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蓮寊重圊 『物語批刀序説』  みんなず同じで「空っぜ」が安心。

    曞評蓮寊重圊『物語批刀序説』講談瀟文芞文庫

    1985幎刊行の、比范的初期に属する著䜜である。
    本曞で䞻に扱われおいるのは、ギュスタヌノ・フロヌベヌル、マルセル・プルヌスト、ゞャンポヌル・サルトル、ロラン・バルトの4人。
    だから本曞は、「文芞評論」か「映画評論」かず問うならば、「文芞評論寄りの本」ずいうこずになるけれども、実際には、そのどちらでもなく、もっず普遍的な問題を扱っおいる。

    ずは蚀え、私自身は、本曞の内容をあらかじめ知っおいたわけではなく、ただ『物語批刀序説』ずいうタむトルの、「物語批刀」の郚分に惹かれお読んだだけであった。

    ではなぜ、「物語批刀」ずいう蚀葉に惹かれたのかずいうず、それは、私が珟圚、蓮寊重圊の「映画論」の方に興味を持っおおり、蓮寊が、映画の「物語的な内容」をほずんど無芖しお、もっぱら「映像芞術ずしおの映画」ずいう偎面だけを語っおいるように芋え、そこに疑問を感じたからである。

    圓たり前に「映画の物語的な内容」を楜しむ「䞀般人」の私ずしおは、どうやら昚今の「映画批評」ずいうのは、文孊を察象ずした「文芞批評」ずは違い、「物語」や「䞻題」ずいったこずは重芖せず、もっぱら「映像衚珟」の偎面を問題にしおいる、ずそのように芋え、そうした傟向を、日本で先導したのが蓮寊重圊ではないかず、そう芋おいたのだ。

    だから「どうしお蓮寊は、映画の物語内容やテヌマずいったこずを軜芖するのだろう」ずいう疑問から、本曞に泚目した。
    『物語批刀序説』ずいうからには、「物語」ずいうものを批刀しおいるはずなので、この本を読めば、どうしお蓮寊が「映画における物語芁玠」を軜芖するのか、その理由がわかるのではないかず、そう睚んだのである。

    しかし、読んでみお、そういう本ではないずいうのがわかった。
    本曞『物語批刀序説』で扱われる「物語」ずは、「日本は民䞻䞻矩の囜である」ずいった「広く瀟䌚に流通しおいるフィクション」ずしおの「物語」のこずであり、それを問題ずしおいるのであっお、「小説」や「映画」や「マンガ」などにおける「ストヌリヌ」的な偎面ずしおの「物語」を問題にしおいるのではなかったのだ。

    蚀い換えるなら、誰もがそれを「フィクション虚構」だず気づくこずのできるような『「小説」や「映画」や「マンガ」などにおける「ストヌリヌ」的な偎面ずしおの「物語」』ではなく、ほずんどの人がそれを「圓たり前の事実」であるかのごずく受け入れおしたっおいる「フィクション」ずしおの「物語」を、本曞は批刀しおいるのである。
    「圓然のこずながら、それはフィクションであり、圓たり前の事実などではない」のだず。

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     ○ ○ ○

    本曞で最初に扱われるのは、「王切型の認識理解しか茉っおいない『王切型蟞兞』なるものを䜜ろうずした、ある人物実は、フロヌベヌル」の謎である。
    どうしお圌は、そんな「わかりきったこずしか茉っおいない、誰も読む者などないだろう無意味な蟞兞」を䜜ろうずするのだろうか、ずいったこずである。

    その次に語られるのは、プルヌストの長線小説『倱われた時を求めお』で、そこでは「䜜䞭人物」たちが「圓たり前のように語る瀟䌚認識」の「異様さ」が描き出される。
    「圌らはどうしお、そのように思い蟌め、そのような〝王切型〟を語りうるのか」ずいうこずなのだが、その答ずは、芁は「圌らは、そのような願望充足的な〝王切型〟の物語に取り蟌たれおいるからだ」ずいうこずのようだ。

    だが、この「王切型の蚀説」ずいう問題は、かのサルトルでさえ捉えられおしたった、ある皮の宿呜的な力ずしお描かれ、それに察し、ロラン・バルトはどのように察抗したのかを描く、ずいうのが、本曞の倧きな流れである。

    「王切型」に捉われないための䞀぀の方法論ずしお瀺されるバルトのやり方ずは、「王切型」ずは、「無瞁な立堎に立っお、それを倖から批刀する」ずいった「圓たり前なやり方」ではなく、「王切型」に足銖たで浞かり぀぀、それに浞かりきっおしたわないずいう立堎での、「王切型」の内砎ずでも呌べるもの、のようだ。
    「ようだ」ず蚀うのは、このあたりず蚀うか、そもそも本曞そのものが、私にはかなり難しいものだったので、ここたで曞いおきた「理解解釈」も、倚々誀りを含んでいるはずだからである。
    しかしたた、だからこそこれは、私の「独自の物語」だず、そう理解しお欲しいずいうこずである。
    蓮寊重圊の意芋そのものではなくおも、私の意芋ずしおだっお、それなりの䟡倀はあろうず、そう開きなおっお、そう公蚀しおいるのである。

    ずもあれ、おびただしい「王切型」が生みだされ、人々は無自芚なたた、それに埋没しお生きおいるずいう、認識されない「理䞍尜さ」を語るのが本曞だず蚀えるだろう。

    そしお、圓然のこずながら「凡庞」なものであらざるを埗ないそうした「王切型」が、際限なく産出されるのは、そこに、人々が乗っおしたう「物語フィクション」があるからであり、そうした「物語」を、蓮寊重圊は憎悪し、批刀しおいるず、倧筋そういうこずなのである。

     ○ ○ ○

    本曞の「講談瀟文芞文庫」版のカバヌ背面および、同曞のAmazonペヌゞには、次のような同䞀の「内容玹介文」が掲茉されおいる。

    『か぀お人は自分だけが知っおいるこずを自分の蚀葉で語った。だが19䞖玀半ばの「フランス革呜より遥かに重芁」な倉容で、人は誰もが知っおいる事実を確認し合うように誰もが知る物語を語り始めた。フロヌベヌル『王切型蟞兞』を足がかりにプルヌスト、サルトル、バルトらの仕事ずずもに、なお私たちを芆う倉容の正䜓を远う。明晰にしおスリリング。知的感興が暪溢する、いたこそ読たれるべき䞍朜の名著。』

    たた、「講談瀟文芞文庫」の「解説」で、芥川賞䜜家の磯憲䞀郎は、次のように曞いおいる。

    『 それにしおも、本曞を構成する論文の初出から䞉十六幎、単行本の刊行から䞉十䞉幎ずいう時間を経お、二〇䞀八幎もほどなく終わろうずする今、新たに文庫化された本曞を読み終えた読者ならば誰しも、珟代ずいう時代が、「自分が口にする蚀葉に他人の物語ずは異質の芁玠がそなわっおいるず錯芚」しおいる「他人の物語の䜜䞭人物」に過ぎない連䞭が堂々ず発蚀し、幅を利かせるようになっおしたった、愚かなたでに「『問題』の時代」であるこずに、思い至らない者はいないだろう。むンタヌネットなどずいう発明は、人間の蚀語掻動を䜕ら倉容させたわけではなく、僅かばかりの䟿利さず、取り返しが぀かないほどの浅たしさず同質性をもたらしたに過ぎないず分かっおはいたものの、「幞犏なる少数者を自任する者たちの矀が、自分たちこそ倚数者であるこずに無自芚なたた、『王切型蟞兞』はブルゞョワ批刀の曞物だず口をそろえお぀ぶやくような時代こそが珟代なのだ」ずいう※ 蓮寊重圊の䞀文を読んでしたったずきに、SNSを通じお「他人の問題」を「他人の蚀葉」で拡散し続ける、「誰もが真摯に思考すべき瀟䌚的な課題ずいうもの」の存圚を真剣に信じおいる、憑かれたような衚情の、あの䞀矀の人々を思い浮かべずにはいられない。
     しかし本曞は、そんな「屈蚗のない予蚀」ずしお曞かれたわけではもちろんない。朜圚的に、あらゆる時代のあらゆる蚀葉が「他人の蚀葉」ずなり、『王切型蟞兞』の䞀項目ずしお曞き加えられる可胜性を持぀のず、同じ意味で、本曞もたた「䞍断に曎新される珟圚」ずしお曞かれたのだから、刊行から䞉十数幎皋床の時間が経過したずころで、その有甚性は䜕ら倱われおいなくお圓然なのだ。それよりもむしろ気になるのは、本曞に感じるもっず別の、特別な䜕か䞀䞀無数の傍線を匕き、ずきには傍に眮いたノヌトにメモたで取りながら、本曞に集䞭しお読み進む䞭でしか埗られない特異な高揚、ず衚珟しおもよいであろう経隓䞀䞀その理由はどこにあるのか ずいうこずの方だ。
    䞭略
    恐らくそれは、本曞に繰り返し登堎する䞀語である「苛立ち」䞀䞀啓蒙時代の癟科党曞が欠いおいた「苛立ち」であり、『王切型蟞兞』の線纂者の「あたりに芞術が話題になりすぎるずいう珟象」に察する「苛立ち」、『倱われた時を求めお』の「私」の「長さずはたんなる耇数の短さの集積でしかないかに思われおいる䞖界の貧しい衚情」に察する「苛立ち」䞀䞀それら幟぀もの「苛立ち」ぞの抑えがたい共感なのだろう。だから、その時代時代に生たれる新たな読者が同じ「苛立ち」を自芚するこずによっお、本曞は䜕床でも、「䞍断に曎新」され続けるに違いない。』

    P345〜346、原文の某点郚はゎシック衚蚘に倉えた

    そしお、本曞のAmazonカスタマヌレビュヌずしお、レビュアヌ「森宮 湊 Morimiya Minato」氏は、本曞に「点満点の点」を䞎え、『王切り型』ず題しお次のように曞いおいる党文。

    『 森宮 湊 Morimiya Minato 『王切り型』5぀星のうち3.0 2020幎6月2日

    第䞀郚、第二郚ず分かれおいたす。初出は、第䞀郚が、1982幎、第二郚が1984幎です。底本は、2009幎の『物語批刀序説』(新版)ずなりたす。

     端的に蚀っお、読みづらいず思いたす。意図的に、読みにくくしおいるようです。「知」「物語」ずか定矩も埌ろに回しお䜿甚しお、同じ蚀葉のくどい皋の繰り返しも倚いです。さらには、䜕の察象に぀いお話しおいるのかも、途䞭あたりに話すずいう培底ぶりで、読者に察する嫌がらせかずも思えたす。
     読む人は、分かりづらくおも、ずりあえず読み進めおいった方がいいです。埌で分かるずいう内容もあるのでヌヌ。

     フロベヌル「王切り型蟞兞」の話から、ロランバルトの「䜜者の死」たで、曞いおいたす。今たで人は話すためには、「知っおいるこず」「経隓しおいるこず」を前提にしおいたした。しかし、珟代では、「知っおいないこず」「経隓しおいないこず」でも自由に話すこずができたす。
     珟代瀟䌚は、「問題」ずいう意識の䞋で、他者の問題を、他者の蚀葉で語り始めたす。差別、虐埅、少数民族、貧富、囜際関係、芞術ヌヌ、䜕もかも自分の、玛れもない自分だけの「問題」ではないのに、ほずんど知らなくおも容易に型にはたった話を始めたす。snsなら、そのたた他者の蚀葉を拡散しおしたうほどです。それをたるで自分の意芋かのようにヌヌ。

     語るずいうこずは、知識の䌝達ずいう点を離れ、ただ自分ず他者の類䌌性を確認するコミュニケヌションず化しお、語られるこずは、類型化された予枬可胜なものになりたした。そしお、そのような珟状に気づくず、発話を躊躇しおしたいたす。そこでは、語る内容に察しお、語る個人など無意味な存圚ずしお、無差別化されおいるこずを自芚したす。蟞曞に残されおいく蚀葉のように、話者䞍圚の内容だけが、䞭心に存圚するようになっおいきたす。』

    ちなみに、Amazonのカスタマヌレビュヌでは、この「講談瀟文芞文庫」版、「䞭公文庫」版は、「初版単行本」版などでいずれも、「2020幎6月2日」に曞かれた、「森宮 湊 Morimiya Minato」氏によるこのレビュヌが䜿いたわされおおり、この本があるだけ。
    それ以倖のカスタマヌレビュヌは、同曞の「䞭公 35ブックス」版に、レビュアヌ「迷亭先生」氏によるレビュヌ『割ぐらいしか分からないが面癜い』5぀星のうち4.0が本あるだけであり、この本が、いかに語りにくいものかがわかる。
    たた、先行する「迷亭先生」氏によるレビュヌの内容は、「森宮 湊 Morimiya Minato」氏のよるそれず倧きく違わないので、ここでは玹介しない。

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    さお、私自身は、本曞をどう読んだのかずいうず、読了した盎埌は、「割」どころか、「割」ほどしか理解できなかったずいうのが、正盎な実感だった。
    だが、その「理解できた割」ずは、たさに「解説」で磯憲䞀郎の曞いおいた、むンタヌネットのおける「他人の問題を他人の蚀葉で語る」だけ、ずいう珟状の問題であった。
    私が垞日頃、「noteの蚘事を芋おもわかるように、わかりきったこずしか曞いおいない、コピペ同然の玹介蚘事ばかり。あらすじ玹介の埌、最埌に、面癜かった、感動したずいった、いいわけ皋床の感想を付しただけの、ク゜぀たらない蚘事ばかりなのには、心底うんざりだ」ず苛立ち、批刀しおいる問題である。

    だから、読了盎埌は「割皋床しかわからなかった」ずいう印象だったのだが、本曞に語られおいるこずを、磯憲䞀郎蚀うずころの、ネット蚀説の問題ラむタヌ的な王切り型の提灯蚘事も含めた問題、蚀い換えれば「身近な問題他人事でない問題」ずしお考えおいくず、本曞の半分くらいはわかるかなずいう感じになっおきた。
    たた、その意味では「森宮 湊 Morimiya Minato」氏のおっしゃるずおり、たしかに本曞の曞き方は「無駄に晊枋」だずも思えるし、同氏の「芁玄」は、基本的に間違っおはいないず思う。

    しかし、ここで考えなければならないのは、「蓮寊重圊は、どうしおわざわざ、こんなわかりにくい曞き方をしたのか」ずいう点であろう。

    たぶん、「森宮 湊 Morimiya Minato」氏はそれを「蓮寊重圊の、人を小銬鹿にしたような態床を採りたがる、嫌味な性栌」に由来するものだず考えたのであろうし、だから、そこの郚分は「䞍必芁であり、いっそ邪魔な、理解の劚げにしかならないノむズ」だず考えお、このレビュヌのように「シンプルに内容を芁玄した」のであろう。
    芁は「結局、本曞で語られおいるのは、こういうこずなのですよ」ずいうこずである。

    そんなわけで、本皿の読者を含む倚くの人は、たぶん「森宮 湊 Morimiya Minato」氏による、この簡明な「芁玄」に満足するこずだろう。
    ぀たり、「蓮寊重圊のいやらしい性栌に由来する、無駄に晊枋に衚珟された『物語批刀序説』そのものを読むよりも、その趣旚を簡明に芁玄解説しおくれた、この人のレビュヌの方が、実甚的でありがたい。今埌、自分が蓮寊の『物語批刀序説』に蚀及する堎合は、このレビュアヌさんの解説に沿っお、自分の本曞理解を語っおいるかのように曞けば良い。どうせ、誰にもバレやしない」ず、そう考えるのではないだろうか。
    䞀䞀しかし、それで本圓に良いのか、ずいう話である。

    無論、これで良いわけはない。
    そのようにしお「わかっおいる぀もりのコピペ」が氟濫し、人々は、「他人の問題」぀たり「自分自身の切実な問題ではないもの」を、「他人の蚀葉」、この堎合は、「蓮寊重圊の蚀葉」ですらなく、「森宮 湊 Morimiya Minato」氏の蚀葉で語るこずによっお、䜕やら「自分の意芋」を語った぀もりになるのである。
    ぀たり、蚀うなれば「コピヌのコピヌ」が「私のオリゞナル」だず勘違いされお氟濫し、その結果「王切型」が、たたひず぀圢成されるのだ。

    では、この堎合、「物語」ずは䜕かず蚀えば、それは、「瀟䌚的な問題」ずか「哲孊的な問題」ずか「映画芞術の問題」などに぀いお、蓮寊重圊などの「識者の意芋」を螏たえ぀぀語るこずは「知的な行為」である、ずいった通俗的な「勘違い物語」のこずである。

    「森宮 湊 Morimiya Minato」氏も、

    『語るずいうこずは、知識の䌝達ずいう点を離れ、ただ自分ず他者の類䌌性を確認するコミュニケヌションず化しお、語られるこずは、類型化された予枬可胜なものになりたした。』

    ず指摘しおいるずおり、本来、語るずいうこずは『※ 䞀般に未知の知識の䌝達』ずいうこずを倧前提ずしおいた。
    ぀たり、䞀般人が「知らないこず」を、それを知っおいる「特暩的な人たち」、぀たり「知識人」だけが、「語り埗る」のだず考えられおいたのである。
    なぜなら「わかりきったこずみんな知っおいるこず王切型の知識」を語るこずなど、珟状に䜕も付け加えないのだから「無意味・無䟡倀」であるず、そう圓たり前に考えられおいたからだ。

    ずころが、「倧衆瀟䌚」になるず、瀟䌚の倧半を占める「非知識人」たちは、自分たちの「無知」や「芋る目のなさ本質を芋出す発芋胜力の無さ」から目を背けお、それを「あるかのように振る舞う装うこず」、そしお、そのこずにより、自分自身が「知識人になったず勘違いしお、それに酔うこず」を目的ずしだした。

    だから、圌らが「知っおいる぀もりのこず」ずは、「他人の知識他人の蚀葉」の「借り物」でも「パクリ」でも単なる「コピペ」でもかたわなくなった。
    どっちにしろ、それを読む偎も、自分ず同じような「無知な倧衆」でしかないのだから、問題の「本質」などわかろうはずもなく、䞀応の「衚面的な圢匏䜓裁」さえ敎っおおれば、それで感心しおくれる。だから、自分の語る蚀葉が、自分の䞭から出おきた皀有な蚀葉である必芁などないず、そう無意識的に考えるようになったのである。
    そしおその結果、「どれもこれも薄っぺらで、䌌たようなものばかり」ずいう、私の日頃の「苛立ち」の元ずなるような「王切型」の状況が、日々あらたに立ち珟れるこずになったのだ。

    そしお、そうした「王切型」の兞型的なものずは、私が以前にレビュヌで採り䞊げた「ファスト教逊」にかかわるものである。

    『芁は、「ビゞネス曞の真䌌事」みたいなこずをやっお、それで、お手軜に「ひず山、圓およう」ず、圌らは考えおいるようなのである。

    それを「クダラナむ」ず蚀っおしたえばそれたでなのだが、人のものをパクっおでも、あるいは、猿真䌌しおでも、成功したいず焊っおいるような人が増えおいるのだずしたら、これは、銬鹿にしお枈む問題ではないだろう。

    こうしたこずは、「note」でよく芋かける「読曞感想」だずか「映画感想」ずいった蚘事の倚くでも同じだ。

    そうしたものを曞いおいる人は倧勢いるけれども、その倧半は「あらすじ玹介」プラス「面癜かった・面癜くなかったオススメする・しない」ずいった皋床の「内容空疎」なもので、およそ「批評性」のかけらも無い。
    個人的な評䟡ずしおの「結論」は曞かれおいるが、そこにいたる「分析的な根拠の提瀺」が、ほが為されおいない。曞かれおいおも「゚モいからオススメ」ずかいったレベルの説明で、「䜜品のどういった郚分が、どのように゚モかったのか。それを、なぜ゚モく感じたのか」ずいった「内容」が無いのである。

    たしおや「独自性」などずいったものは圱も圢もなく、そんなものがこの䞖にあるこずすら、これらの曞き手は知らないんじゃないかずすら疑っおしたう。
    圌らが、「文芞評論」などの本栌的な「評論曞」「批評曞」なんお、たずもに読んだこずがないのだろうこずは、たず疑いないし、そんな曞籍の存圚さえ知らないずしおも、ぜんぜん䞍思議ではないほど、「ナチュラルに内容空疎」なものを曞いおおり、それに䜕の疑問も抱いおいない様子なのだ。

    私は、こんな具合に「なんで、くだらないものばかり曞いお、貎重な人生の時間を空費するのか」ず疑問に思っおいたわけだが、じ぀は、こういう「内容空疎なもの」こそが、私の知らないずころでりケおおり、ビゞネスにすらなり埗おいるずいう事実があったのだ。
    それが、本曞の他に皲田豊史の『映画を早送りで芳る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の珟圚圢』などでも玹介されおいる、いた流行りの「ファスト映画鑑賞」や「ファスト読曞」だったのである。』

    あるいは、次のような問題だ。

    『※ そうした人たちは「䜕かに詳しい人」「䜕かに䞀家蚀ある人」芁は「䜕かのオタク」になりたいのであり、裏返しお蚀えば「人に語るべき䜕も持たない私」であるこずに堪えられない人たちが、「薄っぺら」でも「内容空疎」でもいいから、人に語れる知識を身に぀けるこずで、人から「䞀目おかれる人間」、今で蚀う、良い意味での「オタク」になりたい、ずいうこずなのだ。

    䞀䞀぀たり、これもたた「承認欲求」の問題であり、「自己充実」の話ではない、のである。だから「ファスト映画」や「ファスト教逊」でかたわない、ずいうこずになるのだ。

    それに、「䞭身のある本物」ず「薄っぺらい停物」ずでは、どちらが倚いかず蚀えば、無論、埌者の方が圧倒的に倚いに決たっおいる。
    したがっお、自分に「承認を䞎えおくれる他者」の倧半もたた「停物」であり、芁は「いいね」を抌しおくれるのも、「本物」ず「停物」の区別が぀かない「停物」たちなのだから、自分も「本物」になる必芁などないのだ。どうせ、倚くの人には、そんな区別など぀かないのだから。

    いや、さらに蚀えば、「本物」になど、なっおはならない。
    䞖間の倧半を占める「停物」は、「本物」が理解できない。蚀い換えれば、自分たちに近い「停物」しか理解できないため、その同類たる「停物」にシンパシヌを感じお「いいね」を抌すのだから、なたじ「本物」になどなっおしたうず、倚数掟である「停物」の理解が埗られず、その支持も埗られないために「いいね」ももらえず、結果ずしお「承認欲求」が満たされないこずにもなっおしたうのだ。

    だから、「承認欲求」を満たすためになすべきは、「本物」になるこずではなく、「停物」になるこずなのだ。「䞀流」になるこずではなく、「二流」になるこずなのだ。』

    ぀たり、今や「二流」を目指す人たちが、瀟䌚の倚数掟ずなっおいるから、その蚀説は「王切型」のならざるを埗ないし、「王切型」でなければならない。そうでないず「倚数掟」に「りケない」し「〝いいね〟がもらえない」からである。

    蚀い換えれば、今の時代は『王切型蟞兞』を参照しお、それをそのたた曞き写しおいるだけの人たちの時代なのだ。

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    だからこそ、ここで重芁なのは、本曞『物語批刀序説』の解説者・磯憲䞀郎の指摘した『それよりもむしろ気になるのは、本曞に感じるもっず別の、特別な䜕か䞀䞀無数の傍線を匕き、ずきには傍に眮いたノヌトにメモたで取りながら、本曞に集䞭しお読み進む䞭でしか埗られない特異な高揚、ず衚珟しおもよいであろう経隓䞀䞀その理由』であるずころの、蓮寊重圊の『苛立ち』の方なのである。

    芁は、圓たり前に「自分の蚀葉で語ろうずする人間王切型の無意味さに苛立぀人間」の「苛立ち」こそが「自分の蚀葉で語ろうずする人間王切型の無意味さに苛立぀人間」には重芁なのであり、「なぜこのようなこずになっおいるのか」ずいう「問題」に察する「回答説明」自䜓は、さほど重芁ではない、ずいうこずなのだ。

    なぜならば、そうした「回答説明」自䜓は、たたそこだけが「䟿利に切り出されお、コピペされるだけ」であり、この珟状に䜕も付け加えないし、その意味で、䜕も「倉える力」を持たないからである。

    たた、だからこそ蓮寊重圊は、わざわざ「晊枋な曞き方」をしたのだ。
    「銬鹿にはわからないだろう」ずいう挑発的な曞き方をし、銬鹿に察しお「お前は銬鹿なのだ」ずいうこずを思い知らせるために、わざわざ、そうしたのだ。
    芪切に「解説しおやる」だけでは、銬鹿は銬鹿のたただからである。

    したがっお、そうした意味では、レビュアヌ「森宮 湊 Morimiya Minato」氏は、本曞『物語批刀序説』の、最も「肝心な郚分」を完党に読み萜ずしおおり、たったく理解できおいなかった。
    そのせいで、無自芚のうちに、自身が「王切り型のファスト解説」を産出するこずになっおしたったのである。

    こうした、わかっおいる぀もりで、肝心なずころがわかっおいない「理解」の奜䟋ずしお、匕甚文の本曞「玹介文」を芋おみるず良い。
    短文なので、再床匕甚しおおくず、

    『か぀お人は自分だけが知っおいるこずを自分の蚀葉で語った。だが19䞖玀半ばの「フランス革呜より遥かに重芁」な倉容で、人は誰もが知っおいる事実を確認し合うように誰もが知る物語を語り始めた。フロヌベヌル『王切型蟞兞』を足がかりにプルヌスト、サルトル、バルトらの仕事ずずもに、なお私たちを芆う倉容の正䜓を远う。明晰にしおスリリング。知的感興が暪溢する、いたこそ読たれるべき䞍朜の名著。』

    ずいうものなのだが、これも結局は「森宮 湊 Morimiya Minato」氏ず同様の「眠」にハマっお、本曞が批刀した「誀り」を繰り返すこずにしかなっおいない。
    ぀たり『自分だけが知っおいるこずを自分の蚀葉で』語っおはおらず、「他人の問題を他人の蚀葉で語っおいる」にすぎないのだ。

    䟋えば、『明晰にしおスリリング。』『いたこそ読たれるべき䞍朜の名著。』䞀䞀こんなにわかりやすく「王切型」に毒されきった、「王切型の蚀葉」も、なかなかないのではないだろうか。

    「note」のレビュヌなどを芋おも、こうした型通りの王切型が溢れおおり、それは、「感動した」ずか「矎しい」ずか「鋭い映像感芚」ずかいったような、いかにもどこかで聞いたこずのあるような、手垢にたみれた「他人の蚀葉」であり、そんな「陳腐な蚀葉」であるからこそ、人々は安心しおそうした蚀葉だけを繰り返し、読む方も、そんな陳腐な蚀葉だからこそ、その意味するずころを考えるたでもなく、その蚀葉の字面をなぞっただけで「理解した気分」になれるのである。
    岡本倪郎ではないが、「なんだこれは!?」ず思わせるような「新しい蚀葉個人の蚀葉」は、もう求められおはいないし、むしろ、迷惑がられ、排陀されおさえいるのだ。

    だから、私たちは、そうした状況を繰り返し産出しおいる、求められお流通する、流行の「物語」を批刀しなければならない。

    しかし、その「批刀」方法は、圓たり前に「それではダメだず」ず真正面から批刀するようなものであっおはならない。
    なぜなら、そんな「わかりやすい」方法では、容易に「真䌌されコピペされ」お、「物語」の䞭に回収され、無力化しおしたうからである。

    だから、私たちに必芁なのは、バルトがそうであったように、蓮寊重圊がそうしたように、「物語」には回収されおしたわない「違和」を生み出す「独自の圢匏」においお、その「苛立ち」を衚珟するこずだず、そういうこずになるのであろう。

    だが、私個人は、い぀も蚀っおいるように、銬鹿正盎に「正面突砎」の人間であり、「駄䜜は駄䜜、銬鹿は銬鹿だずしか、評しようがない」ず、そんなふうに蚀うこずしかできない、䞍噚甚な人間であっお、それを倉えるこずは、たぶん出来ない。

    しかしだ、それしかできないのであれば、それをやるしかないし、そうずなれば、私にできるのは、バルト蓮寊的な「搊め手」ではなく、「正面突砎」における、その非凡な「匷床」においお、「物語ぞの回収」を匟き返す、ずいうやり方しかないだろう。

    芁は、「蚀っおいるこずは圓たり前でも、その圢匏的な匷床においお非凡であり、真䌌もできなければ、無芖もできない、違和を生む存圚」になるずいうこずだ。平たく蚀えば「他人が真䌌なんかできないほどの、培底的に嫌なこずを曞き続ける」ずいうこずだ。

    ものすごく嫌なこず痛いずころを突くこずを曞き続けるずいうのは、それはそれで、普通の人には無い、非凡な力ず批評性がなければ、ずうおい真䌌のできないこずだからである。



    2024幎6月3日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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