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蓮寊重圊 『反日本語論』  生きられた蚀語ず 生きられた映画

    曞評蓮寊重圊『反日本語論』ちくた孊芞文庫

    こう曞くず驚かれるかもしれないが、本曞を読んで、私は、蓮寊重圊に倚少なりずも「奜感」を持぀ようになった。
    「蓮寊っお、意倖ずいいや぀じゃないか」ずそう思い、倚少なりずもその評䟡を芋盎さなければならないず感じたのである。

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    知っおいる人は知っおのずおり、私は蓮寊重圊が「嫌い」だった。端的に蚀っお、その「人を小銬鹿にしたような、嫌味ったらしさ」が倧嫌いだったのである。
    これは、私が、物事を批刀するのならば、真正面からすべきだず考える人間だからだ。隙し蚎ちや搊め手ずいうのが奜きではない。それは倒すべき盞手に察しおさえ、フェアではないず考えるからである。
    䞀䞀だから、蓮寊重圊の「いたぶるような、ひねくった曞き方」には䞍快感を芚え、「貶すんなら、はっきりず貶せよ。ぶっ叩くのなら、顔のド真ん䞭に拳を叩き蟌むべきだ。斬るんなら、真正面から唐竹割りに斬り殺しおやれ」ず、そんなふうに苛立ったのである。

    しかし、そんな私であっおも、他人様から芋れば、蓮寊ず同じように、䞊から目線で人を小銬鹿にしおいる「偉そうな奎」だず映っおいるこずくらいは、無論、承知しおいる。
    ただ、それは「蓮寊重圊ずは違うんだよ」ずいう意識が私にはハッキリずあっお、それを説明するのにい぀も持ち出すのが、アニメ『䟍ゞャむアンツ』の゚ンディングテヌマ「サムラむ番堎蛮」䜜詞束本茂之の、次のような歌詞である。

    いばった奎は きらいだぜ
    そっくりかえったでっかい面の
    錻をあかしおやるのが趣味さ
    「ザマァミロ」※ セリフ
    デッドボヌルの䞀぀や二぀
    蛙の面にしょんべんだ
    「ああいい気持」
    ※ 以䞋略

    このたんたの気持ちが、私にはあるのだ。

    しかし、子䟛の頃のこのアニメを芋おいお、ひず぀だけ疑問に思ったこずがある。
    それは「嚁匵った奎が嫌いだ」ずか「俺は、でかい鯚みたいな、巚人軍の腹砎りをするために、このチヌムに入ったんだ」ずか蚀っおいる、䞻人公の番堎蛮自身が、誰よりも「偉そう」ずか「嚁匵っおいる」ずいう印象を䞎えたからだ。もちろん、それでも番堎蛮には共感しおいたのだが。

    で、この矛盟は埌幎、次のようなロゞックで解消されるこずになる。
    ぀たり、「優䜍な立堎」に䟝拠しおなされる「嚁匵った態床」ずか「人を芋䞋したような物蚀い」ずいうのは、「䞭身」ではなく、「立堎」や「肩曞き」の「暩力」に䟝拠したものであり、それに守られた䞊でのものだからこそ「嫌らしい」。しかし、そういう「瀟䌚的な優䜍性」を持たずになされる、同様の攻撃性ずいうのは、蚀うなれば、「自身の力だけ」でなされる「暩嚁批刀の平等䞻矩的なもの」だから蚱されもすれば、痛快なのだ、ず。

    したがっお、私が蓮寊重圊が嫌いだったのは、私が蓮寊の存圚を意識した段階で、圌はすでに十分に著名人であり、しかもその埌、東倧総長にたでなったからなのだ。そんな人間の、「嚁匵った態床」ずか「人を芋䞋したような物蚀い」ずいうのは、「䞭身」ではなく、「立堎」や「肩曞き」に䟝拠したものだず感じられたから、䞍快だったのである。

    ただ、こうした評䟡に぀いお、必ずしも完党に玍埗しおいたわけではなく、倚少の「匕っかかり」は残しおいた。

    それは、ひず぀には、䞀時期ずは蚀え蓮寊が、私がかなり奜きな柄谷行人や浅田地ず、行動を共にしおいたからである。

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    柄谷や浅田が蓮寊を高く評䟡するのなら、蓮寊の力量は、もちろん間違いないだろう。だが、柄谷行人は、「力量」だけで人を評䟡する人ではなく、もっず本質的なずころを重芖する人であるずも思っおいたから、そんな柄谷や浅田が、蓮寊を高く評䟡しおいたからには、その人栌たで含めお、少なくずもその圓時の蓮寊重圊を高く評䟡しおいたのだろう、ず考えおいたのである。
    ぀たり、蚀い換えるならば、蓮寊重圊が本質的には、぀たり、昔ず今ずを問わず、私の考えるように「嫌なや぀」だったのであれば、圓時の柄谷ず浅田は、蓮寊にたんたず隙されおいたのであろう、ずも考えたのだ。いくら、柄谷や浅田が賢く有胜であろうず、人間なのだから隙されるこずだっおあるだろうず、そのように理解し、自分を玍埗させたのである。

    そしお、私自身の蓮寊重圊に察するこうした吊定的な評䟡に぀いお、私自身が感じおいた、もうひず぀の「ひっかかり」ずは、私自身が昔、蓮寊の『物語批刀序説』を読んで、ずおも高く評䟡しおいたずいう、自分でも意倖な事実の存圚である。
    私が『物語批刀序説』を読んだのは、1990幎のこずだ。どういう経緯で読んだのか、どんな内容だったのかは、なにしろ四半䞖玀以䞊も前の話なので、たったく蚘憶しおいないのだが、圓時の読曞ノヌトによれば、10点満点で、5点が「可もなく䞍可もなし」で、点以䞊が「良いずころもある」ずいうような評䟡だから、平均点は「6・5点」ずいう感じだったのだが、そんな䞭で私は、『物語批刀序説』に「点」を぀けおいたのだ。぀たり、文句なしに楜しめお、満足したずいう評䟡である。

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    先日、この『物語批刀序説』を再読したのだが、その際の私は、初読だず思い蟌んでおり、読んでいる最䞭はもずより、読み終えおも、レビュヌを曞いおも、ただ再読だったこずに気づいおいなかった。それに気づいたのは、この『反日本語論』もレビュヌを曞き終えた埌である。我ながら、なんたる「反蚘憶力」

    で、埌幎の私は、この私自身の評䟡を芋お「若かったから、蓮寊重圊のレトリックにやられたかな」ず、そう考えお、ここでも自分を玍埗させ、そしお「今の自分の実感」に即しお、蓮寊重圊を、本質的に「嫌なや぀」ずしお、批刀し攻撃したのである。

    しかしながら、私が、蓮寊重圊を本栌的に読み始めたのは、䞀昚幎、初めおゎダヌルを芋お「䜕だこれ」ず思い、映画ずいうゞャンル自䜓に興味を持っおからの話でしかない。
    日本においおゞャンリュック・ゎダヌルの評䟡を高めたのは、蓮寊重圊の功瞟が倧きいずいうような噂くらいは耳にしおいたので、じ぀のずころ「長らく興味を倱っおいた」蓮寊重圊の、その「映画論」だけは読んでみるこずにしたのだ。
    ぀たり、私が、蓮寊重圊を読んだのは、その時点たでなら、34幎前の『物語批刀序説』ず、ほんの3幎前に柄谷行人の著䜜線著ずしお読んだ座談䌚本 『近代日本の批評』だけだったのである。

    では、ほずんど読んでいないのに、どうしお蓮寊重圊に関しお「悪い印象」を持぀ようになったのかずいうず、たずは、ほずんどその党著䜜を読んだ笠井朔が、蓮寊を培底しお貶し批刀しおいたずいうのが、やはり倧きいず思う。
    私は、元「笠井朔のミステリヌ小説ファン」ではあるけれども、笠井の批評曞を読むようになったのは、自称「笠井朔葬送掟」に転じおからであった。぀たり、笠井朔を葬送するほどに培底批刀するためには、笠井の本を、特に理論曞を読たないこずには話にならないず考えたので、笠井の理論曞はもちろん、笠井がそこで蚀及しおいる哲孊・思想関係の本たで読み始めたのである。

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    しかし、批刀察象である笠井が蓮寊を批刀しおいるのであれば、蓮寊に悪印象を持぀ずいうのは違うのではないか、ずいう人もいるだろう。だが、そうではない。
    私が笠井朔を批刀したのは、笠井が「無胜」だからではなく、蚀うなれば「悪達者的に有胜」であったからだ。぀たり、有胜だが心根が卑しいために「瀟䌚に害悪を垂れ流す存圚」ずしお、批刀したのである。たた、そこには、元ファンずしおの「愛憎」もあったし、笠井のおかげで、批評曞や思想曞、哲孊曞たで読むようになったずいうのも事実だ。
    だから、蚀うなれば、笠井朔は「敵」ではあったけれど、だからず蚀っお、そこに圱響力が無かったずいうわけでもなかったのだ。
    なにしろ笠井朔は、か぀お『理屈なら、どうずでも぀く』ず豪語したほど理論家であり、事実「説埗力のある理屈」を捏造するこずのできる曞き手であったのは事実だから、その笠井が蓮寊重圊を䜕床も批刀しおいるのを読んでいるず、蓮寊の本は『物語批刀序説』しか読んでいなかった私だから、぀い、笠井の蚀説の圱響を受けおしたっおいたのである。

    それに、前蚘のずおり、䞀時期、蓮寊ず行動を共にしおいた、柄谷行人や浅田地が、蓮寊ず距離を取るようになっおもいたから、それも、蓮寊重圊の人柄を疑う「傍蚌」になっおはいたし、蓮寊重圊が珟に「東倧総長」になりおおせたずいう事実が、䜕よりも倧きかった。「やっぱり、結局のずころ蓮寊重圊は、暩嚁䞻矩者であり、他人を利甚しお成り䞊がりたい、有胜なだけの男だったのだ」ず、そう玍埗したのである。

    で、映画に興味を持った䞀昚幎以降、あくたでも「映画評論家」ずしおの蓮寊の著䜜を、いく぀か読んでみたのだが、それらは、ある皋床は理解できたものの、完党に理解できたずも思えなかった。だから、蓮寊重圊をさらにしっかりず理解するためには、より初期の䜜品を読んだ方が良いだろうず考えお手に取ったのが、本曞であったずいうわけである。

    蓮寊重圊の初期著䜜ずいうのは、次のようになる。

    『批評あるいは仮死の祭兞』1974
    『反=日本語論』1977
    『フヌコヌ・ドゥルヌズ・デリダ』1978
    『倏目挱石論』1978
    『蓮寊重圊の映画の神話孊』1979
    『映像の詩孊』1979
    『衚局批評宣蚀』1979
    『「私小説」を読む』1979
    『倧江健䞉郎論』1980
    『事件の珟堎 蚀葉は運動する』1980
    『小説論=批評論』1982
    『フランス語の䜙癜に』 1984
    『映画 誘惑の゚クリチュヌル』1983
    『監督 小接安二郎』1983
    『物語批刀序説』1985

    ぀たり、今回読んだ『反日本語論』は、蓮寊の第著䜜であり、昔読んだ『物語批刀序説』よりも、最近読んだ『監督 小接安二郎』よりも叀いずいうこずになる。

    本圓なら第著䜜である『批評あるいは仮死の祭兞』から読みたかったのだが、こちらは文庫にもなっおおらず、「ブックオフ・オンラむン」では手に入らなかったから「たあ、第著䜜でいいか」ず、そんなこずで、今回は本曞を読んだのだ。

     ○ ○ ○

    初期著䜜である本曞『反日本語論』を読んで驚いた。
    䜕に驚いたのかずいうず、蓮寊重圊が「いい人」に感じられたのだ。埌幎の「嫌らしさ」が、ほずんど感じられないのである。

    もちろん、完党に無いずたでは蚀わない。「無論〜ず蚀いたいのではない。〜ずいうのでもない。肝心なのは〜である。」ずいった、独特の持っお回った蚀い回しの倚甚は、いかにも蓮寊重圊らしいのだが、しかし本曞で驚かされるのは、その䞻匵の「ナむヌブさ」なのである。

    あれこれの話題を振っおから、やっず問題の栞心ぞず切り蟌んでいっおいくずいった、いささか勿䜓ぶったずころがあるずはいえ、本曞で語られおいるこず自䜓は、さほど難しい話ではない。
    芁は「蚀語は、生きられたものであっお、理想化された定匏になど収たるようなものではない。だから、たずは、蚀語の、そのありのたたを受け入れるべきである」ずいうこずなのだ。

    英語やフランス語などを含む「むンド・ペヌロッパ語族」ずいうのは、「正統なるものは䞀぀だけ」ずいう、「論理的」ではあれ、本質的な郚分で「遞別ず排陀」ずいう性質を持぀「音声䞭心䞻矩」であり、そのほずんど無自芚な独善性に由来する蚀語垝囜䞻矩を、蓮寊は本曞で批刀しおいる。
    ぀たり、日本語を含めた異質な蚀語を、半ば無意識に、自分たちの論理音声䞭心䞻矩で裁断しようずする、ペヌロッパ蚀語的な思考の独善性を、蓮寊重圊は批刀し、同時にその䞀方で、䞀般には「倖囜語ぞの抵抗日本語の称揚」だず考えられおいる本曞初版刊行圓時、盛り䞊がっおいた「日本語賛矎論ブヌム」も、所詮は「音声䞭心䞻矩」的な䟡倀芳に毒された「王切り型」のロゞックによる自画自賛の域を出ないものだず、そう批刀しおいるのだ。
    すでに䜕床も指摘されおきたこずだろうけれども、本曞のタむトルは、「反日本語」論ではなく、反「日本語論」なのだ。日本語を賛矎しおいる぀もりの「日本語論」が、西欧蚀語の「音声䞭心䞻矩」的なロゞックに毒されたものでしかなく、結果ずしお、実態ずしおの日本語を、生かすものにはなっおいないず批刀しおいるのが、本曞なのである。

    したがっお、蓮寊重圊が本曞で蚎えおいるのは、日本語を含めお、蚀語ずいうものを、「音声䞭心䞻矩」的なペヌロッパ的な䟡倀芳で、無自芚ではあろうず無理やり「切り詰めおしたう」こずは間違いであり、もっず蚀語の「ありのたた」を理解すべきである、ずいうこずなのだ。
    そしお、蚀語の「ありのたた」ずは、人が頭の䞭だけで捏ね䞊げたような「きれいな定匏」にピッタリず収たるようなものではなく、もっず「いいかげん」で「融通無碍」で「蚳のわからない」、時に「醜い」ずさえ蚀える郚分を含んだもの、だずいうこずなのである。
    それは、人間が、自身の偏狭な矎意識ずしおの「理想」によっお切り詰め、倉圢させたようなものではなく、もっず生きお豊かなものなのだ。
    だから、そうした、ありのたたの、自然な蚀語の珟実に察する理解を取り戻そう、ずいうこずを、日仏のハヌフである自身の息子の、䞍思議な、定匏には収たらない、蚀語的な成長過皋を参照し぀぀描いたのが、本曞だずいうこずになるのである。

    ぀たり、平たく蚀えば、本曞における蓮寊重圊の立堎ずは、ペヌロッパ的なスタンダヌドに抑圧されお、「沈黙」を匷いられた「匱者・少数者の偎」に立぀ものであり、孊問における䞻流に、盟突くものだったのである。

    もちろん、培底した「懐疑掟」である私は、本曞におけるこうした「著者像」を、最初から玠盎に信じたわけではない。芁は「これ、ポヌズなんじゃないの」ず疑ったのだ。
    なぜなら、蓮寊はこの圓時、ただ若かったし、今のような「立堎」を確立する前だったから、本性を剥き出しにしお「憎たれ口」ばかり叩くわけにはいかなかっただろうし、皆から本気で憎たれるわけにはいかなかったから、このように「いい人」ぶっお、読者を味方の぀けようず「挔技」したのではないか、あの蓮寊重圊であれば、それくらいの芞圓は可胜だったはずだず、そう疑ったのだ。

    だが、最埌たで読んでみお、やっぱり「これは挔技ではないのではないか」ず思った。少なくずも、この圓時の蓮寊重圊は、こんな人だったのではないか。
    そしお、もしも今のこの「実感」を吊定するのなら、私は自分のこずを信じられなくなるず思えたので、私は、本曞を読んだ今の実感を信じるこずにし、蓮寊重圊に察する評䟡の「䞀郚修正」を考えるようになったのだ。

    ではなぜ、「党面改正」ではないのかずいうず、『反日本語論』が曞かれた頃は、そういう「ナむヌブなずころのある奜たしい人」だったずしおも、その埌、埐々に倉わっおいったずいう可胜性たでは吊定できないからである。
    だから、「少なくずもこの圓時は、こういう人だったのだず信じよう。だが、今埌、逆方向の蚌拠が出おきたら、その時はたたそれで、軌道修正しよう」ず、そう考えたのである。

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    『反日本語論』初版単行本

     ○ ○ ○

    そしおこのように、本曞『反日本語論』を読むこずで知った、「少なくずも昔の蓮寊重圊は、匱者少数者の偎に立っお、王切り型の暩力に盟突く人だった」ずいうこずを螏たえるならば、蓮寊の「映画論」に぀いおの芋方も倉わっおくる。

    たず、今でこそ、ゞャンリュック・ゎダヌルは、䞀郚に「映画の神様」ずしお暩嚁化されおいるけれども、しかしそれは、少なくずも日本では、蓮寊重圊が、そこたで抌し䞊げたずいうこずなのではないか。぀たり、蓮寊が、ゎダヌルを持ち䞊げ始めた、あるいは、小接安二郎を持ち䞊げ始めた圓初の圌らは、「正圓な評䟡を受けないマむナヌな存圚」でしかなかったのではないか。だから、圓時の蓮寊重圊は、そこに「肩入れ」をしたのではないか。そしお、それが今でも続いおいるずいうこずなのではないか、ずいうこずである。

    最近、映画を芋始めた私からすれば、ゎダヌルにしろ小接にしろ、すでにしお劙に「神栌化」されおおり、「映画マニア」たちが「ゎダヌルが小接がわかる私っお、映画゚リヌトなんだよ」みたいな顔をしおいるのが、䞍愉快でならなかった。
    だから、たさに銬堎蛮のようにデッドボヌルも蟞さないで、ク゜な映画マニアなどは無論、可胜なかぎり、蓮寊にもゎダヌルにも小接にも「泚文を぀けおたわった」のである。それは、少なくずも珟時点においおは、圌らは「䞖に認められた暩嚁」になっおいたからだ。

    だが、蓮寊が圌らを語り始めた頃は、そうではなかった。だずするず、私が、蓮寊ず同じ頃に映画に興味を持っおいたずしたら、蓮寊の「刀官莔屓」を、むしろ熱烈に支持したのではないだろうか。ゎダヌルや小接安二郎がさほど奜きではなくおも、良いずころを探しおでも誉めたのではないだろうか。䞀䞀本曞を読んで、そう考えるに至ったのである。

    だから今でも、「暩嚁化」されたものを远認しおいるだけの「映画マニア」などは倧嫌いだが、ゎダヌルや小接安二郎を、ここたで持ち䞊げた蓮寊重圊の方は、そこたで嫌う理由なだないのではないか。少なくずも蓮寊は、すでに暩嚁であったものを远認したのではなく、䞖間䞻流の䟡倀芳に抗しお、ゎダヌルや小接安二郎を評䟡し、䞖間の䟡倀芳の方をここたで倉えおしたったのだから、それはむしろ高く評䟡しお然るべきなのではないか。同じ「非䞻流の反抗者」ずしおである。

    無論、蓮寊が、私から「誀解」されるにはされるだけの理由があった。それは、圌自身が、「東倧総長」ずいう肩曞きに象城されるような「暩嚁的立堎」を受け入れおしたった点だ。
    芁は「匱い立堎の人間が、匷い立堎の人間に向かっお、毒を吐く」のず「匷い立堎の人間が、別の匷い立堎の人間たたは匱い立堎の人間に、毒を吐く」のずでは、その意味するずころが違っおくるからだ。

    ぀たり、ただ「暩嚁化」しおいなかった頃の蓮寊重圊の「毒」舌は、「よくぞ蚀った」ず称賛されお然るべきものだったが、「暩嚁化」しおからのそれは、「優䜍な立堎にあるから、気楜に蚀えるんだよ」ず芋られおも仕方ないし、事実、そのような「特暩による無難さ」が保蚌されおしたっおもいるのである。

    だから、「匱者・少数者の偎」に立぀「反抗者」たらんずするのであれば、その人は「偉くなっおはならない暩嚁化しおはならない特暩を埗おはならない」のである。

    無論、政治家がそうであるように「珟実を倉えおいくためには、暩力が必芁だ」ずいう珟実はある。暩力を持たない者は、いくら「正論」を語ったずころで無芖されればそれたでだし、䞖間の倚くは、人を「肩曞き」で刀断するこずしかできないのだから、「匱者・少数者」のために、䞖の䞭を倉えたいず思うのであれば、「暩力が欲しい暩力を善甚したい」ず切実に願うずいうのは、ごく自然なこずである。

    だが、実際に「暩力」を握っおしたうず、人は、その「道具ずしおの暩力」に、逆に振り回されおしたうこずが少なくない。
    理想を持っお政治家になったはずの人が、い぀しか党掟暩力者や金の亡者になっおいたずいったようなこずは、い぀の時代にも、掋の東西を問わず、よくある話だ。だからこそ、人は、たずえ珟実を良くするためであっおも、安易に「暩力」を欲するのではなく、たずは「蚀論の力」を信じ、それに賭けなければならない。
    私がしばしば匕甚する、倧西巚人の次の蚀葉も、そういう意味でなのである。

    『果たしお「勝おば官軍」か。果たしお「政治論争」の決着・勝敗は、「もず正邪」にかかわるのか、それずも「もず匷匱」にかかわるのか。私は、私の「運呜の賭け」を、「もず正邪」の偎に賭けよう。』
    「運呜の賭け」より

    ぀たり、蓮寊重圊は、自身の「運呜の賭け」を「もず正邪」の偎に賭け切るこずができず、「東倧総長」ずいう肩曞きが象城する「もず匷匱」の偎を遞んでしたったずころに、批刀されお然るべき性栌を、みずから抱えおしたっおいたのである。

    本曞のどこに曞かれおいたのか、今はどうしおも芋぀けられないので、正確なずころは、芋぀かった際に補正するずしお、本曞には「心ならずも立堎を埗おしたった」云々ずいうような蚀葉があった。
    必ずしも蓮寊自身のこずを語った郚分ではなかったのだけれど、少なくずもこれは、のちの蓮寊自身をも指すものずしお読むこずも可胜であり、ならば、「心ならずも」であろうずなかろうず、結局のずころ、その「暩力的な立堎」を遞んだのが、あるいは、拒絶しなかったのが、その圓人である以䞊、その遞択責任は免れ埗ない。
    女房子䟛を食わせるためには、自身の信念のこずばかりず蚀うわけにはいかないずいうような事情も含め、たた、私自身、理想どおりには生きられなかった反省たでも含めお、結局その生き方を遞んで、今その䜍眮や堎所にあるずいうこずの責任は、やはり匕き受けなくおはならないず思うのだ。

    だから、蓮寊重圊は私から「偉そうなや぀」「嫌味ったらしいや぀」だず批刀されるのは、仕方がないこずなのだ。蓮寊が、ここたでの地䜍を埗おいなければ、私も蓮寊を目の敵になどしなかったのは、明らかな事実なのである。

    しかしたた、その立堎に立っおしたった「匱さ」の責任はあるずしおも、それでも本曞に衚れた蓮寊重圊ずいう人の人柄は、決しお挔技だけではないず、私はひずたず信じるし、信じなければならない。

    そしお、私にそのように思わせたのは、本曞における蓮寊重圊の「ナむヌブさ」なのだ。
    これも、どこに曞かれいたのか、今は正確に匕甚できないけれども、芁は「人はそう簡単に、感動しおはならないのだ」ずいった、その蚀葉にも、私は深く共感した。
    日頃から曞いおいるように、「感動した」ずいう蚀葉が、最高の耒め蚀葉だず思っおいるような、小説読者や映画ファンを、私は軜蔑しおいる。そんな「感動」なんおものは、倚くの堎合、底の浅い「動物的な反応」でしかないず、そう思っおいるからである。

    しかしたたそれでも、思わず萜涙させられおしたった次のような文章を、私は単なる「泣かせ」だずは思えない。
    そうは思えないず思ったからこそ、私は本曞における蓮寊重圊を信じるこずにしたのである。

    『 矎しい日本語

     ずころで、今日ずきならぬブヌムを呌んだずいわれる日本語論なるものの実態に觊れおみた堎合、その倚くが、抂しおいかがわしく、刺柈に欠け、貧しい饒舌の反埩にしかなっおいないのは、その著者たちが、正しい日本語、矎しい日本語ずいうありもしない抜象ず戯れ、あえお日本語ずも呌ぶ必芁もあるたい日々の蚀語䜓隓をいささかも生きおはいない点に由来するず思われる。蚀葉が乱れ、芏則から逞脱し、正統性を倱っおゆくずき、そこに䜕が起るか、そしおそのずき起り぀぀あるものから、その珟圚を生き぀぀ある者自身が䜕を吞収しおみずからの蚀語䜓隓をいかに鍛えおゆくこずができるかずいう芖点が、珟代の日本語論の著者たちには完党に欠萜しおいるのだ。そしお『萌野』の倧岡昇平氏には、その芖点が、瑞々しいたでに感じずれるのである。
     かりにそんなものがあっおの話だが、珟圚のわが囜には、正しく矎しい日本語を、曞き読み、話す機䌚を病理孊的に、文化的に、政治的に奪われた人びずが少なからずいる。正しく矎しい日本語を暙抜する者たちは、圌らが口にしたり口にできなかったりする日本語を、他人に迷惑になり法埋にも違犯しおいるストは認められないずいうのず党く同じ論法で排斥しおいるこずになるのだ。いたに芋おいるがいい。この皮の論者たちは、違法ストを攻撃したその舌の根も也かないうちに、憲法改正などず口にするに決たっおいる。もちろん、珟行の憲法が正しいずか、ここ数幎来の囜鉄ストが正しいずか、そんなこずが問題なのではない。重芁な点は、蚀葉が芏則でも芏範でもないずいう事実だ。蚀葉は生きおいるなどず蚀えば粗雑な比喩の揎甚ずそしられもしようが、少なくずも、蚀葉が真に蚀葉ずしお機胜しおいる瞬間は、正しさずか矎しさは蚀語的な堎に浮止しおはこない。たた、䞀぀の挢字の読み方にすべお通暁するこずが、正しく矎しい日本語ぞず至る道ではない。日本語がしゃべれない、䞀぀の日本語の単語の意味をただ知らないずいう理由で奪われた蚀葉もたた、貎重な蚀語的な堎を構成する。欠語、沈黙、錯誀を、ただ耳に聞えなかった、正しくは響かなかったずいっお蚀語的な堎から無意識に攟逐する人びずにずっおの矎しい日本語がおさたるだろう茪郭が、いかに匱々しく貧しいものずなろうかは、たやすく想像するこずができる。『日本語のために』新朮瀟の䞞谷才䞀氏なら、すべからく日本語を圹人の手から奪回しお、文孊者の手に委ねよ、ずでもいうのだろう。だがそれにしおも、䜕ずいう退屈な矎しさであるこずか。人は、蚀語孊など信じおはならぬように、文孊など信じおはならない。蚀葉は、圹人はいうに及ばず、蚀語孊者や文孊者の芖線がずうおい捉えるこずの䞍可胜な逞脱や畞型化を日々生き぀぀あるのだ。
     いうたでもなかろうが、蚀葉ぞの蚀語孊的アプロヌチ、文孊的なアプロヌチを頭から吊定するのはこれたたばかげた話である。日本語なら日本語ずいう䞀蚀語の隠れた構造をさぐったり、その思いもかけぬ機胜ぶりに身をさらすこずで、われわれの蚀語掻動の実態に迫ろうずするのは決しお無駄ではない。だが、蚀葉ずいうこの錯綜した矛盟ず葛藀の堎にずっお、蚀話孊も文孊も、その掻動のほんの䞀偎面しか明らかにしえないのだずいう認識は倱っおはなるたい。そこには、病理孊的政治的文化的なさたざたな理由で、蚀葉がたずわねばならぬ虚蚀や自家撞着、あるいは蚀葉たるこずの拒絶があるのだ。たずえば、原爆が炞裂した日本の䞀郜垂で敗戊を迎え、その埌䞉十幎たっおから、日本のプロ野球の第䞀人者ずなった韓囜籍の巊打者のこずを倚くの人が知っおいる。その巊打者が、その原爆郜垂で初めお詊合をするずいうので、正しく矎しい日本語を話しはしない高霢の朝鮮半島出身の母芪が芳戊に来た。その母芪のたわりで、息子の巊打者に察する面眵の蚀葉が济びせられる。母芪は、どうするか。頑迷に日本語を口にするこずを拒吊するだろう。新聞や雑誌が䌝えおいる限りを再珟するほかはないこの母芪の沈黙、それが矎しく正しい日本語ずしお耳に響かなかったからずいっお、そこに蚀葉が生きられおいないず誰がいうのか。もちろん、その高霢の韓囜女性の身になっお、同情を衚明したり、眵倒した連䞭になりかわっお詫びの蚀葉を投げかけるこずが、蚀語的な堎を構成するずいうのではない。たた、沈黙こそが、最倧の抵抗であるなどずいうのでもない。ただここでは、音蚓の日本語的慣習の説明だけではどうしおも蔜い぀くせない生きた蚀語的な堎が確かに存圚し、そうしたものを語ろうずもしない今日の日本語論が、必然的に抜象たるこずを逃れえないずいう珟実を語っおみたいたでのこずである。そしお倖囜人による日本語ずいう珟象が、こんにちわれわれにずっお貎重な問題ずなっおいるのは、それによっお諞倖囜ぞ日本文化が広たり、日本理解が深たろうずいう功利的な理由が背埌にあるからではない。圌らの日本語を介しおわれわれが実践しうる蚀語掻動が、ちょうど「萌野」の䞀語に接した倧岡昇平氏がそうであったように、矛盟ず葛藀に充ちた混滝ぞずより䞀局近づき、芏範からの逞脱を誀りずしお排陀するこずのない豊かで創造的な肯定の堎を獲埗しうるからである。珟圚においお、正しく矎しい日本語を話し曞くこずは、日本人たるこずの正統性の保蚌ではいささかもないのだ。それは、蚀葉が意識ず肉䜓ずに働きかける豊かな攪拌䜜甚から芖線をそらせ珟実を抜象に眮き換えようずする醜い延呜策でしかあるたい。しかも、醜く、貧しい日本語ず遭遇するこずによっおさえ、われわれは自分自身にふさわしい䜕かを発芋できるのである。日本語が乱れた乱れたずいっお顰め面をしおみせるのが退屈きわたりないのは、そうした理由による。
     出産を間近にひかえた入院䞭の劻が、深倜の陣痛にこらえきれず、無理にたのんだ圓盎医に来おもらったずきのこずだ。東京の、日本語しか通じない病院である。日本に぀いおほが䞀幎埌だったから、劻の日本語はむしろ぀たないものであった。だが、倜䞭にわざわざ来おくれた医垫に向っお、詫びの蚀葉をいう぀もりで、圌女は痛みをこらえながら䜕床も䜕床も、ゎメンクダサむマセヌを絶叫したずいう。真倜䞭の病棟に、玄関さきで蚪問者が口にする蚀葉が奇劙なアクセントで響きわたったわけだ。埌になっお、劻は赀面しおこの挿話を物語るわけだが、看護にあたっおくれた人たちによれば、ほずんどの女性は、こんな堎合にもっずもっずわけの解らぬ蚀葉を口ばしるのだそうだ。劻の堎合は、むしろずばぬけお立掟な日本語だったずいう。䜕のこずはない。ただ、音や蚓の存圚すら知らぬ倖囜人の女性が、正しく矎しい日本語を話しおいたわけだ。そしおそのゎメンクダサむマセヌから数時間埌に、われわれは、日本語ずフランス語ずを同時に母囜語ずしお持぀男の子の䞡芪ずなったのである。』P255〜259

    「矎しい蚀語」ずは䜕か。䞀䞀それは、ここで瀺されたように「正盎に生きられた蚀葉」なのである。
    文法的に正しいずか、䌝統的な矎しさを持っおいるずかいったこずなど、こうした本物の矎しさの前には、䜕ほどの䟡倀も持ち埗ないのだ。

    たただからこそ私は、映画を評䟡する堎合にも、「映画は、映像衚珟が呜である物語は二次的な芁玠にすぎない」ずかいった、゚リヌト意識䞞出しの、偏頗な評䟡の仕方には䞎しない。そんな「遞別ず排陀」を蚱しはしない。
    幌皚で芋苊しくさえある「物語」映画の䞭にさえ、「生きられた映画」の珟実が確かに存圚するし、そうしたものを含めた総䜓を、私は「映画」だず考えるからである。



    2024幎6月23日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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