
無道無乃⑧
金露を宿す(一)
綾風渚は緑紅の鮮やかな河畔に臨み、雅致清幽にしとむ水郷の景勝地である。
濡れたような黒い瓦屋根の間を入り組んだ水路が走り、荷を積んだ舟がひっきりなしに行き交う様子を水辺の店の窓から眺めていた無乃は、鶏卵の炒めご飯とスープをお腹いっぱいに食べ終わったばかりだった。
「ところで、青菊という少女を知っているかな」
太陽はまだ低いところにあって、町の入り口付近に宿屋も兼ねた飯店には客入りもそれほど多くはない。暇そうな給仕をひきとめ無乃はにこやかにたずねる。
すると彼は一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「青菊だよ」とぼんやりと突っ立つ彼に重ねて問うと、給仕は思い出したように「ああ、青菊か」と頷いて、少し戸惑い気味に「こちらへ」と無乃を連れて行った。
たっぷりと陽ざしのあふれる明るい中庭を通り抜け、店の奥へ。吹き抜けの階段に葉桜を模した手すりが、上へ上へと枝を伸ばすようだった。
美しい窓の向こうに、まっ白な砂浜の一景を縁取るかのように松の枝がさしかかっている。出航したばかりの船が白い波の泡を置き去りにして汀線は青くゆらいでいた。
無乃は少しの間立ち止まって、葦や水草に覆われた湖岸を見つめていた。
給仕が少し先を行ったところから無乃を呼び寄せる。
案内されたのは簾が涼しげな部屋だった。
香炉からゆったりと白い渦がたちのぼり、軒先の風鐸がその煙りの中で静かに揺れて、のどかな初夏の光りに部屋は満ちている。
「お客さん、お連れしましたよ」
給仕が部屋の奥に向かって声をかけると、無乃に会釈して戻っていってしまう。
にこにこと愛想よく立ち去っていく給仕に気落ちした。
どうやら、手違いがあったようだ。青菊はここにはいない。
溢れんばかりの陽光の下で湖水は輝き、まるで金粉を散らしたような水面を碧い風が吹きさらうと、簾と房飾りを音もなく揺らした。
無乃は部屋に通されたわけを考えていた。
お連れしましたよ、とはどういうことだろうか? 誰かが青菊を餌にして無乃を待っていたのだろうか。給仕には「知っているか?」と聞いただけで、青菊の元に連れて行けとは言わなかったのに、なぜこの部屋に通したのだろう。
それに、あの男……
うろうろと悩ましく部屋の中を歩き回っていた無乃は寝台の前でぴたりと足をとめる。
「一体誰だ?」
胸をゆったりと上下させた素っ裸の男が、手足を投げ出して横たわっていたのだ。
逞しい筋肉の狭間やそのかげりに、鱗を擦り合わせ、太くむち打つ蛇が艶やかに這い回っている。三匹の蛇を絡ませた刺青だった。この男が青菊を探しているのだろうか?
けれど少しも目を覚ます様子がない。
男の顔をよく見ようとして無乃はそっと寝台に手をつく。膝を乗せて身をのりだすと、ギッと軋んだ。
体つきは武術の達人を思わせる逞しさで、無乃の倍ほどはありそうだ。息をひそめ、無防備に寝顔を晒す男の顔を、首筋から辿っていく。
なめらかな額にはりつく髪をそっと払ってやろうとしたときだった。その腕が突然、力強く引き掴まれ、呆気なく視界がぐるりと回転する。無乃の身体は気づくと敷布に縫い付けられ、「あっ、」と目の焦点が合ったその瞬間、細い首筋を捉える男の指が喉に食い込んだ。と、すぐさま剣を探る男の指が布の上を滑っていく。
無乃はその顔に目を見開いた。
「……羅冴流」
眼光に鋭い殺気を孕み、きつく首を絞めていた男が無乃の息遣いにハッと青ざめて手を離す。
「すまない、君か。誰か分からなかった」
勢いよく咳き込む無乃はゆるく頭を振りつつ、どきどきと激しい胸をおさえる。
「いや、私こそ。寝込みを襲ってしまったようだ」
「痣が――」
羅冴流がためらいがちに触れ、唾を飲み下す無乃の喉を包み込む。
まるで柔い花房にでも触るようだ。そのこそばゆさに、無乃は手を押し戻しながら微笑んだ。
「驚かせてしまったのは、私だ。すまない」
軽率だった。
近くに剣がなくて幸いだったのは、こちらの方だ。もしかしたら頭から強烈な一太刀を浴びせられていたかもしれない。ぐっすり眠っていると思っても、これからは気をつけるべきだ。
束の間、恐怖に包まれた無乃の鼓動は未だに早鐘を打っていた。それを知られまいと瞼を伏せる。
その一方で羅冴流は混乱の最中にあるらしい。熱い吐息を苦しげにこぼし続けている。無乃がちらりと目を上げると、息を荒げた口元を拭って弾かれたように顔を背けてしまった。
その挙動に無乃は困惑する。上半身を持ち上げながら、大変そうだなと羅冴流に柔らかく微笑んだ。
「いつまで、私の上にいるつもりだ?」
ぬたくるなめらかな蛇が羅冴流の身体をしめつけている。鱗の一枚一枚までもが艶を帯び、羅冴流の呼吸や筋肉のうねりにまるで生きているようだった。生々しい蛇が首をもたげて今に飛びかかってくるのではないかと、一瞬ドキリと心臓が跳ね上がる。
その蛇の頭はどこにあるのだろう。分厚い胸や太股、くびれた腰にぐるりと巻き付く蛇の首は下腹へおりていき、そして無乃は気づいてしまう。茂みの中に頭は消えている。そっと静かに目を見開き、羅冴流に悟られないうちに視線を逸らす。
「目のやり場に困ってしまうから、服を着てもらってもいいかな、羅冴流。それと、早くどいてくれるかい?」
無乃はいいながら、指に触れている肌触りの良い絹をすべすべと無意識にさすっていた。おや? と返事のない羅冴流に目を上げる。
「羅冴流?」
「君が、下に敷いている」
困ったように眉を下げ、優しい目をしていうので、無乃は照れながら腰の下からそれを引っ張り出した。
寸法の大きい、尻の下に敷かれて温もりのあたたかな衣服が指の先に引っかかっていた。
「そのようだ……」