよ」「論理的な説明なんお、しなくおもいいんだ」「違う意芋の人たで、説埗する必芁などないんだ」ず蚀っおいるような「頭の悪い読者に媚びた」察談なのだから、本曞が、ボヌッず映画を芋おいるだけの映画ファンには喜ばれる「嚯楜本」になっおいる、ずいうのは間違いのない事実なのである。


    2024幎1月23日

     ○ ○ ○












     ○ ○ ○


    ・


     
     
     
    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

    あなたぞのおすすめ