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誘導の旗 ―ご安全に!― 第11話 残る

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門


    【目次】
    第1話 港区再開発、200台の生コン搬入
    第2話 緊急断水の修羅場 
    第3話 視線 
    第4話 来訪者
    第5話 接触 
    第6話 現場
    第7話 再起
    第8話 選択
    第9話 祭りの雑踏、見えない波
    第10話 オレンジの規制線
    第11話 残る →(本記事)
    第12話 ご安全に


     高速規制の翌朝、朔太は目覚ましが鳴る前に目を開けた。

     眠りは浅かった。だが、眠れなかったわけではない。むしろ不思議なくらい、頭の中は静かだった。高速の夜の光、オレンジの規制線、黒岩の声、鷹宮の「見えたものだけ上げてください」という言葉。そうしたものが、昨夜のまま胸の奥に残っている。相沢祐介からの「返事、待っています」というメッセージもそこにある。御堂からは何も来ていない。何も来ていないのに、来ていないこと自体が次の圧のように感じる。

     布団の中でしばらく天井を見ていたあと、朔太はようやく上半身を起こした。

     六畳一間の空気は冷えていた。窓の外では、まだ朝の車の音も細い。こんな時間に起きている人間は、新聞配達か、トラックの運転手か、警備員か、そのくらいだろうと思う。少し前までの自分なら、そんな時間帯に生きる人間を、同じ都市の別種だとでも思っていたかもしれない。

     スマートフォンを手に取る。通知は増えていない。相沢からも御堂からも来ていない。昨日のメッセージだけが静かに残っている。

     ――返事、待っています。

     三日目だった。

     朔太は画面を伏せた。まだ返さない。返さないまま、顔を洗い、作業服に袖を通した。反射ベストを手に取る指が、今朝は一度も止まらなかった。そこに違和感がないというわけではない。ただ、迷いの種類が変わっていた。戻れるか戻れないか、ではなく、どちらの迷いを自分が引き受けるのか、という迷いだった。

         *

     営業所へ入ると、白石玲子がすでに電話を切ったところだった。

    「おはようございます」

     朔太が言うと、白石は顔を上げた。

    「おはようございます。今日は午前が短い住宅地の現場、午後は待機です」

    「また待機ですか」

    「はい。最近そういう週です」

     白石は書類を渡してから、朔太の顔を一度だけ見た。

    「今日は、少し違いますね」

    「何がです」

    「遠くは見てるけど、目が散ってないです」

     朔太は苦笑した。

    「褒めてるんですか」

    「事実です」

     そこで白石は少しだけ間を置いた。

    「決める前の顔に見えます」

     その言い方に、朔太は一瞬だけ言葉を失った。白石はそれ以上、踏み込まない。ただ、伝票を重ねる手を止めずにいる。

     土門が予定表の前から言った。

    「決めるなら、現場の外で決めろよ」

    「昨日も似たようなことを言われました」

    「現場の中で人生変えるなってこと」

     雑な言い方だが、要点は鋭い。

    「止めるか流すかは現場で決めりゃいい。仕事を続けるか辞めるかは、現場の外で決めろ」

     朔太は頷いた。

    「はい」

    「その代わり、一度決めたら引きずるな」

     土門はそこで新聞へ戻った。

    「引きずるやつが一番危ない」

     現場の言葉でしかない。だがその単純さが、妙に腹へ落ちた。

         *

     午前の現場は、本当に短い住宅地の工事だった。

     生活道路の片側交互通行。水道系統の小さな補修らしく、掘削も浅い。歩行者は多いが車は少ない。派手さはない。だが住宅地の現場には、別の種類の細かさがある。ゴミ出しの時間とぶつかる。通学の時間と重なる。配達と買い物が交差する。大きな危険はないが、小さい都合が無数にある。

     相方は御子柴だった。

     以前に一度、近隣住民への対応で朔太と考え方が食い違った若い隊員である。真面目で、正しい。正しいからこそ、生活の側の厄介さを一段飛ばしてしまうときがある。だが、それを御子柴自身も少しずつ自覚し始めている気配が、今日はあった。

    「今日は普通ですね」

     配置についたあと、御子柴が言った。

    「普通?」

    「湾岸とか高速とか、最近大きい現場が続いてたじゃないですか」

    「普通の方が面倒なときもありますよ」

    「それは、そうなんですけど」

     御子柴は少しだけ笑った。

    「でも、こういう現場って、車と人と近所の人が同時に来るだけで、何か安心します」

     その言葉が少し意外だった。安心。現場に対してそんな言葉を使う人間だとは思わなかったからだ。

    「安心するんですか」

    「大きい現場って、気を抜けないじゃないですか。もちろんここも抜けないですけど、誰が困るかが見える分だけ、まだわかりやすいです」

     たしかにその通りかもしれない、と朔太は思った。高速では、流れの中の誰かを特定して守る感覚は薄い。全体を守る。その分、個別の顔は見えにくい。住宅地は逆だ。流れは小さいが、困る人間の顔がこちらに向く。

     現場は穏やかに始まり、穏やかなまま進んだ。老人が通る。配達車が止まる。自転車の高校生が坂を下ってくる。御子柴の無線は正確で、前よりも相手の困り方を一段だけ待てるようになっていた。以前なら「皆さん同じ条件ですので」と言いそうな場面で、今日は先に「今すぐ通りたい理由ありますか」と聞けるようになっている。

     朔太はそれを見ながら、変わるのは自分だけではないのだと思った。現場は誰か一人の成長の舞台ではない。毎日少しずつ、人の手癖や声の角度が変わっていく場所なのかもしれない。

         *

     午前の終わり頃、一人の高齢の男が工事帯の前で立ち止まった。

     杖をついている。白いゴミ袋を二つ持っている。見るからに重そうだった。集積所は規制の向こう側にある。御子柴が先に声をかけた。

    「申し訳ありません。いま車を通しますので、少しお待ちください」

     男は頷いたが、息が少し上がっていた。夏ではないが、午前の陽はもう強い。

    「こっちで持ちます」

     朔太が言うと、御子柴が一瞬こちらを見た。

    「大丈夫ですか」

    「すぐ終わる」

     朔太は男から袋を受け取った。中は可燃ごみらしく軽くはない。歩道の迂回導線を抜け、集積所の前まで運ぶ。男がゆっくり後ろをついてくる。

    「助かります」

     男は小さく言った。

    「足が、朝はまだ固いんで」

    「こっちも、午前は固いです」

     思わずそう返すと、男は少しだけ笑った。集積所へ袋を置き、現場へ戻る。戻る途中で、自分がこの行動を「サービス」ではなく現場の一部としてやっていることに気づいた。流れを守る、というのは車を流すことだけではない。生活の小さい詰まりを、その場で一つ外すことでもある。

     持ち場へ戻ると、御子柴が抑えた声で言った。

    「前なら、僕、止めて待ってもらってました」

    「今日はそうしなかったな」

    「はい。今の方が早かったので」

     それから、少し間を置いて付け加える。

    「あと、たぶん、その方が揉めなかったです」

     朔太は頷いた。

    「そうだな」

     御子柴は少しだけ照れたように笑った。

    「最近、そういうのがわかってきました」

     その一言が、不意に朔太の胸へきた。現場の小さい変化が、人の中に積もっている。ここは、ただ食いつなぐための仮の仕事ではないのかもしれない。そんな考えが、言葉より先に形を持ち始める。

         *

     営業所へ戻ると、午後の待機が始まった。

     何も起きない待機時間は、以前より苦ではなくなっていた。電話の音。コピー機。無線機の充電ランプ。隊員たちが弁当を食べ、明日の現場の話をする声。待機は空白ではない。次の現場のために、空白を管理している時間なのだと、最近ようやくわかり始めている。

     それでも今日は、別の時間が頭の中にあった。三日目だ。相沢へ返事をしなければならない。

     ロッカー前のベンチへ座り、朔太はスマートフォンを取り出した。相沢からの新しい連絡はない。こちらの返事を待っているのだろう。条件は良かった。戻れば、生活は楽になる。外から見える自分の形も、たぶんまともに戻る。

     だが、そこで指が止まった。

     何に対して止まったのかを考えるより先に、営業所の中で長峰の声が聞こえた。

    「白石さん、明日の休憩回し、柴田さんで回ります?」

    「午前だけです。午後は久我さんが補助へ入ります」

    「じゃあ神代さん、また中固定ですね」

    「その予定です」

     何でもない会話だった。自分と直接関係があるわけでもない。だが、その何でもなさが妙に効いた。明日の現場が、もう普通に組まれている。誰かがどこへ立つか、誰がどこを支えるか。それが淡々と決まっていく。そこに自分の名前が入っているかどうかは、まだ見ていない。だが、入る前提でこの場所は動いている。

     白石がコピーを取りながら言った。

    「現場って、急に一人抜けると困るんですよね」

     土門が新聞から顔も上げずに返す。

    「困る。でも、困るからって残る理由にはならん」

     その一言が、妙に正しかった。

     困るかどうかで仕事を決めるのは、違う。違うが、それでも困ると言える関係がすでにあるということでもある。朔太はその両方を同時に感じた。

         *

     夕方、朔太は営業所の裏手へ出た。

     御堂が現れた外階段ではない。裏口の脇にある、自販機が一台だけ置かれた狭いスペースだ。そこなら人通りもないし、白石や土門の声も少し遠くなる。スマートフォンを開く。相沢のスレッドを出す。

     長い言葉は要らない気がした。言葉を足すほど、逃げ道が増える。

     朔太は、短く打った。

     ――すみません。戻りません。

     それだけだった。

     送信ボタンを押す指は、思ったより静かだった。もっと感傷的になるかと思っていた。過去に別れを告げる名言の一つでも浮かぶかと思っていた。何も浮かばない。ただ、この短さ以外にないと思えた。

     既読はすぐについた。相沢からの返信は、意外なくらい速かった。

     ――理由を聞いてもいいですか。

     朔太はしばらく画面を見た。

     理由はいくつもある。条件だけでは決められなくなったこと。現場で見えるものが増えたこと。戻ればまた同じ線の切り方をする気がすること。神代や黒岩や白石の言葉が、想像以上に深く残っていること。御堂の存在が気味悪いこと。全部本当だ。だが、全部を書く気にはなれなかった。

     結局、こう返した。

     ――いまの現場を見ない場所へは、戻れません。

     送ったあと、自分で少しだけ驚いた。ずいぶん気取った言い方だとも思った。だが、それがいちばん近かった。

     相沢からは、少し間を置いて返ってきた。

     ――そうですか。残念です。でも、あなたらしい気もします。

     それが最後だった。

     拍子抜けするほど静かに、戻る道は閉じた。

         *

     営業所へ戻ろうとしたとき、スマートフォンがもう一度震えた。

     知らない番号だった。

     嫌な静けさが、身体の内側へ入ってくる。

     画面を開く。メッセージは短かった。

     ――残るんですね。

     御堂だ、と考えるまでもなかった。

     続けてもう一通。

     ――なら、最後まで見てください。

     それだけだった。

     脅しにも見える。挑発にも見える。だが、いちばん気持ちが悪いのは、そのタイミングの正確さだった。相沢へ断りを入れた直後。まるで、こちらの選択を見ていたみたいに。

     朔太はしばらく画面を見つめた。怒りより先に、妙な納得が来た。

     そうか、と思った。

     残ると決めた以上、もう御堂から逃げる方へは使えないのだ。IT復帰という別の出口を自分で閉じた瞬間、御堂の問題は「気味が悪い侵入者」ではなく、「現場に残るなら向き合わざるを得ない過去」へ変わった。

     持ち場を選んだのは、自分だ。

     なら、その持ち場にくっついてくるものも、自分で引き受けるしかない。

     裏口の向こうで、営業所の電話が鳴っていた。誰かの笑い声もする。いつもの、仕事場の音だ。何も知らないまま、そこはいつも通り動いている。

     朔太はスマートフォンの画面を閉じ、深く息を吐いた。

     相沢へはもう返さない。御堂へも、今は返さない。

     ただ、ひとつだけはっきりしたことがある。

     自分はもう、「仮のつもりでここにいる」人間ではない。

     だからこそ、ここを乱すものとも、いずれきちんと向き合わなければならない。

     営業所へ戻ると、白石が伝票の束を持ったまま言った。

    「戻りましたか」

    「はい」

    「顔、戻ってますね」

    「そうですか」

    「はい。決めた人の顔です」

     朔太は一瞬だけ笑いそうになった。白石はたぶん、何を決めたのかまでは知らない。だが知らないまま、答えだけを言い当ててしまうことがある。現場の外の人間なのに、現場の答えだけは後押ししてしまう。そういう人間が、この営業所にはいる。

     土門が新聞を畳まずに言った。

    「明日も来るか」

    「来ます」

    「だったら今日は帰って寝ろ」

     いつも通りの雑な言い方だった。だが、その雑さがいまはありがたかった。

     帰り道、夜風は少し冷たかった。六畳一間のアパートへ戻るまでのあいだ、御堂のメッセージはポケットの中で消えずに残り続けた。だが、それでも足取りは、昨日までより少しだけはっきりしていた。

     戻る道は、自分で閉じた。

     なら次は、この場所で何を守るかを決める番だった。


     
     
    日本映画学校出身。劇場映画・テレビアニメの編集を経て、映像・Web・音楽をワンストップで手がけて25年。SF/ミステリー小説・脚本原案を執筆中。noteでは映像編集ノウハウと創作の記録を発信。

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