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誘導の旗 ―ご安全に!― 第7話 再起

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門


    【目次】
    第1話 港区再開発、200台の生コン搬入
    第2話 緊急断水の修羅場 
    第3話 視線 
    第4話 来訪者
    第5話 接触 
    第6話 現場
    第7話 再起 →(本記事)
    第8話 選択
    第9話 祭りの雑踏、見えない波
    第10話 オレンジの規制線
    第11話 残る
    第12話 ご安全に


     その朝は、妙に静かに始まった。

     昨日の現場の疲れは残っている。だが、それは漏水現場や湾岸現場のあとのような、神経が裂けた疲れ方ではなかった。長い片側交互通行の中で、少しずつ現場の構造が見えてきたぶんだけ、頭の芯が重い。削られているのに、同時にどこかが噛み合い始めてもいる。そんな曖昧な感覚だった。

     安アパートの窓を開けると、朝の空気が思ったより乾いていた。遠くでゴミ収集車の音がし、通学途中の子どもが二人、角を曲がっていく。何でもない朝だ。だが、何でもない朝を何でもないものとして受け取れること自体が、現場に出るようになってから少しだけ貴重に思えるようになっていた。

     朔太は作業服の袖を通し、反射ベストを持ち上げた。最初のころのような露骨な違和感は、もうない。慣れた、というにはまだ早い。だが、少なくとも「こんなものを着る自分」にいちいち反発する段階は過ぎつつあった。むしろ、これを着ているあいだだけは、何を見るべきかがはっきりする。そのことに、わずかな救いさえ感じ始めていた。

     スマートフォンには、相変わらず督促や広告が並んでいた。だが、その列の中に一件、見覚えのある名前が混じっていた。

     相沢祐介。

     倒産前まで同じ会社にいた、経営企画部の責任者だ。年下だが頭の回転が早く、数字にも現場にも強い男だった。最後の半年で最も多く顔を合わせた人間のひとりでもある。最後まで味方だったのか、それとも最後だけ味方の顔をしていたのか、そこは今でも判然としない。

     メッセージは短かった。

     ――今週、会えないか。仕事の相談がある。

     朔太は画面を閉じた。すぐに返事をする気にはなれない。だが、その名前が出た瞬間に、頭の中に別の空気が流れ込んだ。ガラス張りの会議室、空調の温度、ノートパソコンの薄い光、数字で話す人間たちの声。もう遠くなったと思っていた世界が、ひどく現実的な質感を持って戻ってくる。

     その感覚が嫌で、朔太はスマートフォンを伏せた。

         *

     営業所はいつも通りだった。

     白石玲子が電話口で顧客と話し、土門剛が予定表の前で腕を組んでいる。無線機の充電ランプが並び、ロッカーの扉が順に開閉する。何度も見てきた朝の光景だ。ここにいる人間たちにとっては、どんな日でもまず営業所があり、そのあとに現場がある。個人の事情は、その順番を飛び越えない。

    「おはようございます」

     朔太が声をかけると、白石が頷いた。

    「おはようございます。今日は住宅街寄りの通信工事です。片交と歩行者対応。相方は長峰さんです」

    「神代さんは」

    「午前は別班です。午後に合流するかもしれません」

     白石は配置図を差し出したあと、朔太の顔を一度だけ見た。

    「今日は少し、目が遠いですね」

    「そんなにわかりますか」

    「はい。昨日までの『外を警戒している目』とは違います」

     朔太は苦笑した。

    「今日のは、何ですか」

    「考えごとです。しかも、現場の外の」

     まるで決めつけるような言い方だった。だが、図星だった。

    「そうかもしれません」

    「現場に入る前に、半分くらいは置いていってください」

    「半分でいいんですか」

    「全部置ける人は最初から崩れません」

     白石はそう言って、次の電話を取った。

     土門が横から口を出す。

    「白石さんの言うことは聞いとけよ。あの人、顔色と備品の残数はだいたい外さないから」

    「備品と同列ですか」

    「現場に出す前に確認するって意味では同じだ」

     雑な言い方だった。だが、間違ってはいないのだろう。交通誘導の仕事に入ってから、朔太は人間もまた「事故になりそうな箇所」として扱われる世界があることを知った。壊れそうなコーンや不足している誘導棒と同じように、集中の外れた人間もまた危険物なのだ。

         *

     現場は住宅地の外れにあった。幹線道路ほど車量は多くないが、歩行者と生活車両の動きが読みにくい。細い路地が何本も入り込み、通学路と買い物動線が重なっている。作業帯は狭く、通信管路の交換のために歩道の一部も絞っていた。

     長峰は現着するなり、コーンの並びを一つだけ直した。

    「こういう現場、ちょっとした並びで歩行者の流れが変わるんだよね」

     言いながら、自分の持ち場と朔太の持ち場の間を一度歩いて見せる。どこに電柱があり、どこで自転車がふくらみ、どこに子どもが走り込みやすいか。昨日の「中」の現場とは違うが、ここにもここなりの構造があった。

    「今日はね、小泉さん」

     長峰が誘導灯を軽く振った。

    「車より人間の方が読みにくい日」

    「人が多いからですか」

    「いや、人がみんな自分の都合で動くから」

     その言葉が、妙に残った。

     仕事は始まった。片側交互通行の規模は小さいが、生活道路に近い現場は別の意味で忙しい。買い物へ出る老人。保育園へ向かう親子。配達の軽ワゴン。工事を面倒そうに横目で見るサラリーマン。車は少なくても、人の判断は一定ではない。

     朔太は車と歩行者の切れ目を見ながら、昨日までに少しずつ覚えたことを身体へ落としていった。先に声をかける。視線を合わせる。動き出しそうな足を先に見る。長峰の無線は相変わらず飄々としているが、歩行者対応の間合いだけは一切ぶれない。

    「東、二名歩行者優先で少し待たせます」

    「西、了解。こっち一台寝かせる」

     短いやり取りだけで、流れが噛み合う。

     現場が思った以上に穏やかに回り始めたころだった。ポケットの中でスマートフォンが震えた。

     場違いな振動だった。

     朔太はすぐには見なかった。見ないまま、一台流し、歩行者を通し、反対側へ返す。その三動作が終わってから、ようやく片手でポケットを押さえた。振動は止まっている。

     気のせいにはできない。だが、いまはそれを確認することの方が危ない気がした。朔太は視線を前へ戻した。

         *

     午前の終わり頃、長峰が休憩を兼ねた交代を提案した。

    「五分でいいから、先に見てきなよ。どうせ仕事の連絡なんでしょ」

    「そんな顔してますか」

    「してる。白石さんよりは雑な見立てだけど、俺もそこそこ見える」

     長峰に押し出されるようにして、朔太は規制の端から少し離れた電柱の陰へ移った。スマートフォンを出す。通知は二件。どちらも相沢祐介からだった。

     ――今の仕事中なら、昼か夜でいい。
     ――条件の話だけでも聞いてほしい。

     条件、という言葉が妙に生々しかった。相談ではない。慰めでもない。もっと現実的なものだ。

     朔太は一瞬だけ逡巡し、それから短く返した。

     ――夜なら。

     既読がつくのは早かった。

     ――では、八時。港区の「カームラウンジ」。店は取ってある。

     店は取ってある。

     その文面の滑らかさに、朔太は思わず眉をひそめた。こちらが断る可能性より、来る前提で手配している人間の動きだ。相沢はもともとそういう男だった。段取りを先に作る。相手が迷う余地を、丁寧に狭める。

    「社長さん」

     長峰の声が飛んだ。

     朔太はすぐに画面を閉じ、持ち場へ戻った。

    「はい」

    「戻ってきた顔が、仕事の顔じゃない」

     軽く言われた。だがきつかった。

    「すみません」

    「謝るより、次の車見て」

     長峰はもう前を見ている。言った本人は、そこで終えていた。朔太は返事もせず、次に来る白い営業車へ視線を向けた。長峰の言う通りだった。仕事の外の空気を、一瞬でも持ち込んだ顔になっていたのだろう。

         *

     夜八時。港区のラウンジは、もう別の世界だった。

     営業所や現場の匂いがまだ服に残っている気がして、朔太は入店前に一度だけ袖を見下ろした。作業服ではない。さすがにシャツとジャケットへ着替えてきた。だが、それでも自分の体から現場の空気が消えた感じはしない。消えないまま、この場所へ来てしまった。

     カームラウンジは、ホテルのラウンジとバーの中間みたいな店だった。照明は低く、テーブルの上だけがやわらかく照らされている。グラスの触れ合う音も小さく、会話はどれも他人に届かない程度に抑えられていた。ここでは誰も怒鳴らない。誰もバックホウを止めろとは言わない。そういう静けさが、逆に息苦しい。

     相沢祐介は、奥の席で待っていた。グレーのジャケットに白いシャツ、ネクタイなし。昔と同じように、清潔で、無駄がなく、少しだけ気取って見える。朔太が席に着くと、相沢は立ち上がりもせずに軽く会釈した。

    「久しぶりです」

    「そうだな」

    「来ていただけてよかった」

     その言い方が気に入らなかった。まるで、こちらが正しい選択をしたかのようだ。

     相沢はメニューを閉じた。

    「飲みますか」

    「コーヒーでいい」

    「了解です」

     注文までが早い。店員を呼ぶタイミングも迷いがない。朔太はその滑らかさを見て、昔の会議を思い出した。相沢は数字を読むだけでなく、空気の作り方がうまかった。沈黙を不利にしない人間だった。

    「仕事の相談、と言っていたな」

     朔太が先に切り出すと、相沢は頷いた。

    「はい。単刀直入に言います。戻りませんか」

     あまりに真っ直ぐで、逆に一瞬返せなかった。

    「どこへ」

    「こちら側へ、です」

    「雑な言い方だな」

    「雑な方が伝わるかと思って」

     相沢は笑わなかった。

    「新規の再編案件が走っています。表向きは事業整理と再構築ですが、実質的には旧プロジェクトの焼き直しです。人が足りません。外部から数人入れたい。その一人に、小泉さんの名前が出ています」

    「誰が出した」

    「私です」

    「物好きだな」

    「物好きではありません。いま必要だからです」

     そこでコーヒーが運ばれてきた。カップを置く音まで静かだ。朔太は手をつけなかった。

    「条件を聞きますか」

    「聞くだけなら」

     相沢はすぐにタブレットを取り出した。年収、契約形態、役職、稼働時間。数字が整然と並ぶ。その数字の見せ方に、朔太の胸の奥がわずかにざわついた。懐かしいというより、身体が先に反応した。条件を見る。比較する。可能性を測る。その思考の癖は、まだ自分の中に残っている。

    「最初は顧問契約でも構いません。実務に戻れるならそのまま常勤でも。小泉さんなら、外向きの説明も内部整理も両方できます」

    「買い被りだ」

    「買っているんです」

     相沢はそう言った。

    「小泉さん、今の仕事が悪いと言うつもりはありません。でも、長くいる場所ではないでしょう」

     その言葉は、メッセージで見た一文とほとんど同じだった。朔太の表情がわずかに硬くなる。

    「誰がそう言った」

    「私です」

    「ほかにもいるんじゃないか」

     相沢はそこで初めて眉を上げた。

    「どういう意味です」

    「いや、別に」

     御堂の顔が頭をよぎった。ここでそれを出す気にはなれない。だが、同じ種類の言葉を別の人間から続けて聞くと、偶然では済まない気がしてくる。

     相沢はそれ以上追わなかった。代わりに、タブレットを朔太の方へ少しだけ寄せた。

    「数字だけ見てください。気持ちはあとでいい」

     その言い方は、昔の自分が部下にしていた言い方に少し似ていた。まず数字、感情はあと。整っているようで、実際にはかなり乱暴な順番だ。

     朔太は画面を見た。条件は悪くない。どころか、今の自分から見れば十分すぎる。家賃の不安は消える。督促も減る。生活は戻る。少なくとも、六畳一間の安アパートで誘導灯を磨くよりは、世間的にも「まとも」に見えるだろう。

     それなのに、即答できない自分がいた。

    「迷うんですか」

     相沢が静かに言った。

    「迷う」

    「正直で安心しました。昔の小泉さんなら、その場で合理の方へ切っていた」

    「昔の俺をよく覚えてるな」

    「忘れられる方が怖いですよ」

     その言い方が、少しだけ本音に聞こえた。

    「戻れば楽になります」

     相沢は続ける。

    「いまの場所で得るものがないとは言いません。でも、持っているものを考えれば、あまりに遠回りだ」

     遠回り。

     その言葉に、朔太はコーヒーへ手を伸ばした。少し冷めている。苦い。だが、その苦さが妙に現実的だった。

    「遠回りかどうかは、まだわからない」

     自分で言って、朔太は少し驚いた。そんな言葉を、いまの自分が口にするとは思わなかったからだ。

     相沢はその驚きに気づいたような顔で、少しだけ目を細めた。

    「現場で何かありましたか」

    「毎日あるよ」

    「そういう意味じゃなく」

    「わかってる」

     朔太はカップを置いた。

    「ただ、こっちへ戻ることが、そのまま正解だとも思えなくなってる。それだけだ」

     相沢はしばらく黙っていた。否定しない。押し切りもしない。その沈黙の長さが、逆に真剣さに見えた。

    「すぐに答えを出さなくていいです」

     やがて相沢は言った。

    「でも、席はずっと空けておけません」

    「そうだろうな」

    「三日だけ待ちます」

     三日。短い。だが、現場の時間で考えれば長いのかもしれない。朔太はいま、自分がどちらの時間で生きているのか、少しわからなくなっていた。

         *

     店を出ると、夜風は思ったよりぬるかった。

     港区のビル群のあいだを歩きながら、朔太は自分の靴音を聞いていた。現場用の安全靴ではない。硬い革靴の音だ。昔の自分なら、こちらの音の方が自然だったはずだ。だが今日は妙に滑る。地面との噛み合いが浅い気がする。

     交差点で信号を待つ。ガラス張りのオフィスビルの中では、まだ働いている人間たちが見えた。液晶の白い光、会議室の影、腕まくりをした若い男、書類を抱えて早足で歩く女。懐かしいと言えば懐かしい。だが、自分がもうそこへそのまま戻れる気も、しなかった。

     スマートフォンを取り出す。相沢からのメッセージがすでに届いていた。

     ――三日後まで待ちます。返事だけで構いません。

     朔太は画面を閉じた。

     そのまま駅へ向かおうとしたとき、道路の向こうに停まる黒いセダンが視界の端に入った。街灯の下にあっても、妙に輪郭が沈んで見える車だった。濃い窓。磨かれたボディ。こちらを待っているわけではない。ただ、そこにあるだけで、視線が吸われる。

     朔太は立ち止まらなかった。だが、歩幅は半歩だけ乱れた。

     御堂かもしれない。違うかもしれない。確認しようとは思わなかった。確認した瞬間に、相沢との話まであちら側へ引きずられる気がしたからだ。

     そのまま通り過ぎる。信号が変わる。人の波が動き出す。振り返らない。

     それでも、背中側に車の気配だけは残り続けた。

         *

     アパートへ戻ったのは十一時過ぎだった。

     部屋の蛍光灯をつけ、ジャケットを脱ぎ、床に座る。静かだ。営業所とも現場ともラウンジとも違う静けさ。生活が止まった部屋の静けさだった。

     朔太は相沢の提示した条件を思い返した。数字だけなら、戻る理由はいくらでもあった。年収、契約、立場、体裁。全部が今より上だ。普通に考えれば迷う余地はない。むしろ断る方が愚かだ。

     それなのに、即答できなかった理由が、自分でもまだうまく説明できない。

     現場で少し認められたからか。
     黒岩や神代や長峰の動きを見て、仕事の芯が少しだけ見えてきたからか。
     それとも、御堂が何を狙っているのかがわからないまま、このタイミングで昔の世界へ戻るのが気持ち悪いからか。

     たぶん、全部だった。

     朔太は布団の横へスマートフォンを置いた。電源は切らない。相沢からまた来るかもしれない。御堂から来る可能性だって、ゼロではない。そう思う自分が、少し前よりもさらに面倒だった。

     天井を見上げる。

     明日も現場がある。

     それは、いまの自分にとって予定であると同時に、判断の猶予でもあった。戻るか、戻らないか。決める前に、もう一日だけ現場へ立てる。そのことが、なぜだか少しだけ救いに思えた。

     遠回りかどうかは、まだわからない。

     だが少なくとも、自分はもう「今の場所は仮の姿だ」と即答できる人間ではなくなっていた。


     
     
    日本映画学校出身。劇場映画・テレビアニメの編集を経て、映像・Web・音楽をワンストップで手がけて25年。SF/ミステリー小説・脚本原案を執筆中。noteでは映像編集ノウハウと創作の記録を発信。

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