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無道無乃①




    無道無乃(一)


    「雇ったのは、早計だったかな……」
     のんびりと、騾馬らばの背に揺られながら無乃ウーナイは柳眉をくもらせた。
    「翠花百雷すいかひゃくらいにつく頃には、すっかり冬になっているかもしれないね」
     半日かけてようやくモグラの穴をこえた汗だくの騾馬を労いつつ、目の下のほくろに哀愁を漂わせる。澄んだ瞳の美男、無乃ウーナイであった。

     もう何日も遠回りをさせられていることを、無乃ウーナイが知らないはずもない。夏霞にけぶる名山、百花山ひゃっかざんは黛色に黒々と豊かに横たわったまま一向に近づいてこないのだから。
     案内を頼んだ担ぎ夫の羊群ヤンチュンという小男は聞くところによると、その山向こうの翠花百雷の生まれだというが……

     心のとろけるような美しい顔に悩ましげな息を吐く。もしかして、道をしらないのではないだろうね。もしそうなら、弱ったな。方向音痴な者同士でいたってどこにもたどり着けない。
     その間羊群ヤンチュンも浮かない顔をして思い詰めたように一人ぶつぶつとつぶやき続けていた。

     爽やかな風に袖をおどらせ、青々と茂る草原を行ったり来たり。困るのは、突然の雨に降られても羊群ヤンチュンが歩き続けることだろうか。
     鼻息を荒げた騾馬が干し草を背負ったこの小男を、無乃ウーナイが止めるのも聞かず追いかけ回してしまうのだから、おかげで跨がっている無乃ウーナイまでぐっしょりと全身ずぶ濡れになってしまう。

     細い葉っぱを手慰みにして、騾馬のとろとろとした歩みに眠気を覚えはじめたとき、羊群ヤンチュンが突然、疲労の色の浮かぶ顔をくるりと向けてようやくまともに口を利いた。
    「翠花百雷には、何をしに行かれるのですか?」
     ため息交じりの力ない声に、無乃ウーナイはにこやかに首をかしげる。
    「私邸に招いてもてなすというので、花苑を見に行こうと思ってね」

     翠花百雷の宿駅の長から、是非貴殿にも来ていただきたいと言葉をもらったのは二年も前のこと。きまった住処を持たず、根無し草のようにあちこち歩いてまわる無乃ウーナイに二通目の手紙があっても届くことはほとんどないのだから、今更訪ねに行ったりして怒られないだろうか。手紙の主も健在であれば喜ばしいのだが。そんな不安もいくらかあって、無乃ウーナイは困ったようにくたりと笑った。
    「私に手紙をだしたこと、覚えてくれていると良いんだが……」
     すると羊群ヤンチュンは青黒い顔をますます憂鬱にさせた。

    「ある長者が、手段を選ばず医者を呼びよせたと聞きました。しかもその医者は患者の顔と脈をみただけでどんな病でもなおすというではありませんか。もしかすると、あなたがその、無乃ウーナイなのではないですか?」
     気ままに歩く旅行者の無乃ウーナイは、薄汚れた灰色っぽい桜色の長衣を身に纏っている。ゆるく括った頭髪は医者と言えば医者らしいが、あまりにも歳が若すぎる。半信半疑の羊群ヤンチュンが、それでもこの男は噂の無乃ウーナイに違いないと思い込んだのは、ただ特徴的な目元のほくろだけである。

     無乃ウーナイは優しく微笑んだ。あまり期待されてもがっかりさせてしまうだけだということを、この二年ほどの旅で十分に思い知っていた。
    「なんでも治せる医者がいれば、今頃病で苦しむ人などいないだろうね」
     いかがわしい主座の無乃ウーナイは門を追われたのだよと無乃ウーナイは穏やかに微笑んでいう。

     羊群ヤンチュンはひどく残念そうな顔をした。金を無心するような暴虐な医者でない事は確かだ。それにこの若者は自らの立場を弁え、それを恥ずかしげもなく言ってのけるのだから、ますますどんな病でも治すというあの無乃に違いない。だからこそ、羊群は心を痛めた。
    「旦那様、あなたは、無乃ウーナイなんでしょう。従者もつけず、痩せた騾馬で旅をするような人など他にいません。この際あなたが無乃ウーナイでなくてもい。私はずっと無乃ウーナイを探していたんです」
    「探していた?」
     戸惑いを押し隠してにこりと微笑む無乃ウーナイに、羊群ヤンチュンはいよいよ覚悟を決めたようだった。顎を突き出し、細い足に体重をのせ、老人のように丸まった身体でのっそりと大股に歩きだす。

    「この先に……」と指をさす彼は何かやましいことがあって無乃ウーナイの顔が見られないようだ。
    「この先に舟がとまっているんです。翠花百雷に行くなら、その舟に乗って頂かないと困ります……」
     意を決して彼はそう告げた。指の示すその場所は霞に覆われて何があるのかさっぱり見えない。突然元気よく歩き始めた羊群ヤンチュンに騾馬が勢いよく引っ張られていく。ふすふすと興奮する騾馬を落ち着かせながら無乃は内心焦りはじめていた。

    「その舟の主に、私を連れてくるように脅されているのかな?」
    「何人もの医者が治療を試みましたが、誰も治せないんです。私もただ、あなたを連れてくるように言われているだけで……」
    「まさか、私にその病を治せというのではないだろうね?」
     医者にしては消極的なものいいに、羊群ヤンチュンがちらりと疑わしげに無乃をみた。
    「人助けですよ、旦那様。これでも私は顔が利くんです。とびきり贅沢な客室を用意させますから」

     浮かない顔で呟いたきり羊群ヤンチュンは再び無乃ウーナイの問いかけにほとんど何も答えず黙り込んでしまった。
     人助けと言われてしまえば、断るのもしのびない。
     瞳に悲哀の色を深め、遠い旅路を眺める無乃ウーナイはおっとりと息を吐く。
     また、翠花百雷への道が遠のいてしまった。
    「羊群ヤンチュン、騾馬に頭を囓られたら、言ってくれ」

     たどりつくのは一体、何年後だろうか? きっと手紙の主は首を長くのばして到着を待っているに違いない。もしくは、手紙を出したことさえとっくに忘れてしまっただろうか。
     そんな風に無乃ウーナイは山の端に消えかかる夕日をぼんやりと見つめていた。


       ――――――――――

     悪逆無道あくぎゃくむどうの極悪人、晩景門ばんけいもんの元主座、無道無乃ウータオウーナイ。それが無乃ウーナイの通り名である。
     悪事を働いたために弟子たちから一門を追い出された悪名高き師……なのだが、実際は弱々しい騾馬をひきひき、四方を訪ね歩く貧しい遊客だった。

     そんな無乃ウーナイは果歩かほという町の船着き場で船に乗り込むと、干し草をたっぷりつめこんだ籠をどさくさに紛れて盗まれ、羊群ヤンチュンに押されるままにある一室に放り込まれた。
    「我ウォ様、言われたとおり、無乃ウーナイをお連れしましたよ!」
     羊群ヤンチュンの遠ざかっていく叫び声に無乃ウーナイはしまったなと瞼を伏せる。

     騾馬の熱い吐息に蒸れた、ただの干し草だ。しかしあれがないと無乃ウーナイは困るのってしまうのだ。
     何せ、高価な荷物が何一つないにも関わらず担ぎ夫を雇うのは、すべて騾馬のためだった。あの騾馬は目の前に干し草がなければ動かない。さらには人が乗っていないとこれもまた全く歩こうとしない怠けものなので、少なくともあの騾馬を連れて歩くには、無乃ウーナイとは別にもう一人必要だった。

     目つきが悪くいつまでも売れ残っていた騾馬を、なかば主人に押しつけられるように買わされてしまったのだが、騾馬のくせに山道を嫌がり、石を踏んだだけで拗ねるようなあの馬を、私以外にかわいがってくれる人がいるだろうか……

     無乃ウーナイはしっとりと青色の息を吐く。
     たっぷりと香を焚き、金銀の上から銀朱を塗り込め、紫檀したんに大理石をはめ込んだ腰掛けと、五彩の茶壺がこれもまた精巧な紫檀の卓の上に並ぶ煌びやかな部屋の様子には、まだ少しも気づいていない。

     巨船の主、我氷津ウオピンチンの部屋だ。
    「どんな病でも治すという、あの晩景門の無道無乃ウータオウーナイか……?」
     我氷津ウオピンチンは突然部屋の中に転がり込んできた青年に呆気にとられた。悪事の限りをつくした主座。一門を震撼させた大事件の首謀者ともいわれるのだから、相当な手練れと身構えていたのだが、それとは無縁のおっとりと笑みを漂わせる美貌の青年に、束の間、医者のいの字も知らなさそうだと大いに面食らった。

     無道無乃ウータオウーナイといえば、花柳街を席巻した名妓の逸話が有名だろう。どこからかさっと現れた彼が、手立てを尽くして治療にあたった医者を差し置き、美声を失った彼女を再び歌わせたのだから。
     さらには暴君として有名な男に対して一人で事に当たり、無乃ウーナイが帰る頃にはすっかり人が変わったように大人しくなったという。
     その無乃ウーナイは今、美しい薄絹が霧のようにゆれる部屋の奥を見つめていた。

     男の影が二つ、波を打っていた。一つは寝椅子にゆったりと腰をかける大柄な男。我氷津ウオピンチンのものだ。
     もう一つは、窓の前で静かに腕を組んだ若い男。野生的な身体を大胆にもたせかけ、薄絹越しに鋭い視線を投げかけている。無乃ウーナイはその眼差しに応じるようにまっすぐ彼を見つめていた。
     すると寝椅子の男、我氷津ウオピンチンが落胆を誤魔化すように咳払いをした。

    「私が我氷津ウオピンチンだ。この舟の主で、羊群ヤンチュンにあなたを連れてこさせたのは、私だ」
     舟はゆっくりと動き出している。無乃ウーナイは素早く湖岸に視線を走らせた。巨船の周囲には何艘もの護衛船が付き従い、その警戒の強さにはただならぬ気配がある。きつく両手を握り締めながら、水の上では逃げ場がないことを悟ると眉目にその困惑が浮かんだ。
    「私を閉じ込めるつもりか……?」

    「何人もの医者を呼びつけたが、揃って匙を投げ出され、ついには原因も分からず奇病扱い。ひいては、貴殿には姪の病を完治させるまでここにいてもらいたい。船代は治療費にかえよう。もし協力してくれるのなら、舟に滞在中は個室を使ってくれ」
     我氷津ウオピンチンがすまなそうな声で言う。
     けれど名だたる医者にも治せない奇病を、貧乏な遊客の無乃ウーナイに治せるはずがない。

     穏やかな顔で我氷津ウオピンチンを見つめ、無乃ウーナイは心の内で息を吐いた。
    「羊群ヤンチュンを脅し、私のことも脅すとは……。どんなに金があろうと、人にものを頼む態度というものがあるはずですが、あなたはそれをお忘れのようだ」
     我氷津ウオピンチンははたと、言葉を失った。何を言われたのか咄嗟には理解できない。そんな顔をして無乃を見る。
    「依頼を断るというのか?」

     有名な医者をかき集めても治せなかった巨船の主、我氷津ウオピンチンの姪の病。それを完治させたと風聞が広まれば、いっそう医者としての箔がつくだろう。そういう野心の強い医者ばかりが挙って乗り気だったのに比べ、この若者のやる気のなさといったら。いくら悪逆無道とはいえ、各地から呼び寄せた医者は行方をくらましてしまったし、我氷津ウオピンチンもこのうさんくさい医者に頼る他なかった。その焦りと、怒りである。

     わなわなと握り締めた拳を卓の上にドンと殴りつけて声高に言い放った。
    「うだつの上がらないお前の様な貧乏な医者に、患者を用意させているのはこちらだぞ。折角機会を与えてやっているのに、さすがは悪逆無道の無乃ウーナイか! 何が欲しい、いってみろ!」
     声色に怒気を強め唾を散らす我氷津ウオピンチンに無乃ウーナイはやんわりと瞼を伏せる。
    「あなたに私の欲しいものが用意できるとは思えません。それにもし本当に奇病なら、私に手の施しようはない」

    「羅冴流ルオフーリウ――!」
     我氷津ウオピンチンはまるで叱り飛ばすように傍の男を呼びつけた。
    「無乃ウーナイ殿を、青菊チンチュイのところへ案内してやれ!」
     有無をいわせない強い声に、窓に寄りかかって腕を組んでいた男が、ゆったりと息を吐きこぼす。

    「了解――」
     どこか気怠そうに返事を寄越す掠れた声は、今し方目が覚めたかのように甘い。薄絹を割る指先から獣のようにしなやかな身体が姿を見せる。日射しにやけた逞しい身体に潮風をまとわせる彼は、戸惑う無乃ウーナイの手を優しくとりあげた。無乃ウーナイはそのまま男に導かれ、部屋の外へと連れ出されていく。


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    投稿サイトでBL小説をコソコソ書いている者です。 耽美の気配に強く惹かれます。 仁王像がすき。伯父甥のままならない関係も好きです。 幻想、水墨画、古風、漢詩もすき。

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