
無道無乃③
無道無乃(三)
一夜明け、舟に積み込まれた家鴨の燻製や漬物、棗と桃の砂糖漬けの京果が日に日に大きく減っていくらしい。さらには干し草を背負った黒い人影が夜な夜な寂しげな声で徘徊しているという。
青菊の部屋へ向かう途中、薄らと漏れ聞こえてくる話声に、無乃は苦く笑った。
干し草を背負った人影?
羊群のことではないか。
金文紗の衣を羽織った青菊の腕を取りながら、無乃はようやく気づく。
当の青菊は腰掛けの端で憂鬱に項垂れていた。
明日と約束しておきながら、最初から素直だったわけではない。
部屋から出てこない青菊をのんびりと待っていると、どこからか美貌の青年が触診するという噂を聞きつけた婦人たちがわっと押しよせた。
無乃は押されるままに顔色の良い婦人たちを一人ずつ部屋の中に招き入れては、「さあ、悪いところをみせてごらん」とその気になってのんびり話をはじめる。
そして悪逆無道の無乃だと知ると、彼女たちは青ざめるどころかますます熱狂的になり、悪事を期待して身体をさらけ出し、部屋の中も外も黄色い声が飛びかって大変な騒がしさだった。
そのおぞましさに青菊は肌を粟立て、鳥のように囀る婦人たちに辟易した。部屋の静寂を取り戻すためにも、おとなしく無乃に従っただけなのだ。
刺繍入りの肚裙ごしに、無乃が手を触れた。風船のように膨れ上がったお腹を撫でつつ小首をかしげる。
そもそもこの身体で妊娠はあり得ない。他に悪いところはなさそうだけれど……
思いつく限りの病名を必死に頭に思い浮かべては、思案顔で青菊の腹を撫でさする。その手つきに思わず身体を震わせた青菊が罵らんばかりにぎろりと睨むので、無乃はいたたまれない気持ちになった。
「もう結構でしょ! 鮮杏、見送っておやり!」
強張った顔でぴしゃりと言いつけ、青菊が憮然と立ち上がる。睨み下ろすその足元では、無乃が彼女の怒りをものともせず、医者らしく毅然と振る舞った。
「どうやら、お通じがよくないのかな。身体を温めてよく水分を取り、食べ過ぎには気をつけるように。もう少し様子をみてみないとなんともいえないけれど、明日も腫れが引かないようならもう一度見せてもらってもいいかな」
瞼を伏せ、ゆったりと告げる無乃はにこやかな鮮杏に戸口まで見送られながら、食べ物はあれを、薬はこれをとつくづくと言いつけ、「よろしいかな?」と振り向く頃には、鮮杏も青菊もそこにはいなかった。明るい日射しがたっぷりと頭上にふりそそぐ通路に一人、無乃は空に向かって語りかけていた。
冷たい海風が頬を撫でていく。まっ白な帆がその風を受けて抜けるような空の下で無乃を優しく見おろしていた。
「完治か……」
もしかしたら難しいかもしれないと無乃は息を吐いた。
騾馬の顔をぼんやりとなでる傍で、髪の毛をひもじそうに食べられている事にも気づかずに小さく唸った。
それにしても、女性にはあまり嫌がられたことがない。けれどどうやら青菊には嫌われているようだ。患者と医者は信頼関係が大切なのだから、これでは少しやりにくい。
ふっと息をつくと、身軽な羅冴流が帆柱からするりとおりて、屋根の上を飛ぶように渡ってすぐ傍まで駆け寄ってきていた。
無乃はまだそれに気づかず、風を孕む帆の下に翻った船主の家紋や、複雑な紋様を浮き出したいくつもの旗を眺めていた。
旗の房が煙のように美しくなびく波風の中、羅冴流は白んだ青空を背負い、若盛りの身体をぐっと屈ませて無乃のすぐ頭上に身を乗り出した。
「さすがの君でも、お手上げか」
眩しく微笑む羅冴流に、「やあ」と無乃も目を細める。
「羅冴流、そこで何をしている?」
「花巻をもらってきた。一緒にどうだ?」
羅冴流は無乃に提籃を掲げて見せる。軽食を持ってきてくれたらしい。
返事を待たずに黒い豹のようにしなやかに降り立つと羅冴流は提籃を覗く無乃の目の前で蓋を開けた。途端、ふきだす湯気が目の前にもくもくとたちのぼり、優しい香りが顔のあたりを包み込む。平気な顔をしながら無乃は唾をごくりと飲み込んだ。
「とくに好物というわけではないけれど……、君に話があったから、丁度よかった」
にこりと微笑む無乃に羅冴流もにこりと微笑んだ。
ふかした饅頭を見た無乃の目が一瞬輝いたのを羅冴流は見逃さなかった。屈めていた身体を大きく伸ばし、提籃に齧り付く無乃を伴って二人は歩き出した。