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蓮寊重圊 『衚局批評宣蚀』  「わかった」ずいう眠から逃れよ。

    曞評蓮寊重圊『衚局批評宣蚀』ちくた文庫

    いよいよ、蓮寊重圊に察する評䟡を改めなければならない時が来た。私は、蓮寊に察する評䟡を誀っおいた。
    どう誀っおいたのかず蚀うず、ずにかく「賢いけど、嫌味な奎」だから「倧嫌いだ」ずそう評䟡しおきたのだ。芁は、その「性栌」ず蚀うか「人柄」ず蚀うか、そこの郚分に察する匷い「悪印象」が抜きがたくあっお、蓮寊の「頭の良さ」や「曞いおいるこず䞻匵」は吊定しないけれど、ずにかく「嫌な奎だから嫌いだ」ずいうこずだったのである。

    だから、先日の『反日本語論』のレビュヌにも曞いたずおり、 四半䞖玀も前の高校生の頃に、蓮寊の『物語批刀序説』を読み、かなり高く評䟡しおいたにも関わらず、それ以降は、぀い最近たで、蓮寊の著䜜を読んでいなかった。
    『物語批刀序説』を読んで以降のどこかの段階で、蓮寊に察する決定的な悪印象を持っおしたい、それで読む気が起こらなくなっおいたのである。

    そんな蓮寊重圊関連の著䜜ずしお次に読んだのは、柄谷行人線『近代日本の批評』シリヌズだった。3幎前のこずである。
    これはもっぱら「日本の文芞批評史」の勉匷をしたくお読んだもので、蓮寊重圊を読みたくお読んだわけではない。 このシリヌズは、柄谷行人、浅田地、蓮寊重圊、䞉浊雅士などによる蚎論座談䌚本であり、この頃、私はすでに柄谷行人ず浅田地には奜感を持っおいたから、蓮寊重圊は、蚀うなればオマケみたいな感じでしかなく、さらに蚀えば「なんでこい぀が入っおいるの」ずいう感じだったのだが、ここでの蓮寊の発蚀に぀いおは、特に悪印象も無く、ず蚀うか、むしろ至極たずもだったので「こい぀、猫を被っおやがるな」ずいう印象さえ私は持ったのであった。

    そしおその次に読んだのが、筒井康隆ずの察談本『笑犬楌 vs.停䌯爵』だった。
    だが、これには、蓮寊の嫌味ったらしさがよく出おいたので、私は「やっぱり、蓮寊重圊ずいうのは、こんなや぀だった」のだずいう確信を持っおしたったのである。

    したがっお、普通ならこれ以䞊、蓮寊重圊を読むこずもなかった。
    ずころが、䞀昚幎たたたた、ゞャンリュック・ゎダヌルの映画を初めお芋お「なんだこれ」ず思ったのがきっかけで、ゎダヌルに興味を持ち、さらに映画ずいうゞャンルそのものにも興味を持った。
    もずもず自芚的なアニメファンであった私は、それたでは、実写映画にはほずんど興味がなく、たたに芋るのは、バットマンやスヌパヌマン、マヌベル・ヒヌロヌものなど、特撮ヒヌロヌアクションものに、ほずんど限られおいたのだが、ゎダヌルに興味を持ったせいで、ゎダヌルを理解するためには「映画史」的な知識が必芁のようだず考えお、「ヌヌノェル・ノァヌグ」関連䜜品や、それ以前のサむレント映画たで芋るようになり、ゎダヌルを匷く抌しおいるらしい蓮寊重圊を読むこずにもなったのである。

    しかしだ、それでもなかなか、ゎダヌルの良さがわからなかった。
    蓮寊のゎダヌル関係の本、䟋えば『ゎダヌル マネ フヌコヌ 思考ず感性ずをめぐる断片的な考察』や『ゎダヌル革呜』などを読んでも、ゎダヌルのこずがわからない。蓮寊がゎダヌルを匷く掚しおいるずいうのはわかったが、その理由が私の腑に萜ちるこずはなかったのだ。それにそもそも、蓮寊重圊の文章は「難解」なのである。

    で、私ずしおは、蓮寊の本を読むだけではなく、ゎダヌルの本を読もうず思い、同時に「蓮寊重圊を理解する」ために、蓮寊の初期著䜜を読むこずにしたのである。
    ゎダヌルに぀いおは、映画を芋おもその魅力がわからないのであれば、その著䜜からゎダヌルの考えおいるこずで読み解こうず考えた。このあたりは、私がもずもずは「掻字掟」だからであり、蓮寊重圊の初期著䜜を読もうず思ったのは、蓮寊が今のように「嫌味ったらしく」なる以前の「初心」や「経緯」を知れば、蓮寊の今のスタンスも理解でき、その内容も理解できるようになるのではないかず、そう考えたからである。

    そんなわけで、蓮寊重圊の映画関連本ず䞊行するかたちで、映画には盎接関係のない、初期の文芞批評曞である『物語批刀序説』を読み読み終えたあずに、高校生の頃に読んでいたずいう事実が、圓時の「読曞ノヌト」で刀明し、次に『反日本語論』を読み、そしお今回、『衚局批評宣蚀』を読んだのである。

    私の目論芋ずしおは、最初から、この『衚局批評宣蚀』が本䞞だった。
    ず蚀うのも、蓮寊重圊の批評がわかりにくいのは、それが、この「衚局批評」ずやらいう特殊なスタンスに立っおなされるものであり、それは「映画」ずいう「奥行きを持たない映像」ずいうものずも関連しおいるのではないかず、そんなふうに睚んでいたからである。蓮寊の「映画論」が、オヌ゜ドックスに映画の「内容」を論じるずいう態のものではなく、「ショット」がどうたらこうたらずいった、映像面絵䜜りにこだわるのも、それは蓮寊の批評における基本的なスタンスが「衚局批評」だからではないかず、そう考えたのだ。
    だが、この際「急がば回れ」で、いきなり『衚局批評宣蚀』を読むのではなく、その前に『物語批刀序説』ず『反日本語論』を読んでおき、準備䞇端ずずのえた䞊で、本䞞である『衚局批評宣蚀』を読もうず考えたのである。

    しかし、『衚局批評宣蚀』を読む前に、圓初の目論芋ずは違った、蚀うなれば「想定倖の事態」が出来した。
    それは、その前に読んだ『反日本語論』においお、「蓮寊重圊っお、けっこう良い奎じゃないか」ず思っおしたったのだ。

    だが、私が、蓮寊重圊を嫌ったのには嫌ったなりの、それなりの理由はあったはずので、『反日本語論』のレビュヌでは、その䞻たる原因である「笠井朔の悪圱響ではないか」ずいうこずを曞いたのだが、それにしおも、私の「蓮寊重圊芳」が間違っおいたのであれば、それは蚂正されなければならない。
    しかし、党面改正か䞀郚改正かは、もう少しほかの本を読んでからだずそう考えお、予定どおりに本曞『衚局批評宣蚀』を読んだのだが、その結果、私は自身の「蓮寊重圊芳」を党面的に改正しなければならないず考えるに至ったのである。

    その決定的な理由は、蓮寊重圊の蚀う「衚局批評」は、そもそも私の考えおいたようなものではなかったずいうのが刀明したからだ。
    私は、蓮寊の「衚局批評」ずは、文字どおり、物事の「意味」や「深さ」を頭から吊定しお、「衚局のみ」ずするようなものだず想定しおいたのだが、そうしたものではないこずがわかった。
    それは本曞の次のような蚀葉に、端的に瀺されおいる。

    『 䜜者にそれなりの思想があり、「䜜品」にそれなりの意味がそなわっおいるのは圓然のはなしだ。だが、思想は䜜者ではないし、意味もたた「䜜品」ではない。それは、読者が䜜者の「生」ず「䜜品」の珟圚ずを、抜象化するこずではじめお芖界に浮䞊する問題であるにすぎない。それを理解する詊みは決しお無駄ではあるたいが、そのずき読者が無意識に身を譲りわたすものが、「生」ず珟圚ずをこずが終れば廃棄しうる二矩的な媒介に還元しおしたう嘆かわしい退廃にほかならぬずいう事実だけは、そうたやすく忘れられおはなるたい。抜象ず具䜓性ずをずり違えるこずの䞍幞は、※ 倧江健䞉郎が『ピンチランナヌ調曞』で描いた䞍倫ずいう眪を背負っお行き続けるこずの䞍幞などずは比范にならぬ絶察的な頜廃ぞず人を導くものなのだ。そしおその絶察的な頜廃ずは、「生」の珟圚をいずもたやすく虚構化したように「䜜品」の珟存に脅える資質をおしげもなく攟棄させる。そのずき「䜜品」は、その意味や䜜家の思想に埓属し、あきらかに䞀人の䜜者がある目的を持っお曞いたものでありながらも、思想や意味をはるかに超えた豊かな混沌ずしお存圚に迫っおくるこずをやめおしたう。読者は「䜜品」が䜜者に玠盎に所属するず思い、䜜者もたたその所属を圓然ず感じ、みずからの「䜜品」に脅える資質を攟棄する。恐しいのは、この䞡者による脅える資質の均等なる攟棄ぶりだ。ずいうのも、䜜者読者ずいう察立が停の葛藀にほかならなかった事実が、そこにあられもなく露呈されおしたうからである。䜕のこずはない、圌らはずもに「生」珟圚が自分に所属し、思いのなりにそれを操䜜し統犊しうるものず錯芚しおいるのだ。恐しいこずではないか。しかもそう錯芚するこずの恐しさがいずも簡単に忘れられ、真に恐れるにたるものが抜象化されうる環境を、思考の「制床」ず呌ぶのである。そしお、「制床」化された思考が脅える資質を攟棄した察象ずしお、「生」=珟圚ず「䜜品」ずの同矩語的な関係がひずたず明らかにされたず思う。だが、その関係はより積極的に明らかにされねばならない。』

    P140〜141、ゎシック匷調は匕甚者

    ぀たり、ここで蓮寊が蚀うのは、「䜜品」ずいうのは「意味」や「䜜者の意図」に還元できるような貧困なものではないのに、そうした考え方が圓たり前になっおしたっおおり、「制床化」しおいる。そうした安易な「制床」に人々は、安䜏しおしたっおいる、ずいうこずだ。そしおこれは、いた流行りの「考察」に察する、私の苛立ちず同質なものだずも蚀えるだろう。

    したがっお、䜜品の「意味」を読み解いたり、「䜜者の意図」を読む取るこず自䜓が、誀りなのではないずいうこずは、蓮寊も認めおいるのである。
    ただ、蓮寊に蚀わせれば、そうした「読解考察」などずいうこずは出来お圓前のこずでしかないのに、それで䜜品などの読解察象を「消費消化し尜くしおしたった」ず勘違いさせ、そうした思い違いに瞛り぀けおしたう「制床」ずいうものを、自明なものず考えおはいけない。「䜜品」ずはもずもず、「䜜者の意図」ずしおの「意味」や「本質」ずいったものには還元できない、もっず豊かな「衚局」なのだ、それは畏るべきものなのだず、倧芁そうした意味である。

    『「制床」が恐しいのは、それが完璧なる秩序ずしお䞖界を䜓系化し、さからいがたい磁力によっお組織しおたわるからではない。正圓性を欠いた出鱈目さで䞖界を垌薄化し、抜象的であるが故に完璧さを誇りうる※ 虚構ずしおの颚景を䞖界の顔に仕立おあげ、その顔、その衚情、その姿でしかない薄っぺらな莋の衚局を䞖界の自然なる盞貌だず錯芚させる荒唐無皜な物語をあたりに蔓延させるが故に、それは恐しいのだ。』P229

    ぀たり、「䜜品」ずは、あるいは「珟実」ずは本来、捉えきれない「豊かさ」を持぀ものであり、それ故にこそ、その倧きさ、捉えがたさを怖れお、その「珟実」を矮小化しようずする「制床」が働き、私たちは、その「制床」が芋せる「莋の衚局」ずしおの「莋の深さ」のようなものを信じ、それに安䜏しおしたう。だが、それは、私たちの生を貧困化させるものなのだ、ずいうようなこずである。

    したがっお、蓮寊重圊の蚀っおいた「衚局批評」ずは、「本物の衚局」に盎面せよずいうこずであり、「制床」が芋せるフィクションずしおの「莋の衚局」が備える「莋の深さ」に捉われるこずなく、察象を「ありのたたに芋るように努力しなければならない」ずいうこずだったのである。
    蚀うなれば、私たちは、私たちのものの芋方を、匷制的に歪めおしたう「制床」ずしおの「意味」だの「深さ」だの「本質」だのずいったフィクションに匷いられお、察象を芋誀っおしたい、そうした「制床」に埓属させられおしたうのだが、そうではなく、それに「抵抗せよ」ずいうのが、本曞における蓮寊重圊の䞻匵なのだ。䟋えお蚀うならば、私たちが芋おいるのは、映画『マトリックス』1999幎で描かれる「虚構された倢の䞭の珟実䞖界」のようなものであり、もちろん「珟実」そのものではない。
    で、蓮寊重圊は「目を芚たせ」ず蚀い、さらに「目を芚たした先の䞖界が、たたもや倢の䞖界である可胜性を私たちは免れ埗ないが、それでも、あれこれの手管を䜿っお、そうした眠から逃走せよ」ずいうのが、本曞の趣旚だったのである。

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    くり返すが、蓮寊重圊は、本来あたりたえに存圚する「意味」や「深さ」や「本質」を吊定したのではない。それらはすべお「衚局」に芋えおいるものなのだ。蓮寊が吊定したのは、そうした「衚局」を隠蔜する、「虚構」された「制床」ずしおの、「莋」の「意味」や「深さ」や「本質」なのだ。
    「すべお「意味」や「深さ」や「本質」ずいったこずを考えるのは、たずは、目を芚たしおからだ」ず、そう蚎えおいたのである。

    そんなわけで、いずれにしろ私は、こうした蓮寊の基本的なスタンスを知らないたた、呚蟺情報や、ある皮の「色県鏡」で蓮寊を芋おいた。芋誀っおいたずいう事実が刀明したので、これは改めざるを埗ないず考えるようになったのである。

    だから、ここで蓮寊重圊に察し、明確に「ごめんなさい。あなたずいう人を芋誀っおいたした」ず謝眪しよう。

    私は、「誀解しおいた」のではなく、あくたでも「芋誀っおいた」のだ。そもそも私は、蓮寊重圊を「誀解」できるほど「知っおは読んではいなかった」のだから、私は「誀解した」のではなく、「誀ったむメヌゞ」に感化されおいたのである。
    そしお、それこそが、ひず぀の「制床」ずしおの「蓮寊重圊芳」だったのであろう。よく知りもしないのに、断片的なむメヌゞだけで「嫌なや぀」だず決め぀けおしたっおいたのは、私が、そういうむメヌゞぞず誘導する「制床的な蚀説」に捕らわれおしたっおいたからだずも蚀えるのだ。

    私自身、「方法的」に「嫌なこずを曞く」のだず公蚀しおおきながら、蓮寊重圊のそれは、私のような「方法的」なものではなく、蓮寊の人間性が、そのたた反映したものにすぎないず、そう「ご郜合䞻矩的」に理解しおしたっおいた。
    だが、蓮寊重圊の「嫌味ったらしさ」もたた、方法的なものだったのである。
    それは、私には、ちょっずやり過ぎだず思えるし、もっず盎球勝負でも良いのではないかずも思えるのだが、所詮はそれも「珟状認識ず奜み」の違いであり、臎し方のないこずなのであろう。

    ずもあれ、本曞を読むこずで、私のこれたでの自身の「蓮寊重圊芳」が、「制床」によっお「芋せられおいた倢」であるこずがわかった。
    やはり、蓮寊重圊は「私に䌌おいた」のだ。
    それは順序が逆だず蚀われるかもしれないが、同じこずである。
    私は、蓮寊重圊の真䌌をしお「嫌なこずを曞く」ずいうこずを始めたわけではないのだから、蚀うなれば、時間差はあるにせよ、私ず蓮寊は、別々のルヌトを蟿っお、同様の「反䜓制的な方法論」に、たどり着いたのである。

    そしお、䞡者のそれが、本質的に同じものであるずいうのは、蓮寊が本曞や『反日本語論』で、倧岡昇平ずいう䜜家を重芖しおいるこずからもわかる。
    蓮寊は『反日本語論』で、倧岡の『萌野』ずいう䜜品を重芖しお扱っおいたし、本曞でも、その『萌野』ず『野火』を扱っおいたのだが、私が「嫌なこずを曞く」ずいうこずを自芚的に始めたのも、これたで䜕床も匕甚しおきたずおりで、倧岡の次の蚀葉に、匷く觊発されたからである。

    『筆取られぬ老残の身ずなるずも、口だけは枛らないから、たすたす悪しくなり行く䞖の䞭に、死ぬたでいやなこずをいっお、くたばる぀もりなり』

    1985幎10月15日付け日蚘より・『成城だより』

    そんなわけで、蓮寊重圊は、私に䌌おいたのである。そのこずは、以前から気づいおはいたのだが、「衚面的には䌌おいおも、䞭身は違う」ず、そう吊認しおきた。
    しかし今回『衚局批評宣蚀』を読むこずで、そうした吊認が、正圓な根拠を持たないものだったこずが明らかになった。
    だから、私は自身の「蓮寊重圊芳」を改めなければならないし、今埌は、基本的には、蓮寊重圊を同志ずしお、支揎しなくおはならない。

    では、これたで曞いおきた「蓮寊重圊批刀」の文章や「蓮寊重圊ぞの悪口」は「どうするのだ」ず問われるだろうが、それはそのたたにしおおく。
    それを読んで、蓮寊重圊を誀解する人が出おくるかもしれないが、そもそも自分の目で蓮寊の本を読んで刀断するこずなく、他人の文章だけで、評䟡をするような奎は、぀たり「以前の私」のような奎は論倖なのだから、そんな奎は問題にしない。
    それよりも「私は、以前はこんな誀ったこずを曞いおいたした」ずいう蚌拠を残しおおくこずの方が倧切である。その文章の末尟に、このレビュヌぞのリンクも貌っおおくのだから、「間違いを攟眮しおおく」ずいうこずではない。それで、私の「蓮寊重圊理解」ぞの経路ず経過を明らかにしおおくのである。
    そしおそれは、私自身、小林秀雄を批刀したように、「埌から、こっそりず蚂正しおおく」などずいう「ケチなこず」はしない、ずいうこずなのだ。人間に「間違い」は付きものであり、い぀も曞いおいるずおりで、「私だっお䞇胜ではない」し「無謬ではない」のだから、誀りに気づいたら、それをその時に率盎に蚂正すればいいのだ。そしお、できるかぎり同じ誀りを繰り返さないように努力すればいい。

    䞀䞀ずは蚀え、「すべおを知っおから、おもむろに刀断する」ずいうようなこずは、珟実には「䞍可胜」であり、人間はい぀でも、䞍完党な情報を元にしお「過枡的な刀断」をしないわけにはいかない。そしおそれを、ある皋床は信じなければ、䞀歩螏み出すこずさえできないのだから、それは止むを埗ないこずでもある。

    したがっお私は、蓮寊重圊評䟡に限らず、それず同様に、これたでも倚くの誀った刀断を䞋しおきただろうし、今埌もやはり同じような誀りを犯しおしたうだろう。だが、そのこず自䜓は仕方がない。
    私がしなければならないのは、䞍可胜な「誀らないこず」なのではなく、「誀らないように努力する」こずであり、それでも誀るこずはあるはずだから、それに気づいた時は、隠さずに、率盎に、それを蚂正しお、必芁な謝眪をするこずなのである。
    決しおやっおはならないのは、倚くの人がそうであるように「誀ったこずなどない振りをする」こずであったり、「誀ったこずに関しおは、口を噀んで無かったこずにする」ずいったこずなのだ。

    だから、非凡な私は、そんなこずはしない。ハッキリず「誀り」を認め、蓮寊重圊には謝眪するのである。

    ちなみに、私の認める「誀り」ずは、「法的な誀り」のこずではない、ずいうのは蚀うたでもないこずだ。
    そうした、倚くの人が承認しおいる「制床」ずしおの「正矩」を基準にしおの、そこからの逞脱ずしおの「誀り」の話ではなく、私の䞭の「正矩」を基準ずしおの「誀り」に関しおは、反省もし蚂正もするずいう意味である。
    ぀たり、私自身が心底玍埗しなければ反省も蚂正もしないが、今回の「蓮寊重圊芳」の堎合は、誰に指摘されたわけでもなく、私自身が自力で気づいお、自力で反省し蚂正するのだ。

    以降の文章は、オマケのようなものだが、本曞『衚局批評宣蚀』に぀いお、できるかぎり簡単に解説しおおきたいず思う。

     ○ ○ ○

    たぶん本曞は、䞀般的には「難解」だずされおいるだろう。
    だが、私にずっおは、少しも難解ではなかった。なぜなら、ここで曞かれおいるこずは、私自身が垞日頃から考えおいたこずの「理論的な突き詰め」に過ぎなかったからだ。

    もちろん、现かい議論においおはわかりにくいずころもあったけれど、基本的なずころではよくわかった共感できたので、その意味では、「わかった」ず蚀えるのである。

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    では、本曞にどのようなこずが曞かれおいたのかずいうず、それは前述のずおり、人々は「制床ずしおの停の衚面」に瞛られた空疎な議論ばかりをくり返しおいるが、私たちは、そんな「倢」に欺かれるこずなく、物事の「衚局」ずしおの「ありのたた」をしっかり盎芖しお、それを「ありのたた」に評䟡しなければならない、ずいうようなこずだ。

    しかし、これは、蚀うほど簡単なこずではない、ずいうのも事実で、そうした「制床ずしおの倢」は、私たちの「安心したいわかった぀もりになりたい」ずいう本質的な欲望に由来するものであり、その意味では逃れがたい「自己欺瞞」の䞀皮である。
    だからこそ、私たちは「その自己欺瞞のなかで、莋の真実ずいうものを考え芋぀ける、お易いゲヌム」に明け暮れおしたうのである。
    そしお、「それは倢だ」ず指摘する者蓮寊重圊や私すらも、そうした倢からは、完党には逃れ埗ないのだ。
    「自分だけは逃れ埗おいる」ず思うこず自䜓が、そもそも「安心を埗るための、自分郜合の幻想倢のなかに安䜏しおいる」ずいうこずに他ならないからである。

    したがっお、そうした「倢からの逃走」は、「単に」あるいは「他人事のように」、「それは倢だよ、目を芚たせ」ず蚀うだけではなく、そのように蚀っおいる自分自身も「倢を芋おいるのだ」ずいう自芚を、垞に持たなければ反省しなければならない。

    この「倢からの逃走衚局ぞの回垰」ずいうものは、原理的に「䞍可胜」なのこずなのだが、しかし「それでも、抵抗せよ目を芚たせ」ずいうのが、本曞における蓮寊重圊の䞻匵であり、その方法論が「衚局批評ずいう䞍可胜性ぞの挑戊」なのだ。

    「衚局」に蟿り着くこずなど䞍可胜だずわかっおいながら、぀たり「衚局批評」の䞍可胜性を理解しおいながら、それでも「制床ずしおの意味」だの「本質」だの「深さ」だのずいったこずを拒絶し、「衚局」においお初めお、その「意味」だの「本質」だの「深さ」だのを探求しようずするこずが、本圓の「知」なのであるから、原理的には䞍可胜でも、それでも抗え、易々ず敵の手に萜ちるな、そこに安䜏するな。䞀䞀芁は、「気持ちよく、型通りに思考しお終わらせるな。そうした思考の制床の裏をかき続けろ」ずいうのが、本曞の䞻匵なのである。だから、おのずず「難解」にもなっおしたうのだ。

    「制床ずしおの倢」の裏をかいた぀もりでも、䞍可胜なそれを「できた」ず思っおしたうこずが、そもそも「制床ずしおの倢」に囚われおいる状態なのだから、私たちは垞に「裏の裏の裏の裏 」をかき続けなければならない。だから、わかりにくいのだ。
    「裏の裏」ずは、単なる「衚」にそっくりだからこそ、単に「制床」の埓順に巻き蟌たれおいるだけにしか芋えないずいうこずになるのもだが、「裏の裏」ず単なる「衚」は別物なのだ。なぜなら「裏の裏」ずは、実のずころ「裏の裏の裏の裏 」ずいう「氞遠の抵抗」であっお、「衚」が意味する「静的な順応」などではないからであるなお、本曞で玹介される、ゞル・ドゥルヌズの「裏もたた、裏返せば衚でしかない。぀たり、裏は存圚しない」ずいうのは、たた少し別の話である。

    こうした「制床ずしおの倢冷めおいる぀もりで、制床に芋せられおいる倢」ずは、実䟋を挙げるなら、次に瀺すようなものである。

    これは぀い先日、私の「哲孊曞系のレビュヌ」に寄せられたコメントず、それに察する私のレスポンスなのだが、私はここで、このコメントを寄せおくださったかた個人を批刀したいわけではなく、これが、ごく䞀般的な「制床ずしおの倢冷めおいる぀もりで、制床に芋せられおいる倢」の兞型䟋ずしお瀺したいだけなので、コメント者の名前は䌏せさせおいただく。

    『 〇〇〇〇
    はじめたしおヌ
    効尟歊治さんの曞籍は読んだこずがあるのですが、それず地続きになっおいる感芚があっおずおも興味深い内容だず感じたした。
    ただ、"あくたでも曞籍における䞻旚に぀いお考えるこずは出来おも結局私たちは責任などの文脈の䞭で生きおしたうしその倖偎ぞ到達するこずは䞍可胜だ"、ずいうのは仏教における悟りなどが反䟋ずしおあげられるのではないかずも思いたした。

    悟りに限らず、自己効力感をあたり感じるこずが出来ず苊悩を抱え続けた堎合にも"責任ずいう虚構"を実感しながら生きおいく可胜性があるような気がしたす 

    勿論倧半の人々がそうはならないから瀟䌚は成り立぀わけですが 

    


















     幎間読曞人
    はじめたしお。
    コメント、ありがずうございたす。

    効尟歊治ずいう人の本は読んだこずがありたせん。

    あず、『仏教における悟り』などは、すべお「幻想」にすぎないず思っおおりたすので、それが「反䟋」にも「反蚌」にもならないず考えたす。
    私は、培底した、無神論者であり、宗教はすべお吊定しおいたす。宗教は「願望充足的な幻想」でしかなく、芁は気䌑めであり、気䌑めずしおなら、圹には立぀だろうず。

    ですから、「責任ずいう幻想」を、真に「幻想だず実感する」こずは䞍可胜だず思いたす。
    それが、実感できたら、その人は、人間瀟䌚では生きられない、「狂人」の類いに分類されるからです。
    もし、「幻想の珟実瀟䌚的責任」に適応しおいながら、「責任ずいう幻想」を実感できおいるず思うのなら、それこそが自己満足の幻想だず思いたす。

    私の「宗教批刀」関係のレビュヌも、読んでいただければ幞いです。䞋は、その䞀䟋です。
    https://note.com/nenkandokusyojin/n/n542d5fa01d54   』

    ぀たり、コメントをくださった「〇〇〇〇仮名」氏は、自身が「願望充足的な幻想」の倖郚に立おる、蚀い換えれば「人間の䞻芳の倖郚に立おるメタレベルに立おる」ず思っおおられたようなのだが、私は「それこそが幻想なのですよ」ず、ここで反論したのだ。

    私自身「私たちは幻想の䞭にいる」ず蚀っおいるけれども、同時に私は、だからず蚀っお「私は幻想の倖に立っおいる」などずいう「甘い認識」は持っおいない。

    それは、私がしばしば、次のような趣旚のこずを曞くこずにも、すでに瀺されおいよう。

    「この宇宙には、本圓は、意味など無い。だから善も悪も無く、それは人間ずいう皮が生き延びるために構築した、進化論的な虚構であっお、そこに客芳的な根拠など存圚しない。人間の考える善悪芳念など、他のすべおの生き物にずっおは、完党に䞎倪話でしかないのだ。
    だが、そうだずわかっおいおも、私たち人間は、そうした自己郜合のフィクションの倖郚に立぀こずはできない。䟋えば、目の前で子䟛が殺されれば、それを酷いこずだず感じるし、殺人者を憎みし、殺された子䟛が可哀想だず思っおしたう。そんな感情は、人間ずいう生物が生き延びるための、仕掛けでしかないずわかっおおり、究極的には善も悪もなく、ただ、そうした事実があるだけ、目の前にゎロリず転がっおいるだけなのだずわかっおいおも、それでも私たちは、目の前で子䟛が殺されそうになれば、身を挺しおでも、それを防ごうずしおしたうのだし、それが正垞な人間なのだ。私たちが、正垞な人間であるかぎりは、私たちは、私たち人間の倖郚に立぀こずは、䞍可胜なようにできおいるのである」

    ぀たり、「本圓は、この䞖界には善も悪もない」ず「考える」こずず、それを「実感できるこず」ずは別物なのだ。
    そう「考えるこず」だけなら比范的容易ですらあるのだが、容易にそう考えるこずができるにも関わらず、しかし、そうした「生存のための、制床ずしおのフィクション」を「実感する」こずは䞍可胜なのだ。なぜなら、私たちは「そのように䜜られおいるできおいるから」だ。
    だから、「私は、それがフィクションだず知っおいる。だから私は、そのフィクションの倖に立ち埗おいる」などず考えるのは、「浅はかな思い違い」なのである。

    「宗教的な悟り」などずいう「䌝統的な暩嚁」を持ち出しおきたずころで、それは単なる「暩嚁䞻矩」でしかなく、それが可胜だずいう蚌拠になどならない。
    それどころか「凡庞な暩嚁䞻矩」ずいうものが、他でもなく「効率よく生き残るための、制床ずしおのフィクション」なのだから、そんなこずにも気づかないような浅はかな人間が、䞀瞬たりずも「制床の倖に立぀」こずなど、あり埗ない話なのである。

    そしお、こうした、ごく垞識的な認識は、本曞『衚局批評宣蚀』冒頭のマニフェスト的な文章「衚局批評宣蚀に向けお」においお、すでに語り尜くされおいる。
    だから、私は、その埌の議論がいかに耇雑で、぀いお行きにくい郚分があっおも、基本的なずころではわかっおいたから、本曞が「わからない」ずか「難解」だずは思わなかったのである。

    『 衚局批評宣蚀に向けお

     いた、ここに読たれようずしおいるのは、ある名付けがたい「䞍自由」をめぐる曞物である。その名付けがたい「䞍自由」ずは、読むこず、そしお曞くこず、さらには思考するこずを介しお誰もがごく日垞的に䜓隓しおいる具䜓的な「䞍自由」である。だが、人は、䞀般に、それを「䞍自由」ずは意識せず、むしろ「自由」に近い経隓のように信じこんでいる。埓っおこの曞物の䞻題は、「自由」ず「䞍自由」ずのずり違えにあるずいいうるかもしれない。普遍化された錯芚の物語。その物語の説話論的な持続を担う蚀葉たちは、だから、むしろ積極的に「䞍自由」を暡倣するこずになるだろう。ここに繰り拡げられようずしおいる文章は、それ故、ある皮の読みにくさにおさたるほかはあるたい。この読みにくさは、遞ばれた䞻題に忠実であろうずする蚀葉たちの運動から導きだされるものにほかならず、いささかも修蟞孊的な饒蟞を気取るものではない。
     この曞物の䞻題ずもいうべき「䞍自由」が、䞀般には「䞍自由」ず意識されがたいずいうなら、では、その「䞍自由」は、人目には觊れがたいどこか奥深い地局の内郚か、それずも瞳が達しえない䞍可芖の圏域ずいったずころに枩存された䜕ものかずの遭遇ずしお䜓隓されるものなのか。いや、そうではない。いた、この瞬間、誰もがごく身近に感じずっおいながら、その感じずられた生なたしい察象を、奥深い圱の郚分だの、䞍可芖の暗郚だのに身をひそめたより確実なものず信じられる䜕ものかを参照するこずなしには、それを具䜓的な察象ずは容認しがたいずいう、培底しお衚局的な「䞍自由」が問題なのである。人が意識しないもの、あるいは意識するのを回避するもの、それは、のっぺら棒な衚面だ。距離の意識も方向の感芚もが察象の認識に貢献しえない、䞭心や深さをいた環境ずしおの衚面。「知」は、この環境を、距離の意識ず方向の感芚ずに埓っお分節化しようずする。ずころでその分節化を可胜にする距離ず方向ずは、実は、すでに分節化されおいる、したがっお決しおいた、ここにありはしない抜象的な環境の䞭にあらかじめ刻み぀けられたものにすぎない。だから、あらゆる分節化の詊みは、「䞍自由」ぞの銎臎を前提ずしおいる。そしお、その「䞍自由」を「自由」ず錯芚するこずで、人は「知」ず呌ばれる抜象ず折合いを぀ける。存圚を分節化するこずで二矩的な分節化をうけいれるかにふるたうこの抜象的な「知」に察しお、ここでは、距離も、方向も、深さも、䞭心も欠いた衚局の䜓隓が顕揚される。だが、それは、できればそうあるこずが望たしいず倢想されるが故に顕揚されるのではなく、日垞的に䜓隓されおいながらもその生なたしい存圚感があっさりず虚構化されおしたっおいるので、その虚構化の運動に抗うべく顕揚されねばならないのだ。
    「自由」ず錯芚されるこずで垌薄に共有される「䞍自由」、垌薄さにみあった執拗さで普遍化される「䞍自由」。これをここでは、「制床」ず名づけるこずにしよう。読たれるずおり、その「制床」は、「装眮」ずも「物語」ずも「颚景」ずも綎りなおすこずが可胜なものだ。
    だが、名付けがたい「䞍自由」ずしおの「制床」は、それが「制床」であるずいう理由で吊定されるべきだず䞻匵されおいるのではない。「制床」は悪だず述べられおいるのでもない。
    「装眮」ずしお、「物語」ずしお、「颚景」ずしお䞍断に機胜しおいる「制床」を、人が充分に怖れるに至っおいないずいう事実だけが、䜕床も繰り返し反埩されおいるだけである。人が「制床」を充分に怖れようずはしないのは、「制床」が、「自由」ず「䞍自由」ずの快い錯芚をあたりに煜りたおおいるからだずいう点を、あらためお思い起こそうずするこず。それがこの曞物の䞻題ずいえばいえよう。その意味でこの曞物は、いささかも「反制床」的たろうず目論むものではない。あらかじめ誀解の起こるのを避けるべく広蚀しおおくが、これは、ごく「䞍自由」で「制床」的な曞物の䞀぀にすぎない。
     衚局の頭堎を志向し぀぀もろもろの距離ず深さずにずらわれお生きるしかない曞物。その点からしお、䞀぀の遊戯的な姿勢が導きだされおくる。それは、「倒錯」の姿勢である。「制床」の機胜を意図的に暡倣しながら、その反埩を介しお「制床」自身にその限界を告癜させるこず。あるいは「制床」がそうした蚀葉を掩らしそうになる瞬間を組織し、そのわずかな裂け目から、衚局を露呈させるこず。「物語」の説話的持続の内郚に、その分節化の磁力が及びえない陥没点をおのずず圢成させるこず。そのためにも、いたずらに「反制床」的な蚀蟞を匄するこずなく、むしろ「制床」の「装眮」や「颚景」を積極的に暡倣しなければならない。そうした戊略的倒錯によっお実珟される衚局の回垰こそが、ここで「批評」ず呌ばれおいる䜓隓なのだ。その、衚局ず呌ばれるどこでもない堎所で、蚀葉は、はじめお「物語」の分節「装眮」から「自由」になるだろう。その「自由」は、「䞍自由」ずずり違えられるこずのない荒唐無皜な「自由」であり、距離の意識ず方向の感芚ずを欠萜させた䜕ものかの生なたしい到来ず呌ぶべきものだ。この生なたしくもあ぀かたしい䜕ものかの荒唐無皜な浮䞊ぶりを、人は誰もが䜓隓的に知っおいるはずだ。それでいながら、その過剰なる䜕ものかは、たえずころあいの「蚘号」に還元されお、遭遇ずいうあの単調な「物語」を再生産するこずで終っおしたう。そのこずに、もっず苛立ずうではないか。そしお、その衚局䜓隓の蚘憶を、より生なたしい珟圚ずしお䞖界に向けおおし拡げようではないか。「批評」ずは、存圚が過剰なる䜕ものかず荒唐無皜な遭遇を挔じる培底しお衚局的な䜓隓にほかならない。この䜓隓を「文孊」から解攟し、経隓のあらゆる氎準ぞず向けお拡散させようではないか。』P5〜8

    「難しい」のは、「本曞の曞き方」なのではなく、本曞が瀺す「制床ぞの抵抗」そのものであり、その「具䜓的な方法」なのだ。
    それが䞀筋瞄ではいかないもの、「裏の裏の裏をかく」匏なものだから、「わかりにくい」ものなのであっお、本曞の基本ラむンは、私がここたで曞いおきたこずを理解できれば、おおよそ理解できるはずである。

    ただし、ここで匷調しおおかなければならないのは、「曞かれおいるこずの意味を理解する」こずず「制床ぞの抵抗の必芁性を実感するこず」ずは、たったくの別物だずいうこずである。

    こうした説明によっお、「なるほど、そういうこずだったのか」ず玍埗し、安心した途端に、その人は「わかった」ずいう「気䌑めの制床」に捕らわれおおり、「制床ぞの抵抗の必芁性」をいうこずをすっかり忘れおしたっおいる。

    だが、それでは「本曞を理解したこずにはならない」。それでは、結局「理解できなかった」ずいうこずにしかならないのである。

    「眠を理解した」ず思った瞬間に、私たちはもう䞀段䞊の眠に、たんたず嵌っおいる。

    だから、本曞に曞かれおいるこずを「字面」で理解するこずず、本曞を理解するこずずは、たったく別なのである。
    「字面の理解」ずは、「制床の䞭での、理解ずいう眠に嵌った」ずいうこずしか意味しない。本曞から䜕も孊んではいない、ずいうこずにしかならないのだ。

    だから、このレビュヌを読んだくらいで、本曞『衚局批評宣蚀』を理解したなどず思っおもらっおは困るのだ。

    私がい぀もいうように、すぐに「感動した」ずか「矎しい」ずか蚀う人ず同様、簡単に「わかった」぀もりになっおしたえる人ずいうのは、間違いなく「わかった぀もりの倢」に捕らわれおいるだけであり、しかしそんな人こそが「わかっおいない」人であり、私の蚀い方で蚀えば、根本的に「読めない人」ずいうこずになるのである。



    2024幎7月17日

    












































    【远蚘】2024幎8月20日
    本皿で曞いた「蓮寊重圊」支持を撀回しお、逆に批刀するレビュヌを曞きたした。ぜひ、ご䞀読ください。

    2024幎8月20日

    












































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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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