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誘導の旗 ―ご安全に!― 第5話 接触

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門


    【目次】
    第1話 港区再開発、200台の生コン搬入
    第2話 緊急断水の修羅場 
    第3話 視線 
    第4話 来訪者
    第5話 接触 →(本記事)
    第6話 現場
    第7話 再起
    第8話 選択
    第9話 祭りの雑踏、見えない波
    第10話 オレンジの規制線
    第11話 残る
    第12話 ご安全に


     翌朝、目が覚めたとき、朔太は一瞬だけ自分がどこにいるのかわからなかった。

     六畳一間の天井は見慣れているはずなのに、夜のあいだに別の場所の空気を吸い込んでしまったように、妙によそよそしく見えた。営業所の裏階段。御堂啓介の落ち着き払った声。現場に持ち込まないでください、という言葉。そのどれもが、眠れば薄まる類のものではなかったらしい。

     壁にもたれたまま寝落ちしたせいで、首の後ろが痛い。スマートフォンの時刻を見て、朔太は舌打ちしそうになった。起床の目覚ましより六分遅れている。たった六分だが、その六分で一日の歯車がずれることがあるのを、現場に出てから少しずつ知り始めていた。

     洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を洗う。鏡の中の男は、昨日までと同じ顔をしている。だが、その内側にあるものだけが違っていた。見られている、という感覚が消えない。視線に追われるのではない。視線の存在を、自分が勝手に意識してしまう。そこがいちばん厄介だった。

     作業服に袖を通し、反射ベストを手に取る。昨日まではそれを着ることで、仕事へ入っていく感覚があった。今日は少し違う。仕事へ入ると同時に、別の何かも一緒についてくるような気がした。

         *

     営業所へ入ると、いつもの朝の音がしていた。コピー機、電話、無線機の起動音。白石玲子はデスクで伝票を整理し、土門剛は予定表の前で腕を組んでいる。日常は戻っている。少なくとも見た目には。

    「おはようございます」

     朔太が声をかけると、白石が顔を上げた。

    「おはようございます。今日は湾岸沿いです」

    「湾岸」

    「共同溝更新。長い規制になります」

     白石が差し出した配置図を見る。片側二車線のうち一車線を長く潰す規制だ。大型車の出入りが多く、風の影響も受けやすい。海沿いの現場は看板もコーンも煽られやすい、と以前誰かが言っていたのを思い出す。

    「相方は神代さんです。全体は黒岩さんが回ります」

     その名前を聞いた瞬間、朔太は少しだけ息を整えた。黒岩がいる現場なら、少なくとも仕事の骨格は崩れない。そう思う自分がいる。たった数日のことなのに、それだけで少し救われるのが悔しかった。

    「小泉さん」

     白石が書類から目を離さずに言った。

    「今日は昨日より顔が戻ってます」

    「戻ってますか」

    「半分くらいは」

    「半分ですか」

    「残り半分は、現場で戻してください」

     言い方は相変わらず素っ気なかった。だが、その素っ気なさの中に「営業所で戻せる分は戻した」という響きがあった。朔太はそれ以上何も言わず、配置図を折りたたんでポケットに入れた。

     土門が横から口を出す。

    「湾岸は風が嫌なんだよ。看板も人間も、気を抜くと持ってかれる」

    「人間もですか」

    「気持ちの方な」

     そこで土門は、新聞をめくるみたいな軽さで付け加えた。

    「昨日の知り合いの件もあるんだろうけど、現場でぼうっとするなよ」

     その言い方に嫌味はなかった。だが、だからこそ逃げ場もない。

    「わかっています」

    「だったらいい」

     土門はそれ以上言わなかった。

         *

     湾岸の道路は、朝から風の通り道だった。

     空はよく晴れている。だが高架下を抜けて海の方へ出た瞬間、ワゴン車の車体がわずかに揺れた。視界の先には倉庫群、コンテナヤード、低い建物の向こうに鈍く光る水面が見える。路肩は広く取られているのに、空が抜けているせいで、場所そのものがむき出しに見えた。

     共同溝更新の現場は長い。規制帯は数百メートル単位で伸び、矢印板、カラーコーン、ラバーコーン、工事看板が順に並ぶ。大型車が通るたびに風が起こり、細いものから順に揺れる。規制そのものが、静かに呼吸しているみたいだった。

     黒岩は現着するとすぐに全体の確認へ入った。規制の端、資材置き場、重機位置、避難導線、枝道の有無。目でなぞるというより、身体ごと現場の線を一度踏み直しているように見える。神代は無線機のチャンネルを合わせ、朔太へ片側の流れを任せる位置を指した。

    「今日は長いぞ」

     神代が言った。

    「単純に見えるぶん、気が散る」

    「はい」

    「風と大型に気を取られすぎるな。見失うのは、大抵その間に来る小さい方だ」

     小さい方。歩行者、自転車、軽車両、あるいは視線の端に出る枝道の鼻先。言われなくてもわかるようで、現場に立つとわからなくなる種類のものだ。

     黒岩が戻ってきて、全体へ短く告げる。

    「規制長い。途中でだれるな。大型優先、でも急がせるな。わからなければ止めろ」

     最後の一言は、初日に聞いたものと同じだった。だが、聞こえ方は少し違っていた。最初は乱暴に聞こえたその言葉が、いまは判断の逃げ道ではなく、判断を誤らないための最後の安全装置だとわかる。

         *

     午前の現場は、地味に神経を削った。

     大型トレーラーが抜ける。コンテナを積んだ車両が風を起こす。その風で看板が震え、コーンがわずかにずれる。その合間を、営業車と配送車と一般の乗用車が埋めていく。歩行者は少ないが、ゼロではない。工場勤務らしい男が早足で歩道を横切り、自転車の作業着の青年がヘルメットも被らずに規制の隙間へ入ろうとする。

     神代の言った「小さい方」は、本当にその間に来た。

     大型車が通り過ぎた直後、風の揺れに一瞬気を取られた隙に、枝道から軽ワゴンが鼻先を出した。朔太はすぐに手を出して止める。間に合った。だが、そのときにはすでに歩道側から年配の女性が規制帯の内側へ寄ってきていた。

    「危ないです、こちら通ってください」

     朔太が声をかける。女性は驚いた顔で一歩下がった。軽ワゴンの運転手が不満げにハンドルを叩く。大型車のエアブレーキが遠くで鳴る。全部が同時に来る。

     何とか収めたあと、神代が無線ではなく直接言った。

    「今の、枝道を先に見るな」

     朔太は息を整えながら答える。

    「歩行者でしたか」

    「風のあとに動くのは人間の方が早い」

     それだけだった。だが、その一言で、さっき自分が何に釣られたかがはっきりした。大型車と風。大きくて派手なものへ意識が寄り、そのあとに動く小さい方を後手にしたのだ。

     朔太は小さく頷いた。

    「はい」

     返事のあとに、わずかな苛立ちが残った。神代に対してではない。まだこんな程度の揺れで判断がずれる自分に対してだ。

         *

     午前の後半、もう一度、小さなヒヤリがあった。

     資材搬入のトラックが規制帯の内側へ入るタイミングで、対向の乗用車を少し長く待たせる必要が出た。朔太はその間合いを見て、次の大型が来る前に一台だけ出せると判断した。ところが、その瞬間、頭のどこかに昨日の御堂の声が浮いた。

     現場に持ち込まないでください。

     その一文のせいで、意識がほんの半拍だけ内側へ向いた。

     手の出し方が遅れた。

     乗用車の運転手は出ていいのか止まるべきか迷い、車体を半端な位置に止めた。後ろの車が軽くクラクションを鳴らす。資材搬入車の運転手が眉をひそめる。事故にはならない。だが、現場の流れは一瞬だけ確実に濁った。

     神代がすぐに前へ出て、手の角度を変えた。短い、明確な合図だった。乗用車が抜け、搬入車が入り、流れが立て直される。

     それだけで済んだ。

     だが、それだけで済んだことが逆にきつかった。大きな失敗ではないからこそ、言い訳ができない。集中が散った、それだけだ。

     神代は何も言わなかった。何も言わないまま、自分の位置へ戻る。黒岩も遠くから一度こちらを見ただけだった。

     その無言が、叱責よりよほど効いた。

         *

     昼の休憩は、資材車の陰で短く取った。海の匂いと、温めすぎた弁当の匂いが混じる。神代は無言でおにぎりを食べ、朔太はペットボトルの水を飲んだ。風は相変わらず強い。

     沈黙に耐えかねたように、朔太が先に口を開いた。

    「さっき、遅れました」

     神代はおにぎりを飲み込んでから答えた。

    「そうだな」

    「迷いが出ました」

    「そうだろうな」

     それ以上の言い方はしない。だからこそ、自分で言葉を足すしかなかった。

    「現場と関係ないことが、少し頭に残っていて」

    「現場に関係ないなら、なおさら厄介だ」

    「......はい」

     神代はペットボトルのキャップを閉めた。

    「仕事ってのは、嫌でも人間ごと来る。だからゼロにはできない。でも、混ぜるな」

    「どうやってですか」

    「戻す」

    「簡単に言いますね」

    「簡単じゃない。でも、やるしかない」

     神代はそこで初めて、朔太をまっすぐ見た。

    「小泉。現場はお前を待たない。待たないから、戻すしかない」

     その言葉に、朔太は反論できなかった。たぶん正しい。正しいが、優しくはない。優しくないから、現場の言葉として通るのだろう。

         *

     午後に入ると、空の色は変わらないまま、風だけが少し強くなった。

     規制帯の端に立つ矢印板がわずかに揺れる。大型車が抜けるたび、コーンの裾が擦れる。現場そのものが長く伸びているぶん、神経の張り方も散漫になりやすい。派手な危険はないが、少しずつ削られていく感覚がある。

     朔太は意識的に、視線を近くへ戻した。車。歩行者。枝道。風。順番に見るのではなく、重ねて見る。そこへ割り込んでくる別の思考を、いったん脇へ置く。置ききれないなら、せめて表に出さない。

     そうやってようやく、現場の流れにもう一度乗り直しかけた頃だった。

     規制の外、ガードレールの向こうに、スーツ姿の男が立っていた。

     距離はある。だが顔はわかる。

     御堂啓介だった。

     昨日の営業所とは違い、今日は何も言わない。規制の邪魔にならない位置に立ち、ポケットに手を入れたまま、ただこちらを見ている。その姿勢が余計に腹立たしかった。声をかけないぶん、こちらから意識を向けさせる。現場の中へ入ってこないぶん、外にいることそのものが圧になる。

     朔太は無意識に歯を食いしばった。

     持ち場を離れられない。離れればそれこそ神代の言う通り、現場に混ぜることになる。だが見えてしまった以上、いないことにもできない。

     次の車が来る。大型の牽引車だ。朔太は手を出す。動作は間に合っている。だが、その内側で神経が二つに裂かれているのが自分でもわかった。

     牽引車が抜け、歩行者の切れ目が一瞬できる。神代が中からこちらを見た。その視線に「戻せ」と書いてある気がした。

     朔太は一度だけ、深く息を吸った。

     そして、次の乗用車を流した。

     御堂はまだそこにいた。

         *

     午後三時過ぎ、規制帯の端をいったん縮める段取りが入った。資材を少し奥へ寄せる必要があり、その間だけ車の流れにわずかな余裕ができる。現場では、そういう「隙」がときどき生まれる。

     神代が短く言った。

    「三分」

     休憩ではない。だが、持ち場から半歩だけ外へ出られる程度の余白だった。長峰ならこういうときに缶コーヒーでも買いに行くのかもしれない。だが今日は長峰はいない。

     朔太は、自分でもそうするべきではないと思いながら、規制の端から外へ一歩だけ出た。御堂はガードレール沿いから動かず、こちらを待っていたような顔をしている。

    「何のつもりです」

     朔太は低く言った。

    「見ていただけです」

    「やめろ」

    「難しいですね」

     昨日と同じ返し方だった。わざとだ。

    「ここはあなたの仕事場なんでしょう」

    「だから何です」

    「だから、見えるんです」

     御堂は穏やかに答える。

    「あなたは今、自分が何を見て、何を見落としているか、まだ整理できていない」

    「ふざけるな」

    「ふざけていません」

     御堂はほんの少しだけ首を傾けた。

    「今日、二度、手が遅れた」

     その言葉に、朔太の背中が冷たくなった。

     見ていたのか。

     いや、見える位置に立っていたのか。どちらでも同じだった。

    「あなたは人の流れを見るのは上手い。昔からそうだ。だからこそ、ひとつ外から線を足されると、途端にズレる」

     御堂の言葉は不愉快だった。だが不愉快なだけでは済まない。さっきの半拍の遅れが、本当にあったからだ。

    「何が目的だ」

    「知りたいんです」

    「何を」

    「あなたが、どこでまた切るのか」

     その一言が、胸の奥へ鈍く沈んだ。昨日の「線を切った」という言い方と繋がる。だが、意味はまだ霧の中だ。

    「意味がわからない」

    「今はそれでいいですよ」

     御堂はポケットから手を出し、腕時計を見た。

    「ただ、次はもっと近いところで起きる」

    「何が」

    「ズレが」

     言い終えると、御堂はそれ以上話さなかった。会話を延ばすつもりが最初からないのだ。必要なだけ神経を引っかき、あとはこちらに残す。

     朔太は拳を握った。殴ることも、掴みかかることもできる距離だった。だがそれをした瞬間、負けだとわかっていた。現場の外でまで、相手の作った流れに乗ることになる。

     背後から神代の声が飛ぶ。

    「小泉」

     短い。だが十分だった。

     戻れ、という意味以外なかった。

     朔太は御堂を睨んだまま一歩下がり、規制帯の中へ戻った。御堂は笑いもしない。ただ、その選択まで見ている顔をしていた。

         *

     現場へ戻ってからの数分は、妙に長かった。

     車を流す。歩行者を止める。資材車を入れる。動作はできている。だが自分の内側に、さっきの言葉が薄く貼りついている。どこでまた切るのか。ズレが起きる。次はもっと近いところで。

     不愉快なだけなら、もう少し楽だった。問題は、それらが現場の判断と相性が悪すぎることだった。交通誘導は、迷いを抱えたままでも手を動かさなければならない。そこに「次はズレる」と言われたら、その予告そのものがズレの種になる。

     神代が規制帯の中から一度だけこちらを見た。叱責はない。説明もない。だが、「いま戻しているかどうか」は見られている。

     朔太は視線を路面へ落とさず、次の車両へ向けた。大型。枝道なし。歩行者二名。風、弱い。頭の中で条件を並べる。整理しろ。いまはそれだけだ。御堂をどうにかするのは、少なくともここではない。

     ようやく、呼吸が少しだけ戻ってきた。

         *

     現場が終わる頃には、空が白っぽく霞んでいた。海沿い特有の、輪郭だけが遠くなる夕方だった。長い規制を順に畳み、コーンを回収し、矢印板を車へ戻す。派手な事故は起きていない。だが、何もなかったとも言い切れない一日だった。

     撤収の最後、黒岩が全体を見てから短く言った。

    「お疲れ」

     それだけで解散しようとしたところで、神代が朔太を呼び止めた。

    「小泉」

    「はい」

    「今日は二度、危うかった」

     真正面から言われた。

    「......はい」

    「でも三度目は戻した」

     朔太は顔を上げた。神代は特に表情を変えない。

    「ゼロにはできない。戻すしかない。昼に言った通りだ」

    「見えていましたか」

    「見えてなきゃ中に立てない」

     そう言って、神代は無線機を外した。

    「現場の外に何があるかは知らない。だが、現場の中で何をやるかは自分で決めろ」

     黒岩が少し離れた場所で、それを聞いていたのかいないのか、資材車の運転手と短く話していた。口を挟まない。だが、挟まないことで責任をこちらへ返しているようにも見えた。

     朔太は小さく頭を下げた。

    「はい」

         *

     営業所へ戻る車の中で、朔太は窓の外を見ていた。湾岸道路の長い直線、コンテナの列、すれ違う大型車。どれも無機質なのに、今日一日で妙に生々しく見える。流れを作るものと、流れを乱すもの。その境目は、思っていたよりずっと細い。

     スマートフォンが震えた。

     心臓が先に反応した。だが画面に出ていたのは、金融会社の通知だった。拍子抜けすると同時に、自分がどれだけ神経を持っていかれているかを思い知る。

     営業所へ着き、ロッカー前で反射ベストを脱いだとき、白石がいつもの声で言った。

    「今日は長かったですね」

    「長かったです」

    「顔に出てます」

    「戻ってませんか」

    「朝よりは戻ってます。でも、完全ではないです」

     白石は伝票を揃えながら続けた。

    「明日まで持ち越すなら、持ち越す前提で整えてください」

    「整える、ですか」

    「そうです。曖昧なままにしないでください。曖昧なものほど、現場で足を引っ張るので」

     営業所の人間は、別の言い方で同じことを言うのだと朔太は思った。黒岩は「わからなければ止まれ」と言った。神代は「戻せ」と言った。白石は「整えろ」と言う。言葉は違う。だがやっていることは、どれも崩れを放置するな、ということだった。

     その夜、安アパートへ戻っても、御堂の顔より先に浮かんだのは、現場で半拍遅れた自分の手だった。あの一拍は、御堂が悪いだけではない。自分の中に入り込ませた時点で、自分の責任になる。そこを認めるのがいちばん嫌だった。

     布団に入る直前、窓の外に車のライトが流れた。黒いセダンかどうかまでは見えない。ただの通行車かもしれない。それでも一瞬だけ息を止めた自分に、朔太はうんざりした。

     見られているのではなく、意識させられている。

     その違いは、小さく見えて大きかった。

     明日も現場はある。

     御堂の言葉を消せなくても、現場の流れは来る。ならば、少なくとも持ち場に立つあいだだけは、あちらではなくこちらを見るしかない。

     朔太は目を閉じた。眠りは浅いだろうと思った。だが、それでも眠るしかない。現場は、睡眠不足も動揺も、平等に危険として扱うのだから。


     
     
    日本映画学校出身。劇場映画・テレビアニメの編集を経て、映像・Web・音楽をワンストップで手がけて25年。SF/ミステリー小説・脚本原案を執筆中。noteでは映像編集ノウハウと創作の記録を発信。

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