メインコンテンツへスキップ
見出し画像

無道無乃⑤




    無道無乃(五)


     もやのかかった川の上を、豪華な二階建ての遊覧船がゆっくりと進んでいく。
     ほのかな月明かりに照らされたみずけむりは灰色の襞ひだをうち、虫の音も漁いさり火もどこか白っぽい夜。切り立つ岸壁の間を舟の重たげな軋みだけが響いていた。

     夜半すぎ。
     巨船に従う護衛船がにわかに騒がしくなった。松明を船縁に集め、黒々とした波の下を慌ただしく照らしている。
     浅瀬に乗り上げたのだと思われた。そのため若者が飛び込んで船底を確認しているが、座礁しているわけではない。けれど確かに何か硬いものに乗り上げたような激しい揺れを、乗組員全員が感じ取っていた。

     薄気味悪さを感じながらも夜闇の景色はかすみがかかっていき、次第に瞼が重くおりてくる。水夫たちはその違和感の中、必死に眠気をこらえた。その夢が見せた幻だと最初は思ったのだ。思いがけなく、一面の水面を紅が染め出したのだから。

     柳を揺らす微風びふうに運ばれて、川岸から子守歌が聞こえてくる。悲痛な女の声である。その歌声の正体がわかる頃には、護衛船も巨船も、船の中の人々は皆、深く眠り込んでいるのであった。

       ----------------

     いくつもの小舟が怪しげな歌声とともに巨船を取り囲んでいく。
     屋根にかけた筵むしろの下から、顔を覆った男たちが這いだし、巨船に縄をかけてのぼり始めた。
     その最中、寝静まった二階の一室では、細い木枠のガラス戸が、風もないのに錆び付いた音を立ててふと、ひとりでに開いた。

     たっぷりと満ちた香炉の煙りがその瞬間ふわりと溢れ、戸を押した白い指先に絡んでいく。蜜の滴るような甘い香りが、忍び込む男の身体を拭った。
     夜の深い影に細身をひそませ、僅かな水音と鈍い月明かりを頼りに、彼は部屋の奥までふらふらと近づいていく。

     紗に、一糸まとわぬ人影がぼうっと浮かんでいる。
     なだらかな身体は淡い月光を受けて乳白色をおび、分厚い胴回りや太股の引きしまった輪郭が浮かび上がっていた。それを素早く目にした彼は、声をかけるよりも先に、さっと紗をまくりあげた。

    「誰――!」
     ほとんど同時に、中の人物が掠れた悲鳴を上げ、無意識に下を隠す。
    「私、無乃ウーナイだ」
     それを見つめながら、侵入者、無乃ウーナイはにこりと微笑んだ。
     青ざめた顔で振り向く人物は湯浴みをしていた青菊チンチュイだった。

     青白い静脈を走らせる胸元を晒したまま、筒袋を引き寄せようと手を伸ばす。それをすかさず無乃ウーナイは蹴り飛ばし、青菊チンチュイの伸ばした左手を軽く叩いた。
    「君の利き手は、どうやら右手らしいね」
     青菊チンチュイが無乃ウーナイを睨み付けていた。冷え切った身体を抱きしめながらよろよろと壁際にもたれかかり、そこでようやくハッとした顔で胸元を押さえる。けれど彼女の秘密を見てしまった無乃ウーナイにはもう遅い。

     口元に笑みを浮かべて無乃ウーナイははっきりと言った。
    「君が、男だというのは、紛れもない事実だ」
     青菊チンチュイの首筋から冷や汗が伝っていく。その先にはあるはずの豊かな膨らみはない。筋肉質な身体と広い肩幅を誤魔化せるはずもなく、観念したように息を吐く。その様子に、「やはり」と無乃ウーナイは瞼を伏せた。

     青菊チンチュイは今更前を隠すことも馬鹿らしくなったようだ。挑発的に頬を持ち上げ、無乃ウーナイの華奢な体つきをじろじろと眺めた。
     部屋の中には無乃ウーナイの他に気配はない。最近雇われたあの男がいてはいろいろ面倒だと様子をみていたが、それも余計な心配だったようだ。乗り込んできたのが無乃ウーナイ一人だけなら、何を手こずる必要がある。そう値踏みしたらしい。

    「俺様が、鬱陶しい医者たちをどう追い払ってきたと思う?」
     細い眉を不機嫌にひそめる青菊チンチュイに、無乃ウーナイはおかしそうに笑った。
    「私のことも湖に捨てるのか? 君は人に正体を知られるのが、よほどまずいようだね」
    「なあ、聞かせてくれよ。いつから俺が男だと気づいていたんだ?」

     衣架けから無造作に白布を引っ手繰りながら、無乃ウーナイが正体を見破った慧眼に興味があった。
     わざわざ説明するほどのこともないのだけれど、と無乃ウーナイは柔らかな微笑を返す。
    「もちろん、聞かせてあげるとも。大体は病に罹ると気は落ち込むものだし、仮病なら尚更大げさに悪病ぶるものだけど、君は全て逆だ。私が来て迷惑そうにしていたし、悩みがある様子もなかった。それに、君は私に、身体を見せたがらなかった」

    「あんたの前じゃ、どんな婦人も身体を見せたがるわけだ?」
     青菊チンチュイはしかめっ面をして、婦人の押し寄せたあの触診の大騒ぎを思い出すと、またひどく顔をしかめた。
    「ってことは……、」
     思案顔で小さく呟き、舐めるように無乃ウーナイの顔をじろじろと見た。

    「あんたは最初から、俺が男だと知りつつあちこち触ったわけだ? 腕だけじゃなく、……ここも……変態なんだ? あんた」
     すぅっ、と青菊チンチュイの指先が腰を辿る。
     その冷ややかな笑みと予期しない罵倒に無乃ウーナイは悩ましげに眉を寄せた。
    「……変態?」

    「俺の身体を満喫して、随分楽しんでいたみたいだけど?」
    「まさか。本当に病なら見過ごすわけにはいかない。けれど食べ過ぎてパンパンになったお腹に興味はないよ」
    「それじゃあ、あんたの興味のある病についてきかせてよ」
     青菊チンチュイは前を開けさせたまま無乃ウーナイの傍までやってくる。後退る無乃ウーナイを壁まで追い詰めて、鈍い色の瞳をにこりと細めた。

    「天下一の医者、なんだろ? 俺の病は奇病か?」
     自分の方が詳しいだろうに。無乃ウーナイは呆れて息を吐く。
    「鮮杏シェンシンさんの物忘れを吹聴したのは君だろう。彼女は確かに年だが、立ち振る舞いは確りしていて、記憶に自信がない人にはみえなかった。それにこの船では日に日に食べ物が減っていくらしい。消化しきれないほどの食べ物を詰め込んで、君は病を装っていたのかな」

     まだ大きく膨れている腹部に視線を落とす。
     楽しげに青菊チンチュイが先を促した。
    「どうしてそんな事をしていたと思う?」
    「婚約したことを知らなかったんだろう。こうでもしないと、男の元に嫁がされるうえに、女でないことがばれてしまうからね」

    「ご明察。俺を完治させるって? 病でもないのに、どうやって?」
    「仮病はそこが難しいんだ。だから、本物の青菊(チンチュイ)をこの舟に連れ戻そうと思うんだけど、彼女がどこにいるか、教えてくれ」
     男は濡れた身体に衣服を身につけていく。素足に深靴を履き、慣れた手つきで素早く革帯をしめる。髪を高く結い上げると筒袋を手にして満足そうに頷いた。

    「あんたは我氷津ウオピンチンに脅されている身だ。もし青菊チンチュイがこの船にいないと感づいたら、あんたを責めるかもな」
     無乃ウーナイはおっとりと微笑んだ。
    「それは、どうだろうね」


    >> 6話

     
     
     
    投稿サイトでBL小説をコソコソ書いている者です。 耽美の気配に強く惹かれます。 仁王像がすき。伯父甥のままならない関係も好きです。 幻想、水墨画、古風、漢詩もすき。

    あなたへのおすすめ