
誘導の旗 ―ご安全に!― 第2話 緊急断水の修羅場
【目次】
第1話 港区再開発、200台の生コン搬入
第2話 緊急断水の修羅場 →(本記事)
第3話 視線
第4話 訪問者
第5話 接触
第6話 現場
第7話 再起
第8話 選択
第9話 祭りの雑踏、見えない波
第10話 オレンジの規制線
第11話 残る
第12話 ご安全に
深夜三時、営業所の仮眠室で小泉朔太が目を開けたとき、天井の白いクロスに蛍光灯の冷たい光が滲んでいた。
眠ったのかどうかも曖昧な浅い意識の底で、最初に聞こえてきたのは無線機の雑音だった。次に、廊下を慌ただしく行き来する足音。さらにそのあと、扉の向こうで誰かが低い声で言った。
「都心幹線、漏水。緊急カタコウだ。起こせ」
朔太は上半身を起こした。毛布が膝から滑り落ちる。昨日の現場が終わって営業所に戻り、そのまま簡易ベッドで仮眠を取らされていたのだ。肩の奥には、故障車を押したときの鈍い痛みが残っている。手のひらにも、まだ薄く油の匂いが残っていた。眠気より先に、肉体だけが昨日の続きにいる。
だが、起き上がった瞬間、昨日の最後に黒岩誠司から言われた言葉が脳裏に蘇った。
明日も使う。
誘導灯のことだったのか、自分のことだったのか、まだわからない。それでも、体はもう起きる方を選んでいた。選ぶというより、選ばされているに近い。現場は昨日の続きではあっても、昨日を引きずる時間を与えてはくれない。
仮眠室を出ると、営業所の空気は昨夜とは別物になっていた。ホワイトボードの予定表は途中まで消され、代わりに太いマーカーで現場名と位置図が殴り書きされている。白石玲子が電話と無線と書類を同時に捌いていた。土門剛所長はネクタイも締めずに、缶コーヒーを片手に怒鳴っている。
「一班、上り線側に二名! 二班、下りを回せ! 重機入るまでに歩道切り替え終わらせろ!」
眠気の残る隊員たちがロッカーを開け、反射ベストを引っ掴み、ヘルメットを持って廊下を行き交う。誰も機嫌が良さそうではないが、文句を言って足を止める者もいない。その雑然とした動きが、なぜか一つの方向へ収束している。朔太は昨日、営業所を「雑然としている」と思った。だがこの時間のそれは、ただの乱雑ではなかった。臨戦態勢という言葉がいちばん近い。
朔太が立ち尽くしていると、白石が顔も上げずに言った。
「小泉さん、起きましたか。現場は新坂交差点手前、都心幹線道路の漏水事故です。上り線側ポスト、相方は早乙女さん」
「早乙女さん」
「昨日、営業所でずっと喋っていた方です」
あの男か、と朔太はすぐに思い出した。派手な柄のマグカップでコーヒーを飲みながら、誰に向けるでもなく時計とワインと外車の話を延々と続けていた中年男だ。年齢は四十代後半くらいか。高そうな腕時計をしているのに、作業着は妙にくたびれていたのが記憶に残っている。
「黒岩さんは」
「首都高の規制設置へ直行です」
朔太はわずかに気を引き締めた。今日は黒岩と別現場。つまり、あの厳しい背中の後ろに隠れてはいられない。
「大丈夫です」
白石はようやく顔を上げて朔太を見た。
「早乙女さんは、喋っていると不安になりますけど、手を動かすと案外ちゃんとします」
「その言い方、あまり安心できません」
「現場は、安心できないことに慣れる仕事でもあります」
白石はそれだけ言って、次の電話を取った。
*
ワゴン車の助手席に座った瞬間から、早乙女健一郎は喋っていた。
「いやあ、漏水は嫌なんだよね。派手に崩れる事故って、みんな最初から危ないってわかるでしょ。でも水って地味だからさ。見た目はただ濡れてるだけなのに、下の路盤が抜けてたり、足元が滑ったり、車が焦ったり。地味なくせにやることが陰険なんだよ」
運転しながらよくこれだけ口が回るものだと、朔太は半ば感心し、半ば辟易した。車窓の外には、まだ完全に空が明るくなりきらない都市の早朝が流れていく。信号機の色が濡れたアスファルトにぼんやり伸びていた。交差点ごとに、掃除の老人、始発帰りの若者、新聞配送のバイクが影のように横切る。
「詳しいんですね」
「まあね。趣味で始めた警備だけど、長いとそれなりに現場を踏むから」
「趣味で」
「そう。食うためにやってるわけじゃないから、たぶん続いたんだろうねえ」
早乙女はハンドルを片手で軽く叩きながら笑った。
「親が残したマンションと土地があってさ。店子さんたちが真面目に家賃を払ってくれるから、俺はこうして深夜に道路で怒鳴られていられるわけ。ありがたい話だよ」
朔太は返事に迷った。自慢なのか自嘲なのか、判別しにくい。
「じゃあ、なぜ警備員を」
「暇つぶし」
あまりに即答で、朔太は思わず顔を向けた。
早乙女はにやりとした。
「って言うとみんな怒るんだけどね。でも半分は本当。あと半分は、道路が好きなんだよ。人が流れて、車が流れて、みんな勝手に急いでるくせに、誰かが境界線を引かないと一秒でぐちゃぐちゃになる。面白いじゃない」
そこだけは少し本気の声だった。朔太は窓の外に視線を戻した。道路が好き。そういう感覚は、まだ自分の中にはない。ただ、昨日、止まっていた流れが再び動き出した瞬間の感覚だけは、まだ残っている。あれが快感なのか達成感なのか、名前はつけられない。
「朔太くんは元社長さんだもんね。どう? こういう朝」
「まだ評価できる段階じゃありません」
「そういう答え方するところ、まだ立派に社長だよ」
「そうですか」
「うん。即答しないし、決めつけない。あと人の話を半分しか信じてない顔をしてる」
「それは、たぶん昔からです」
「たぶんじゃなく、完全にそう」
早乙女は笑い、車線をひとつ変えた。冗談ばかりに見えて、ウインカーのタイミングも、前の車との間隔の取り方も滑らかだった。雑に見えて、雑ではない。そういう人間なのかもしれない、と朔太は少しだけ考えを改めた。
*
現場は、夜明けと同時にすでに修羅場だった。
都心を貫く幹線道路の一角。片側三車線のうち二車線がカラーコーンと矢印板で絞られ、中央にはバックホウと散水車、水道局の緊急車両、資材車が乱雑に並んでいる。路面は一帯が濡れ、街路樹の根元まで泥水を吸って黒ずんでいた。破裂した水道管の圧でマンホールの隙間からまだ細く水が吹き出し、夜通し流れた水が歩道の縁石沿いに残っている。
通勤時間にはまだ早い。それでもすでに一般車の流れは濃く、タクシー、配送車、始発帰りらしい自家用車が次々に押し寄せていた。規制帯の向こうでは作業員が掘削位置をマーキングし、現場監督が怒鳴っている。
「こっちは止めるな! 上り流しながらやるぞ! 朝ピークまでに掘る!」
朔太は誘導灯を持ち、早乙女の案内で上り線側のポストについた。反対側では別班が待機しているらしいが、距離があって顔はよく見えない。無線は繋がるが、重機の音や車の往来が増えれば、聞き取りは一気に難しくなるだろう。
「ここね」
早乙女はまるで散歩の途中のような気楽さで言う。
「歩行者も来る、自転車も来る、車は苛つく、現場は急ぐ。つまり全員が急いでる。こういうときはまず、こっちが急いでる顔をしないのが大事」
「急いでるのに、ですか」
「急いでる顔をした誘導員を見ると、相手も余計に焦るから」
そう言いながら、早乙女は通り過ぎる自転車の女性に「水はねますので左側どうぞ」と笑顔を向けた。次に歩いてきたサラリーマンには「ご不便おかけしてます、足元滑ります」と頭を下げる。声に嫌味がない。軽いが、腹は立ちにくい。
だがその軽さは、すぐに別の顔を見せた。
資材を積んだ中型トラックが現場内へバックで入ってくる。朔太は昨日の記憶から、思わず運転手の目線と車体の角度を追った。早乙女はそのときも歩行者に声をかけていて、旋回してくる車両との間合いがやや甘い。あと二歩、内側に入れば危ない。朔太が「早乙女さん」と声をかけようとした瞬間、作業員が怒鳴った。
「そっち立つな! 旋回入るぞ!」
早乙女はひらりと身を引いた。
「おっと、失礼。安全第一」
笑っている。朔太の眉間に皺が寄った。危なかったのだ。かなり。
「こういう現場では、もう少し位置取りを――」
「うん、そうだね」
早乙女は素直に頷いた。だが本当にどこまで効いているのか、見えづらい。
「でもね、朔太くん。人だけ見ててもダメなんだよ。近隣の人とか歩行者って、工事の都合なんて知らないでしょ。だから、まずはこっちが相手の機嫌を荒立てない。それも現場を回す技術」
「それで事故に近づいたら意味がない」
「その通り。だから難しい」
そこだけは真面目な声だった。
朔太は黙った。昨日までの自分なら、この男を軽薄だと切って捨てただろう。だが軽さの裏に、何かしら長く現場を見てきた人間の勘があることも感じ始めていた。
*
空が明るくなるにつれ、車の量が目に見えて増えた。通勤帯が始まったのだ。交差点の先まで車列が伸び、タクシーの運転手が窓を開けて怒鳴る。
「いつまで片交なんだよ!」
配送車の男が舌打ちし、バイク便が隙間を縫って進もうとする。歩道でも会社員と学生が入り混じり、自転車のベルが苛立たしげに鳴る。水道局の作業員たちは掘削位置の下に複雑な古い配管網を見つけたらしく、図面を広げて険しい顔で言い争っていた。
現場全体の温度が、じわじわと上がっていく。
午前九時前、最初の異変はサイレンだった。
遠く、渋滞の奥から、薄く、しかし確実に近づいてくる救急車の音。最初にそれに気づいたのは朔太だった。高い音が、クラクションやエンジン音の下から浮いてくる。
朔太は道路の先を見た。白と赤の車体が、渋滞の列の中でもがくように少しずつ近づいてくる。しかし現場側は最悪のタイミングだった。重機がちょうど掘削位置の前で旋回準備に入り、反対側からは大型ダンプが進入を始めている。規制帯の幅はぎりぎりで、救急車が通る隙間は見えない。
「早乙女さん、救急車です」
「え?」
早乙女が振り向いた。サイレンを認識した瞬間、その軽い顔に初めて真面目な影が落ちる。
「無線」
朔太は腰の無線機を取った。だがちょうどその瞬間、工事側の無線と車両誘導の声が重なり、耳元は雑音で埋まった。誰かがダンプ進入を伝え、誰かが重機の位置を確認し、誰かが歩道切り替えを叫んでいる。情報が多すぎて、一拍、遅れた。
反対側ではダンプがさらに頭を入れてくる。重機のブームが旋回に入れば、道路は完全に塞がる。救急車はいま、朔太の正面で止まり、運転手が苛立ちと焦りの入り混じった顔で前方を見ていた。助手席の救急隊員が窓を開け、何か叫んでいる。
「通せますか!」
その声は、責める声ではなかった。時間を削られる側の、必死の声だった。
朔太は喉の奥が熱くなるのを感じた。昨日なら、この状況をまず整理しようとしたはずだ。だがいま目の前にあるのは表計算ではない。あと数秒で道が死ぬという現実だった。
「早乙女さん、反対側ダンプ止めてください。路肩に寄せられますか」
「寄せるしかないね」
「僕、重機止めます」
「行ける?」
「行きます」
言った瞬間、自分で驚くほど迷いがなかった。
*
朔太は規制帯の内側へ走った。泥水が安全靴に跳ねる。バックホウが掘削位置の手前でゆっくりと車体を振り始めている。オペレーターはキャビンの中で次の動きを見ていた。ここで叫んでも、エンジン音と金属音で届く保証はない。
昨日、黒岩に言われた言葉が頭をよぎる。
運転手の目線を切るな。
死角に入るな。
わからなければ止まれ。
朔太は重機の旋回半径の外側、かつオペレーターの視界に確実に入る位置まで回り込み、両足を踏ん張った。そして右拳を高く突き上げる。停止の合図。全身を使って、もう一度。止まれ。止まれ。止まれ。
バックホウのアームが、ぴたりと止まった。
オペレーターが朔太を見た。朔太は口の形だけでも伝わるよう、はっきりと言う。
「救急車!」
作業員の一人が怒鳴る。
「今止めたら段取り狂うんだぞ!」
朔太はそちらを見ずに返した。
「五秒でいい! 通します!」
その声は、自分でも驚くほど大きかった。腹の底から出た。会議室でマイク越しに通す声ではない。騒音の中を突き抜けるための、生身の声だった。
同時に、反対側で早乙女が動いていた。さっきまでの軽薄さが嘘のように、ダンプの運転手へ的確なハンドサインを送り、車体をミリ単位で路肩へ寄せていく。左、止める、少し前、そのまま。手の角度が迷わない。運転手も迷わない。
無線が入る。
『上り一号、スペース取れる。救急通せる』
朔太はすぐに救急車の前へ走り、規制帯の内側へ進路を示した。わずかに空いた隙間。車体同士の間は狭い。だが通れる。運転手がこちらを見る。朔太は両手を使ってゆっくり、確実に、前へ前へと導く。
救急車の白い車体が、重機の鼻先とダンプの側面の間を、息を詰めるような速度で抜けていく。あと数十センチでも狂えば接触する。その緊張の中で、朔太は視線を運転手から一瞬も外さなかった。
通った。
後輪が抜けた瞬間、助手席の救急隊員が短く頭を下げた。サイレンはすぐに遠ざかっていく。
その背を見送る暇もなく、無線が入った。
『現示戻す。重機再開、ダンプそのまま維持。歩行者側注意』
現場は止まってくれない。救急車が通った次の瞬間には、また別の流れを作らなければならない。朔太はすぐに自分のポストへ戻った。
*
再開後の現場は、妙に静かだった。騒音は消えていない。車も歩行者も相変わらず多い。だが、さっきまでの崩れかけた感じがいったん収まっていた。誰もが、ほんの少しだけ呼吸を整え直したような静けさである。
早乙女が戻ってきた。汗で前髪が額に張りついている。
「いやあ、久しぶりに痺れたね」
「痺れたで済ませるんですか」
「済ませないよ。反省してる。無線、もっと早く使うべきだった」
その言葉は予想外だった。早乙女は肩を竦める。
「目で会話、なんて格好つけてる場合じゃないときもある。今日みたいにね」
朔太は少しだけ息を吐いた。
「僕も、一拍遅れました」
「でも行ったじゃない」
早乙女は不思議に真っ直ぐな声で言った。
「重機、あれ止めに行ける人、初日上がりじゃ普通いないよ。怖いから」
朔太は答えなかった。怖かったのは事実だ。だが怖さより先に身体が動いた。昨日、死角の近さを一度味わってしまったからかもしれない。止めるべき瞬間を逃したら、誰かが死ぬ。そういう現場が本当にあるのだと、身体のどこかがもう知ってしまっている。
「朔太くん」
「はい」
「声、出てたね」
軽く笑うように言ったその言葉に、朔太は自分の腹の奥を思い出した。たしかに、あのとき声が出ていた。会議でもプレゼンでもなく、命を通すための声が。
「早乙女さんも、ハンドサイン、見事でした」
「でしょ? 喋ってると信用されないんだけど、手は案外ちゃんと動くの」
朔太はわずかに口元を緩めた。本人も気づかないくらい小さな笑みだったが、早乙女はすぐに見つけた。
「お、やっと現場で笑った」
「笑ってません」
「いや笑った。いま確実に」
くだらないやり取りだった。だが、そのくだらなさが少しだけありがたかった。
*
昼過ぎ、漏水箇所の応急処置が終わり、埋め戻しの段取りがようやく見え始めた。道路の泥水は少しずつ減り、歩道にたまっていた水も排水口へ流れていく。朝の殺気は疲労へ変わり、ドライバーたちの罵声も途切れがちになっていた。
朔太はポストで誘導灯を持ちながら、ふと考えた。
昨日は、流れを戻した。
今日は、流れを止めて守った。
同じ交通誘導でも、やっていることはまるで違う。それでもどちらも道路を生かす仕事なのだとしたら、この仕事は思っていたよりずっと複雑で、ずっと重い。
重機が最後の整地に入り、現場監督が無線で叫ぶ。
「あと十五分で規制縮小! 歩道先に返すぞ!」
その声を聞いて、早乙女がぽつりと言った。
「道路ってさ、普段は誰も感謝しないんだよね」
唐突な言葉に、朔太は横目で見た。
「感謝、ですか」
「だって、通れて当たり前でしょ。渋滞したら怒るし、止まったら文句言うし、事故が起きたら騒ぐ。でも、何もない日は誰も見ない」
早乙女は汗を拭いながら続けた。
「だから面白いんだよ。誰も見てないところで、ちゃんと回してる感じがして」
朔太はすぐには答えられなかった。まだ、そこまでこの仕事を好きにはなれていない。だが少なくとも、昨日よりはわかる。見えないところで支えているものがあるという感覚だけは。
「僕はまだ、面白いとまでは思えません」
「うん、それでいいよ。最初から好きになれる仕事なんて、たぶん信用しない方がいい」
その言葉は妙にまともで、朔太は少し驚いた。
「意外と、真っ当なことを言うんですね」
「意外って何。俺、わりとずっと真っ当だよ。見た目と喋りが雑なだけで」
そのとき、規制帯の外に停まっていた一台の黒いセダンが朔太の目に入った。陽光を鈍く反射する、磨き上げられた車体。昨日の現場で見たのとよく似た、不釣り合いなほど綺麗な車だった。
朔太の背中がわずかに強張る。
「どうしたの」
「いや......」
だがその車は、こちらを見ているのかいないのか判然としないまま、しばらく停車したあと、ゆっくりと走り去った。
嫌な感じだけが残る。
*
夕方、埋め戻しが終わり、仮復旧の路面がならされると、規制は段階的に解かれていった。カラーコーンが回収され、矢印板が片づけられ、絞っていた車線に少しずつ車が戻る。止まっていた流れが、慎重に、だが確かに元へ戻っていく。
朔太はその光景を見ながら、無線機を握った。
『上り線、規制解除します。歩道復旧済み。一般流入、戻します』
返事は短かった。
『了解。解放』
その一言が耳に落ちたとき、朔太は昨日とは少し違う感覚を覚えた。昨日は、流れが戻ることそのものに圧倒された。今日は、その前に一度、流れを止める必要があった。通すために止める。守るために遅らせる。その判断を誰かが引き受けなければならない。
警備員は現場を支配しない。だが、一瞬だけ現場の時間を止めることはできる。
その一瞬が、人の命に繋がることがある。
「お疲れさん」
早乙女が隣で大きく伸びをした。
「今日は朔太くん、二点くらい昇格したね」
「二点ですか」
「五十点満点のうち」
「低いですね」
「厳しめに言ってるだけ。次で三点、四点って上がるよ。たぶん」
朔太は呆れたように息を吐いた。
「その評価制度、適当すぎませんか」
「現場なんて、だいたいそんなもん」
そう言って笑う早乙女の横顔を見ながら、朔太はふと、この男の軽さは軽薄さだけではないのかもしれないと思った。必要以上に重くしないことで、持ちこたえている人間もいるのだろう。
営業所へ戻る車の中、朔太は窓の外を流れる夕方の道路を眺めていた。誰も、数時間前ここで救急車が立ち往生しかけたことなど知らない。知られなくていいのかもしれない、とも思う。
道路は、当たり前の顔で流れている。
その当たり前を守るために、誰かが止まっていた。
ふと、ポケットの中のスマートフォンが震えた気がして、朔太は無意識にそこへ手をやった。だが通知はなかった。気のせいだったのか、疲れで神経が尖っているだけなのか、自分でもわからない。
ワゴン車が信号で止まる。交差点の斜め向こう、街路樹の影に黒い車が一台停まっているのが見えた。昼に見たものと同じ車種かどうかまでは判別できない。だが、こちらが見ると、向こうも見ているような気配だけがある。
青信号になり、車は動き出す。
振り返ると、もうそこには何もなかった。
朔太は窓ガラスに映る自分の顔を見た。昨日よりは少し汚れていて、少し疲れていて、そのぶんだけ、わずかに現場に近づいているようにも見えた。
まだ自分は、この仕事を好きだとは言えない。
だが少なくとも今日、誰かを通すために、何かを止めるべき瞬間があることは知った。
それはたぶん、昨日より少しだけ、この仕事の中心に近づいたということだった。