
無道無乃⑱
月の戯れ(一)
「あれが晩景門の主座? ……羅冴流、ついに頭がおかしくなったか?」
月影が碧く水面に溶けてゆく澄みきった夜。静寂を運ぶせせらぎに、男の影が二つ。
その静けさを踏みにじるような万紅雪の嘲笑だった。
「あんたらしくない」
「化けの皮なら、すぐに剥いでやれる」
嘲りを受けて重く息を吐くのは羅冴流だ。自分でさえこの状況がうまく説明できないでいた。なぜだかあの男を目の前にすると問い詰めてやろうという気持ちが凋んでしまうのだから。我ながらこれほど手ぬるい覚悟だったとは思いもしない。
それを、万紅雪は退屈そうに湖上の舟の灯りを眺めながら鼻を鳴らした。
「本人は否定も肯定もしていないんだろ?」
我氷津の護衛、羅冴流という人物の正体を、巨船から脱出した後に知った万紅雪だった。
巨船を取り囲んだ盗賊団の中に仲間の舟を紛れ込ませ、うまいこと逃げたと思った彼は全身濡れそぼった羅冴流が無乃を抱えてにっこりと舟の上に上がってきたのだから驚いた。そのときの背筋の冷える恐怖を思い出してぶるりと震える。
「得意の尋問で暴けば良い」
どこか棘のある言い方に羅冴流が蔑んだ目を万紅雪に向けた。
「暴くどころか、もっと聞けとばかりに……」
冷静に返す羅冴流だが、重ねた手を絡ませて深く握りかえしたあの悩ましい無乃の気配を思い出すと、一瞬、塗り固めていた強面にかすかな罅が入るようだった。逆にこちらの本心を探ろうとした人間は無乃がはじめてのことで、それをわざわざ万紅雪に言ってやる必要もないことに気がついて口を閉ざす。
彼が晩景門の主座なら尋問を嫌がるはず。もしくはもっと動揺を見せるべきなのだ。やはり別人。しかし晩景門の主座と同じ目元のほくろが彼にもある。わざわざ悪名高い無道無乃になりすます酔狂な人間などいるはずもない。彼が自分で描いたのだとすれば、それこそなぜなりすます必要があるのだろうか。
「それにしちゃ、随分親しげだったな」
万紅雪のどうでもよさそうな声だった。
「あんな男に人殺しなんてできそうにないぜ」
羅冴流にも分かっている。だからこそ不思議でたまらない。
裏の顔を隠すのに相当手慣れた人物だとでもいうのだろうか。
今まで何人もの相手を尋問にかけてきた羅冴流でさえ見抜けないほど。悪逆無道の片鱗さえ見せないのだから。
「奇秀の名前をだしても平然として全く反応がない。今まで一度も聞いたことがないなんて顔を。……逆に怪しい。偽皇子騒動で、奇秀なんて名前は天下に知れ渡っている」
「……思い出したくもない」
苦々しく唇をかみしめる万紅雪に、羅冴流も嫌な思い出が瞼の裏に蘇る。
十年前、翠致幇の首魁が討伐されるきっかけにもなった、奇秀の偽皇子騒動だ。十歳の少年が国家の転覆を企んだのだといわれている。前王朝のたった一人の生き残り、奇秀の名前を騙った悪童が主犯とされた。
なのだから、やはり無乃が地面に埋まって耳を塞いでいない限り、奇秀という名前を知らないはずがない。
無乃が根っからの悪であれば、幇社会で育ってきた羅冴流に見抜けないわけもないのだが……
羅冴流は堂々巡りに頭を悩ませた。悪人の面構えとまとう独特な空気感はどれほど清流をきどっていてもにじみ出るものなのだから。
「それならさっさと首を掻き斬れよ。こっちは奇秀を探すのに手一杯なんだ。あんたが荷華幇の幇主じゃなきゃ、あんな馬鹿みたいな真似……」
万紅雪が短気を起こした。青菊の変装、しかも女の格好をさせられた恨みのほとぼりは少しも冷めていない。そのキリキリとした怒りを羅冴流はさらりと受け流す。
「もう少し、彼を探る」
勝手にしてくれと万紅雪は投げやりに身を翻す。と、意地悪なことを言いたい気分だったのを思い出した。女装をさせた恨みをここでささやかに晴らそうと、万紅雪はにやりと笑った。
「無乃先生の指に、あんたの指輪がはまってた。復讐相手だろ? 全身全霊で守ってやるつもりかよ」
冷ややかな笑みを浮かべる万紅雪を羅冴流は少しも目にかけるどころか、その挑発にさえ興味を示さない。不発に終わる万紅雪はぎりぎりと悔しく奥歯を食いしばり、煮えくり返っている腹の中がさらに沸々とするのだった。
「機会を他人に奪われたくはない」
偽善者ぶった爽やかな笑みを浮かべる羅冴流に万紅雪は一瞬「は……?」と寒気を覚える。と同時に戸惑う。
自分の手で始末したいということだろうか。
だとしても、恨んでいる相手を守るというのは相反する行為ではないか?
長年晩景門の主座を追っていることだけあって、やはり羅冴流は倒錯している。悲願の達成を目的にしすぎるとこの男のように訳の分からないことをしだすのだ。こうはなりたくない。
万紅雪は自身に釘を刺すことを忘れず、少しずつ後退っていく。あまり触れない方が良さそうだとさっさとこの場を切り上げることにした。
「あんたもわからない男だ。少しの間だけだからな。見守ってやるけど、俺は首魁の命令でしか動かない。それだけは肝に銘じとけよ」
眉をひそめる万紅雪に、羅冴流はフンと乾いた笑みを送る。すでに意識は部屋でぐっすり睡っているはずの無乃に向いていた。
さて彼は今頃、水にでも浸かっているだろうか? それともとっくに切り身になっているかな。
そんなふうに悠長に無乃のもとへ帰っていく羅冴流だった。