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誘導の旗 ―ご安全に!― 第3話 視線

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門


    【目次】
    第1話 港区再開発、200台の生コン搬入
    第2話 緊急断水の修羅場 
    第3話 視線 →(本記事)
    第4話 訪問者
    第5話 接触
    第6話 現場
    第7話 再起
    第8話 選択
    第9話 祭りの雑踏、見えない波
    第10話 オレンジの規制線
    第11話 残る
    第12話 ご安全に


     朝の空はよく晴れていた。前夜の漏水現場の湿り気が、まだ肩の奥に薄く残っている気がしたが、営業所の前に立つと、空気はもう別の一日に切り替わっていた。

     小泉朔太は、反射ベストの前を留め直しながら雑居ビルの階段を上がった。昨日のような緊急出動の怒号はない。ドアの向こうから聞こえてくるのは、電話のベルとコピー機の音、それから誰かが缶コーヒーのプルタブを開ける小さな金属音だった。たったそれだけで、今日は予定された現場の日なのだとわかる。

     営業所の中では、白石玲子がデスクで伝票を仕分けていた。土門剛は新聞を半分に折ったまま、予定表の前に立っている。昨日のような臨戦態勢ではない。だが、その穏やかさが逆に、現場という仕事の大部分はこういう日常の上に成り立っているのだと朔太に感じさせた。

    「おはようございます」

     朔太が言うと、白石が顔を上げた。

    「おはようございます。今日は通常現場です」

    「通常現場」

    「言い方が変ですけど、昨日みたいに漏水とか再開発とかじゃない、いつもの現場です」

     白石は予定表を指した。

    「中野三丁目、通信管路の更新工事。片側交互通行。相方は長峰さん、全体は神代さんが見ます」

    「神代さん」

    「無駄口を叩かない方です。長峰さんは、無駄口だけは叩く方です」

    「その区別、必要ですか」

    「必要です。現場に行けばすぐわかります」

     白石は淡々と言いながら書類を一枚差し出した。配置図と簡単な注意事項が書かれている。枝道あり、歩道幅狭し、通学路注意。昨日の現場のような派手さはない。だが、その地味さがかえって嫌だった。派手な現場なら危険が見える。地味な現場ほど、油断が事故になる。

     土門が新聞から顔を上げた。

    「社長さん、今日は地味だぞ」

    「地味、ですか」

    「昨日みたいに何か起きるわけじゃない。たぶんね。で、そういう日に怪我するのがいちばん間抜けだから」

    「縁起でもないこと言わないでくださいよ」

     長峰の声だった。いつの間にか後ろに立っていた。五十代前半、日に焼けた顔に細い目、口元にはいつも少し笑っているような癖がある。制服は古いが清潔で、反射ベストの端が几帳面に揃っていた。

    「おはようございます、小泉さん。長峰です。今日はよろしく」

    「よろしくお願いします」

    「昨日の漏水、早乙女から聞いたよ。ずいぶん派手にやったらしいね」

    「派手というか、必死だっただけです」

    「最初はそれでいいんだよ。必死な人間は、まだ見込みがあるから」

     そこで長峰はふと朔太の胸元を見た。

    「ベスト、きちんと閉じてる。白石さんに仕込まれたね」

    「仕込まれた、という言い方は違う気がします」

    「だいたい同じだよ。営業所で直されたところ、現場で生きるから」

     その軽さは早乙女に似ているようで違った。早乙女が空気を軽くするために喋る人間だとすれば、長峰は無駄話に見せかけて必要なことを混ぜる人間だった。

     そのとき、背後から短い声が飛んだ。

    「出るぞ」

     神代だった。

     四十代後半くらいだろうか。背は高くないが、立っているだけで周囲の空気が少し締まる。顔立ちは地味で、声も低い。だが、その無駄のなさが目についた。ヘルメットの顎紐、手袋、無線機、誘導灯。どれも体の一部みたいに収まっている。こういう人間は、何をしても音が少ない。

     朔太は無意識に背筋を伸ばした。

         *

     現場は住宅と商店が混じる通りにあった。片側一車線ずつの生活道路で、道幅は広くない。電柱が多く、枝道がいくつも入り込んでいる。片側交互通行にするには十分に難しいが、昨日の幹線道路のような露骨な修羅場でもない。むしろ、見た目には平凡だった。

     路肩には通信会社の車両が停まり、歩道脇にはケーブルドラムと資材が並んでいる。規制帯の中では作業員がアスファルトを切り、既設管の位置を確認していた。近くの八百屋はもう店を開けており、朝の品出しの匂いが土埃と混じる。登校途中の小学生が二人、黄色い帽子のまま足を止めて工事を見ていた。

    「昨日とずいぶん違いますね」

     朔太が呟くと、長峰が頷いた。

    「こっちが普通。昨日みたいな方が珍しい」

    「でも、こっちの方が難しそうです」

    「そう思ったなら、悪くない」

     神代が配置を確認しながら言った。

    「大きい現場は、危ない場所が目立つ。小さい現場は、危なくなる場所が散ってる」

     短い言葉だったが、すっと入ってきた。

     神代は規制帯の中央寄りに立つ。いわゆる「中」を持つ位置だ。長峰が片側を受け、朔太は反対側に入る。歩行者と自転車が多いので、全体が見える位置に神代がいることの意味は、現場に立って十分もするとわかった。枝道から車が出る。配達の自転車が歩道を急ぐ。近隣住民が規制帯の切れ目を探す。どれも単独なら小さい。だが重なると厄介だ。

    「小泉さん」

     長峰が無線機の音量を調整しながら言った。

    「今日は、流すことより切らさないことを覚えて」

    「切らさない」

    「うん。車を流すのも仕事だけど、途切れさせないのも仕事。歩行者への声、枝道の確認、反対側との呼吸。そこが切れると一気にぐしゃっとなる」

     朔太は頷いた。昨日までは、止まるか動くかでしか見ていなかった。だが今日は、その間にある無数の小さな判断が、最初から現場の表に出ている。

         *

     午前のうちは、現場は穏やかに見えた。

     通勤のピークを過ぎたため車列は長く伸びない。八百屋の配達車が止まり、近くのクリーニング店の軽ワゴンが規制を見て裏道へ回る。ベビーカーを押した若い母親が足元を気にしながら歩き、小学生たちは最初こそ工事を面白がって見たが、すぐに興味を失って校門の方へ吸い込まれていく。

     その穏やかさの中でこそ、神代と長峰のうまさはよく見えた。

     長峰は車を止めるにも流すにも無駄がない。待機している運転手の表情を見て、次にどれくらい待たせるかを先に読んでいるのだろう。片側を長く止めれば、窓が開き、苛立った声が飛ぶ。短く刻みすぎれば、対向の車が詰まる。その匙加減が、喋り方の軽さに反して恐ろしく細かい。

     神代はもっと目立たない。無線で一言だけ飛ばし、規制帯の中の作業員へ手を上げ、歩道へ出かけた住民を半歩だけ誘導する。大きく動かないのに、現場の真ん中に穴が開かない。朔太は、昨日黒岩の背中を見ながら感じた「余計な動きがない」という感覚を、別の形でここでも味わっていた。

     枝道から一台の白い軽自動車が鼻先を出した。商店の仕入れだろうか、後部座席まで段ボールが積んである。朔太はそちらへ意識を向けた。その瞬間、反対側の歩道から高齢の男が杖をつきながら規制帯の切れ目に入ろうとする。

     朔太はそちらへ視線を切り、すぐにまた軽自動車へ戻した。

     神代の声が無線ではなく直接、横から飛んだ。

    「先に歩行者」

     短い。それだけだ。

     朔太は男の方へ半歩寄り、「足元段差あります」と声をかけて通した。軽自動車の運転手は待たされているが、苛立ってはいない。枝道は逃げない。だが、今ここで転ぶ足は逃げない。そういう優先順位だった。

     男が通り切ったあと、神代が軽く顎を引いた。行け、の合図だった。朔太は軽自動車へ手を出し、長峰の側とタイミングを合わせて流した。

    「今の、先に車だと思いました」

     次の間合いで朔太が言うと、神代は前を見たまま答えた。

    「車は待てる。足は待てないことがある」

     それだけだった。だが、その一言は、黒岩の「死角」と同じくらい短くて重かった。

         *

     昼前、現場の温度が少しだけ上がった。

     近所のクリニックへ向かうらしい車が増え、薬局の前に自転車が固まり始める。歩道幅が狭くなったぶん、人が譲り合えない場所も出てくる。規制帯の中では古い管路の位置が想定より深く、作業員たちの声も少し荒くなっていた。

    「中、枝道一台出る」

     長峰が無線を入れる。

    『見えてる』

     神代の返答は短い。

     そのやり取りを聞きながら、朔太は反対側の歩行者列を見ていた。自転車の若者、買い物袋を提げた女性、通学帽の子ども。そこへ宅配トラックがゆっくりと左へ膨らんでくる。

     危ない。

     そう思ったのは、神代の声が入る半秒前だった。

    「小泉、歩行者止めろ」

     朔太はすぐに一歩前へ出て、自転車の若者に手を出した。

    「少し待ってください」

     若者は不満そうに眉をひそめたが、止まった。次の瞬間、宅配トラックの後輪が想像以上に外へ振れた。もし通していれば、自転車のハンドルか、買い物袋の女性の肩をさらっていたかもしれない。

     トラックが抜けたあと、長峰が口笛の真似をした。

    「いまの、先に見えたね」

    「たまたまです」

    「みんな最初はそう言うんだよ」

     神代は何も言わなかった。だが、規制帯の中から一度だけこちらを見た。その視線に、昨日時点の朔太にはなかったものを測る気配があった。

     少しは見えるようになっている。

     自分でそう思った瞬間、逆に足元が危うくなった。見えるようになることと、任せられることは違う。そこを勘違いすると、たぶん事故になる。朔太は意識的に呼吸を整えた。

         *

     昼休憩は交代で取った。近くの公園脇に腰を下ろし、コンビニのおにぎりをかじる。昨日の漏水現場のような劇的な修羅場はない。だが、今日の疲れ方は妙に細かかった。肩だけではなく、目の奥が疲れている。視線を切るたびに神経がすり減る。

    「地味にきついでしょう」

     長峰が麦茶を飲みながら言った。

    「昨日の方が大きい音も危険も多かったのに、今日は別の疲れ方です」

    「そう。小さい現場は、小さい判断を何百回もやるからね。終わるころには、自分の頭が削れてる感じになる」

    「慣れるんですか」

    「慣れる。けど、慣れきったと思った頃が危ない」

     長峰は袋を丸め、ベンチの横のゴミ箱へ放った。きれいに入る。

    「神代さんは?」

     朔太が聞くと、長峰は笑った。

    「慣れてるよ。あの人は。でも慣れてるのに緩まないから、あの位置にいる」

     神代は少し離れた場所で、缶コーヒーを片手に現場を見ていた。休憩しているというより、視線の位置を少し下げているだけに見える。あれは性格なのか、役割なのか。たぶん両方だろう。

    「小泉さん、昨日までなら、今日の現場は退屈だと思ったんじゃない」

    「......思ったかもしれません」

    「でも実際は、こういう現場の方が人が出る。上手い人も、雑な人も、全部」

     長峰はそう言って立ち上がった。

    「さて、戻ろうか。道路はこっちの休憩に合わせてくれないから」

         *

     午後の現場は、さらに地味だった。

     車は淡々と流れ、歩行者も大きく滞らない。規制帯の中では掘削と配管確認が続き、現場監督の怒鳴り声さえ午前より少なくなっていた。こういう時間帯こそ、気が緩む。昨日なら派手な音や怒号に押されて緩む暇がなかった。今日は違う。現場が穏やかに見えるぶん、意識が外へ流れやすい。

     そのときだった。

     現場の流れがひと息ついた、その隙間だった。

     規制帯の向こう、人の流れの外側に、黒い服の男が立っていた。

     街路樹の影に半分かかる位置。年齢も顔も、距離があってはっきりしない。だが、こちらを見ていることだけはわかった。歩いていない。電話もしていない。信号待ちでもない。そこに立って、現場の喧騒だけを静かに切り離しているような不自然さがあった。

     朔太は息を止めた。

     昨日の黒いセダンが頭をよぎる。車ではない。今度は人だ。

    「小泉」

     長峰の声で、我に返る。反対側から軽トラックが来ていた。朔太は慌てて手を出し、流れを受け直した。トラックが抜ける。歩行者が二人渡る。その数秒のあいだに、もう一度視線を戻す。

     男は、まだいる。

     目を逸らさない。気のせいではない。朔太はそう確信した。

     持ち場を離れられない。確認に行けない。規制帯のこちら側にいる限り、自分は仕事を優先しなければならない。その当たり前が、初めて煩わしく感じられた。

     また車が来る。無線が鳴る。神代が規制帯の中で作業員に合図を送る。朔太は一度、意識的に男から目を切った。

     十秒もなかったはずだ。

     再び見たとき、男はいなかった。

     代わりに、少し離れたコインパーキングの出口付近に、一台の黒いセダンが停まっているのが見えた。陽を鈍く返す車体。濃い窓。昨日の現場の端にいたものと、形も大きさもよく似ている。

     人と車が、頭の中で繋がった。

     説明はない。ただ、同じ気配だと身体が判断した。

         *

     現場が終わる頃には、空の色が少しだけ柔らかくなっていた。規制は縮小され、掘削箇所の仮復旧が進む。商店街の方から夕方の買い物客が流れ始め、生活道路は工事を飲み込んだまま夕刻の顔へ移っていく。

    「今日はどうだった」

     撤収前、長峰がヘルメットを外しながら聞いた。

    「昨日より、地味にきつかったです」

    「正解」

     長峰は笑った。

    「で、昨日より少し見えたでしょ」

     朔太はすぐには答えなかった。見えた。たしかに見えた。だが、それを口にすると、その分だけ責任も増す気がした。

    「少しだけです」

    「最初はそのくらいでいい。見えた気になった人から危ないから」

     それは、昼に自分で思ったことと同じだった。

     神代が無線機を腰に戻しながら、こちらへ来た。

    「小泉」

    「はい」

    「午前の宅配、悪くなかった」

     それだけ言うと、神代はまた前を向いた。

     褒め言葉にしては短い。だが、その短さがかえって重かった。昨日の黒岩とは別の種類の承認だった。余計な飾りがないぶん、現場でしか通じない重みがある。

    「神代さん、それ褒めてます?」

     長峰が笑う。

    「褒めてる」

     神代は即答した。

    「珍しいですね」

    「珍しくない」

     そのやり取りに、朔太はほんの少しだけ口元を緩めた。笑うほどではない。だが、営業所へ入った初日のような完全な余所者でもない、という感覚があった。

         *

     営業所へ戻る車の中で、朔太は窓の外を見ていた。住宅地の夕暮れが流れていく。洗濯物を取り込む人影、学習塾の看板、自転車の高校生、信号待ちのバス。道路は相変わらず当たり前の顔をして動いている。

     その当たり前の外側に、さっきの男がいた。

     考えすぎかもしれない。現場で疲れて、ただ過敏になっているだけかもしれない。だが、昨日の黒い車、今日の黒い服の男、消えた後に残る黒いセダン。それらが一本の線で繋がっている気配だけは拭えなかった。

     それでも、誰にも言わなかった。

     白石に話したところで、気のせいだと言われるかもしれない。長峰なら冗談に変えるかもしれない。神代は「持ち場を見ろ」とだけ言う気がする。黒岩にさえ、いまはまだ言いたくなかった。何より、自分自身がまだそれを現実だと認めきれていない。

     営業所の窓に映る自分の顔を見る。初日の朝よりも疲れていて、汚れていて、そのぶんだけ現場に近づいているようにも見える。その顔の奥に、もう一つ別のものが混じっていた。

     見られているという意識だった。

     昨日はただ不気味だった。今日は、そこに誰かがいるとわかった。わかった以上、もう昨日の自分には戻れない。現場を見ながら、現場の外にも視線を割いてしまう。その変化は、仕事にとってはろくでもない。だが、人間は気づいたことをなかったことにはできない。

     ポケットの奥に、スマートフォンがある。画面には未読のメッセージが一件、積み重なっていた。昔の仕事仲間からだ。朔太はそれを開かないまま、また窓の外へ目を戻した。

     ワゴン車が営業所の前で止まる。長峰が先に降り、神代が無言で後部ドアを閉める。朔太は最後に外へ出て、階段を見上げた。

     いつもの営業所の灯りが、二階で白く点いている。

     その日常へ戻る前に、朔太は一度だけ道路の向こう側を見た。誰もいない。車もない。ただ、夕方の風に街路樹が揺れているだけだった。

     それでも彼は、そこに何かがいた時間を、もうなかったことにはできなかった。


     
     
    日本映画学校出身。劇場映画・テレビアニメの編集を経て、映像・Web・音楽をワンストップで手がけて25年。SF/ミステリー小説・脚本原案を執筆中。noteでは映像編集ノウハウと創作の記録を発信。

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