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誘導の旗 ―ご安全に!― 第8話 選択

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門


    【目次】
    第1話 港区再開発、200台の生コン搬入
    第2話 緊急断水の修羅場 
    第3話 視線 
    第4話 来訪者
    第5話 接触 
    第6話 現場
    第7話 再起
    第8話 選択 →(本記事)
    第9話 祭りの雑踏、見えない波
    第10話 オレンジの規制線
    第11話 残る
    第12話 ご安全に


     朝、営業所へ向かう途中で、朔太は自分の足取りが少しだけ重いことに気づいていた。

     眠れなかったわけではない。むしろ昨夜は、ここ数日の中ではまとまって眠れた方だった。だが、眠ったからといって頭の中が整理されるわけでもない。相沢祐介の言葉、テーブル越しに差し出された条件、三日という短い猶予。そのどれもが、朝になっても輪郭を失わずに残っている。しかも厄介なのは、それが御堂のような不穏な気配ではなく、数字と条件と現実性を伴った「まともな話」であることだった。

     六畳一間の部屋を出る前、朔太は一度だけスマートフォンの画面を見た。新しい通知はない。相沢からも、御堂からも、誰からも。静かな朝だ。だが、その静けさの中でこそ、昨夜の話が逆に生々しく立ち上がる。

     作業服に着替え、反射ベストを持つ。指先が、ほんの一瞬だけ止まる。昨日までは、この装備を手に取ることで思考が現場へ切り替わる感覚があった。今朝は、そこに「この格好をしている自分は、本当にあと何日ここにいるのか」という余計な問いが混じる。それが腹立たしかった。

     営業所へ入ると、白石玲子がすぐにこちらを見た。

    「おはようございます」

    「おはようございます」

    「今日はさらに目が遠いですね」

     挨拶の二行目でそれを言われると、もう笑うしかなかった。

    「そんなにひどいですか」

    「昨日よりはっきりしています」

     白石は書類を渡しながら続ける。

    「今日は日本橋寄りの夜間補修です。日中は短い待機、夕方から本番。相方は久我さん」

    「久我さん」

    「無駄口の少ない人です」

    「神代さんと同じですね」

    「神代さんより、もう少し乾いた人です」

     土門が予定表の前から振り返った。

    「橋の縁、擦るなよ」

    「僕がですか」

    「お前じゃなくて車だよ。でも、お前が気を抜いたら擦る」

     説明としては乱暴だが、要点はわかった。橋梁部の補修なら、幅は狭い。車体の数センチを守る現場になる。そこに判断の鈍りを持ち込めば終わりだ。

     土門は新聞を畳み、珍しく少しだけ真面目な顔で言った。

    「小泉。迷ってるなら迷ってていいけど、現場では決めろよ。止めるか流すかだけでも」

     それは気休めでも叱責でもなく、実務の話だった。朔太は小さく頷いた。

    「わかっています」

     わかっているつもりだ。問題は、その「つもり」がどこまで身体と一致しているかだった。

         *

     日中の待機は短く終わり、夕方、現場へ出た。

     日本橋寄りの高架下から川沿いへ抜ける道路。古い橋の欄干補修に伴う夜間工事で、片側一車線を絞り、中央寄りの流れを慎重に作り直す必要がある。見た目には大がかりな現場ではない。だが、橋という構造物はそれ自体が境界だ。歩道、車道、欄干、水面。逃げ場のない場所で、車を数センチ単位で通す現場は、派手な事故よりずっと神経を使う。

     現着したとき、久我がすでに規制端の確認をしていた。

     四十代後半。痩せ気味で、日焼けも薄く、声も低い。第一印象だけなら頼りなく見えなくもない。だが、立ち位置が妙に正確だった。看板の角度、コーンの間隔、歩道へ逃がす導線。手で触って直す前に、目で寸法を取っているのがわかる。

    「久我です」

    「小泉です。よろしくお願いします」

    「よろしく」

     それだけで会話は終わった。無愛想というより、必要なことしか出てこない人間だった。

     久我は規制帯の先を顎で示した。

    「今日は、幅が敵です」

    「幅」

    「運転手は前だけ見る。こっちは横も見る」

     短い説明だったが十分だった。橋の補修現場では、運転手は目の前の進路だけで精一杯になる。だが実際に危ないのは、車体の側面と欄干の距離、バックミラーの張り出し、わずかにふくらむ後輪軌道だ。前へ進めるだけでは足りない。どれだけ「擦らせないか」が、仕事になる。

     日が落ちる。道路照明と工事灯が白く橋面を照らす。川面が下で鈍く揺れ、夜の水の匂いが薄く上がってくる。昼の現場とは違う静けさがある。だが、静かなぶんだけ運転手の迷いも見えやすい。夜の道路では、ほんの数センチの圧が、すぐ恐怖に変わる。

         *

     最初の一時間は、感覚を合わせる時間だった。

     車は多くないが、途切れない。法人営業車、帰宅途中の乗用車、タクシー、配送の小型トラック。橋へ差しかかると、誰もが少しだけ速度を落とす。規制帯に入る前に、欄干とコーンの距離を目で測っているのだろう。

     久我の誘導は独特だった。大きく振らない。声も張り上げない。だが、車は迷わない。車体の先端ではなく、運転手の目線に対してちょうどいい位置へ立つ。前へ、少し右、止める、また前へ。その手の角度が細かい。

    「声、出さないんですね」

     車列が一瞬切れたとき、朔太が言うと、久我は前を見たまま答えた。

    「夜は、余計な音を増やさない方がいいことがある」

    「運転手のためですか」

    「自分のためでもあります」

     久我は淡々と続ける。

    「音で焦る人がいる。焦ったら幅を見失う」

     それは、いかにもこの現場を長くやってきた人間の言葉だった。大きな危険ではなく、小さな恐怖を読んでいる。恐怖がどこでハンドルへ伝わるかまで見ている。

     朔太はその横顔を見ながら、久我の仕事は神代とも長峰とも違うと思った。神代は全体を束ねる。長峰は呼吸で流す。久我は、運転手のために橋の幅を少しだけ広く見せる人間なのかもしれない。

     その観察が、そのまま自分の仕事へ返ってくる。

     前照灯を浴びる。運転手の顔が白く浮く。目線が右へ寄る、ハンドルが少し固い、肩が上がっている。そういう小さな緊張が、橋ではそのまま接触の予兆になる。朔太は誘導灯の先だけでなく、運転手の目元を見るようになった。

     数台目で、久我が短く言う。

    「今の、よかったです」

    「何がです」

    「前輪じゃなく、ミラーを見てた」

     気づかれていたのかと思い、朔太は少しだけ驚いた。

    「橋は、前輪よりミラーと後ろです」

     久我はそれだけ言った。

         *

     午後九時前、現場へ小さな揺さぶりが入った。

     朔太のスマートフォンがポケットの中で震えた。通知音は切ってある。だが振動だけでも十分だった。現場で携帯が震えること自体が、身体へ別の合図を流し込む。

     朔太は見なかった。

     見なくていい。見る理由がない。そう自分に言い聞かせながら、次のタクシーを受ける。だが意識の端では、相沢かもしれないという予感が居座っている。三日の猶予。そのうちの一日が、今まさに減っている。

     橋へ進入してきた黒いセダンの運転手は、いかにも神経質そうな顔をしていた。ハンドルの握り方が硬い。こういう相手は、小さく迷ったときに一気に寄る。朔太はいつもより少し早く、少し低い位置で誘導灯を出した。

     だが、その「少し」が半拍だけ遅れた。

     セダンが欄干側へわずかに寄る。

    「止めて」

     久我の声が、初めて少し強く入った。

     朔太は即座に停止を出した。車は止まる。ミラーと欄干の距離は数センチ。擦ってはいない。だが、危なかった。

     久我が車の前へ半歩入り、落ち着いた手つきで進路を修正する。運転手が息を吐くのが外からでもわかった。数センチだけ戻し、もう一度前へ。今度は抜けた。

     車が通り過ぎたあと、久我は朔太を責めなかった。

    「通知ですか」

     ただ、それだけを聞いた。

    「......たぶん」

    「夜は、光と振動が邪魔になります」

     久我は前を見たまま言う。

    「切れるなら切ってください。切れないなら、触らないでください」

     言い方は静かだ。だが逃げ道はない。

     朔太はすぐにポケットの中でスマートフォンの電源を落とした。

    「すみません」

    「謝るのは、擦ってからでいいです」

     白石とも土門とも違う、久我なりの言い方だった。

         *

     休憩の間、橋のたもとの自販機前で、朔太はようやく深く息を吐いた。

     スマートフォンの電源は切ったままだ。見れば、何かが動く。動けば、迷いも動く。そのこと自体が、今はもう危険だった。

     久我が缶のブラックコーヒーを開けながら言う。

    「戻る話ですか」

     朔太は一瞬、表情を固めた。

    「わかりますか」

    「わかります」

     久我は一口飲んだ。

    「こういう現場で携帯に気を取られる人、だいたい二種類です。身内の病気か、昔の仕事です」

    「断定しますね」

    「身内の病気なら、もっと切羽詰まった顔をする。あなたのは、計算が混じってる顔です」

     言い方は無愛想だった。だが、観察は正確だった。

    「戻れるなら、戻った方がいいんでしょうか」

     久我は缶を持ったまま、少し考えた。

    「条件がいいなら、戻ればいいと思います」

     拍子抜けするほどあっさりした返事だった。

    「そんなに簡単に言うんですね」

    「簡単な話だからです。でも、戻っても同じなら、戻らない方がいい」

     久我はそこで初めてこちらを見た。

    「問題は仕事の種類じゃなくて、自分がどこでズレるかでしょう」

     その言葉に、朔太は御堂の「ズレ」という言い方を思い出した。胸の奥が少しだけ硬くなる。

     久我はその変化を見たのか見ないのか、そのまま続ける。

    「私は昔、印刷会社にいました」

    「印刷会社」

    「夜勤ばかりでした。納期で揉めて、人とも揉めて、最後は胃を壊して辞めた」

     久我が自分の過去を話すのは意外だった。

    「今の仕事が好きかと言われれば、好きとまでは言いません。でも、少なくとも、どこで危ないかは見えるようになった。前の仕事は、最後まで何が危ないのかが見えなかった」

     久我は缶を握りつぶすでもなく、軽くへこませた。

    「戻るかどうかは、条件じゃなく、そこじゃないですか」

     朔太は何も言えなかった。条件だけなら、相沢の話は十分すぎる。問題は、それでまた同じところへ戻るのではないかという感触が、自分の中にあることだった。

    「休憩終わります」

     久我はそこで会話を切った。深掘りしない。だが、必要な分だけは残した。

         *

     現場に戻ると、夜はさらに深くなっていた。

     川面の反射が弱くなり、工事灯の白さだけが橋の縁を浮かび上がらせる。車の量は少し減ったが、そのぶん速度が上がりやすい時間帯でもある。油断して入ってくる車ほど、橋では危ない。

     朔太は、さっきよりもむしろ集中していた。電源を落としたスマートフォンはポケットの中でただの物体になっている。情報を断つだけで、こんなにも視界が戻るのかと自分で驚くほどだった。

     その代わり、頭の中には別の問いが残っている。

     戻るか。戻らないか。

     だが、その問いをいま解く必要はない。少なくとも橋の上では。橋の上では、擦らせないことが先だ。判断の優先順位が、現場へ入ると強制的に整理される。そこに、朔太はまた少し救われる。

     九時半を過ぎた頃、一台の配送トラックが橋へ進入した。荷台が高く、車体幅もある。運転手は若く、明らかに橋の狭さに戸惑っていた。朔太は運転手の目を見る。久我が言った通り、前輪ではなくミラーと後ろを意識する。少し前、少し左、そのまま、止める、もう一度前へ。

     トラックは欄干を擦らずに抜けた。

     久我が小さく頷く。

    「今のは、よかったです」

     今度は素直に受け取れた。

     自分の中で、少しずつ何かが積み上がっている。派手な達成感ではない。むしろ、崩れずに済んだ手応えに近い。だがその静かな手応えの方が、いまの朔太には重かった。

         *

     撤収は夜十時過ぎだった。

     規制帯を畳み、看板を片づけ、コーンを車へ積む。夜の橋が本来の幅へ戻っていく。最後に通ったタクシーは、工事なんて最初からなかったみたいな顔で抜けていった。

     久我が荷台の戸を閉めながら言った。

    「今日は、最初の一本以外は悪くなかったです」

    「最初が悪かったんですね」

    「悪かったです」

     即答だった。

    「でも、途中から戻した。そこは悪くない」

     相変わらず乾いた言い方だ。だが、その乾き方に嘘がない。

    「ありがとうございます」

    「礼はいらないです。明日もあるなら、またやるだけなので」

     その通りだった。

     営業所へ戻る車の中で、朔太は電源を落としたままのスマートフォンを見た。相沢から何件連絡が入っているか、まだわからない。わからないまま、窓の外を見る。夜の道路は、昼よりもずっと無機質に見える。だが今日、自分はその無機質な道路の中で、確かに何かを掴んだ。

     営業所へ戻ると、白石がまだ残っていた。請求書の束を閉じるところだった。

    「お疲れさまです」

    「お疲れさまです」

     白石は朔太の顔を見て、短く言った。

    「今日は戻ってますね」

    「そうですか」

    「はい。朝より、ずっと」

     その評価が、妙に効いた。

     ロッカーの前でベストを脱ぎながら、朔太はようやくスマートフォンの電源を入れた。通知が三件、まとめて表示された。二件は相沢から。一件は知らない番号からだった。

     知らない番号のメッセージは、短かった。

     ――戻るなら、今のうちだ。

     御堂かどうかはわからない。だが、わからないままでも十分に嫌だった。

     相沢のメッセージはもっと具体的だった。

     ――検討状況だけでも教えてください。
     ――必要なら条件の上積みも相談できます。

     数字は現実を連れてくる。知らない番号は不安を連れてくる。現場は、その両方を一度脇へ置かせる。どれが正しいという話ではない。だが、少なくとも今日の朔太には、その違いが少しだけ見えていた。

     アパートへ戻る途中、朔太は橋の欄干すれすれを抜けていったトラックのミラーを思い出していた。数センチの余裕を守るために、どこを見るか。その感覚は、仕事の話だけではなく、自分の人生にも似ている気がした。

     戻ることが正解かもしれない。戻らないことが意地かもしれない。まだどちらとも言い切れない。

     だが少なくとも、いまの自分は「条件がいいから戻る」と即断できるところにはいない。

     そのことだけが、昨夜よりはっきりしていた。


     
     
    日本映画学校出身。劇場映画・テレビアニメの編集を経て、映像・Web・音楽をワンストップで手がけて25年。SF/ミステリー小説・脚本原案を執筆中。noteでは映像編集ノウハウと創作の記録を発信。

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