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苦しいのに幸せ──蘇軾と考える「幸福感」

    1.あなたは幸福ですか?


    そう聞かれたら、何を頭に思い浮かべるでしょう?

    ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、人間の幸福を左右するものを、大きく三つに分けて考えました。

    一つは、「その人が何者であるか」。
    健康や性格、知性など、その人自身に備わっているものです。

    二つ目は、「その人が何を持っているか」。
    財産や収入など、その人が所有しているものです。

    そして三つ目は、「その人が他人の目にどう映るか」。
    名誉や地位、評判といったものです。

    私たちは、こうしたものを手に入れながら、「幸福な状態」をつくっていきます。

    健康で、住む家があり、仕事があり、家族や友人がいる。
    生活に困らない程度のお金があり、社会の中に自分の居場所もある。

    もちろん、すべてを持っている人などいません。
    それでも、世界全体を見渡せば、現代の日本に暮らす私たちの多くは、歴史上かつてないほど「幸福な状態」にあるのかもしれません。

    でも、どうでしょう?

    「それなら、あなたは幸福ですね!」

    なんて言われたって、どこか素直に認める気持ちにはなりません。

    仕事があっても、毎日がつらい。
    友達がいても、誰かと自分を比べて落ち込む。
    嫌なことがあれば、一日中そのことばかり考えてしまう。

    ──これは、何なんでしょうか。

    幸福が失われたわけではないのに、幸福感がない。

    思えば、私は「幸福」について考える時、いつもこの問題の前でウロウロしていました。

    幸福を構成している要素に変わりはないのに、
    幸福感だけが失われる時がある。

    だとすれば、幸福と幸福感は、別のものとして考えたほうがいいのかもしれません。

    そしてこの二つを掛け合わせてみると、実は四つのパターンが見えてきます。

    この幸福と幸福感にどのように向き合ったらいいのか。

    私は、そのヒントを、このブログで何度も紹介してきた蘇軾の詞の中に見つけたような気がしています。

    今回は、完全に私個人の自由な解釈で、蘇軾の詞を通して「幸福」について考えてみたいと思います。

    2.「幸福」と「幸福感」の四象限


    前述のショーペンハウアーは、その著作の中で、アリストテレスの言葉を引用しながら、こう述べています。

    「賢者は快楽を求めるのではなく、苦痛のない状態を求める。」

    つまり、幸福や快楽とは、何かをプラスしていくものというより、苦痛や欠乏がない状態に近い、ということです。

    健康で、住む家があり、今日食べるものに困らない。

    ショーペンハウアーの考えに従えば、それだけで人は十分に幸福な状態にあると言えるでしょう。

    何を苦痛や欠乏と感じるかは人それぞれですが、大抵の人は、仕事がなければ不安になり、お金がなければ生活に困り、人間関係がなければ孤独を感じる。

    そうした欠乏を埋めるために行動します。

    ある程度の仕事。
    ある程度のお金。
    ある程度の人間関係。
    ある程度の趣味。

    そうしたものが揃えば、人は「幸福」と言えるかもしれません。ただし、これは基本的に外的な要因に左右されるものです。

    一方、「幸福感」は、あくまで自分自身が感じる感覚です。

    おいしいものを食べたり、昇進したり、人から褒められたりして幸福感を覚えることはあります。しかし、それらは幸福感の「きっかけ」に過ぎません。

    同じ出来事に触れても、幸福感を覚える人もいれば、何も感じない人もいます。

    幸福感は、最終的には自分の心が生み出す感情なのです。

    つまり、「幸福」は外的な条件に左右されやすく、「幸福感」は心の在り方に左右されやすい。

    これらを組み合わせると、下図のような四象限が作れます。

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    幸福と幸福感の四象限

    ①の「幸福」で「幸福感あり」が、一番理想の状態と言えます。

    客観的に恵まれた状態と自己認識が一致しているので、何ら違和感を抱くことなく「私は、幸せ!」と胸を張れるでしょう。

    これに対して、④は、幸福な要素が欠乏しており、自分も幸福感を持てていないので、こちらも「私は、不幸」だと素直に落ち込んでしまう状態です。

    しかし、見落としがちなのが、②と③の状態です。

    ②は、客観的には恵まれているが、本人は幸福感を持てない状態です。
    健康で、家庭もあり、仕事も安定している。それなのに、毎日が虚しく感じる。そんな感じでしょうか。

    ③は、客観的には厳しい状況でも、本人は幸福感を持てている状態です。
    例えば、お金は多くないが、好きな仕事をして毎日が充実している。
    そんな状態でしょう。

    一般的には、①の状態に居続けることが理想でしょう。しかし、人生には何が起こるか分かりません。

    栄光もあれば左遷もある。豊かな時代もあれば、食べるものに困る日もある。

    蘇軾の人生を重ねてみると、彼は①から④まで、すべての状態を経験していました。
    そして、そのすべてを作品へと昇華していったのです。

    3.蘇軾の四象限


    宋代を代表する才人である蘇軾は、わずか22歳で科挙に合格した、極めて優秀なエリート官僚でした。この時の答案は試験委員長・欧陽脩を感嘆させ、その才能は早くから天下に知れ渡りました。
    政治的にも順調にキャリアを重ね、発表する詩は世に広く話題を集めました。

    絵に描いたような「幸福」な状態。幸福感や達成感に包まれ、①「幸福・幸福感あり」の理想の状態にあったことでしょう。

    ところが、人は①にいれば、ずっと幸福感を保てるわけではありません。

    当時の宋王朝を二分した新法・旧法の争いの中で、蘇軾は急速な社会変革に懸念を示し、旧法派に属していました。新法派のやり方に、不満や不平を抱くことも多かったのでしょう。

    家族団欒を楽しむ節句、中秋節。赴任地で酒を飲み交わし見上げた満月に、傍にいない最愛の弟・蘇轍の不在を嘆きます。その時に詠んだのが《水調歌頭》でした。

    政治的な対立や地方赴任によって、家族と離れて暮らす日々も続いていた蘇軾は、まさに②『幸福・幸福感なし』の状態で、外から見れば成功の絶頂にありながらも、心には埋めようのない寂しさがあったのです。

    そして1079年、烏台詩案(うだいしあん)として罪に問われ、黄州への左遷を言い渡されます。

    自身も死を覚悟した末に与えられた、名ばかりの役職。
    地位も、収入も、友人も、信頼も、すべてを失い、絶望の日々を過ごします。

    まさに④「不幸・幸福感なし」の状態でした。

    夜に眠れずに一人彷徨い歩く姿を綴った《卜算子・黄州定慧院寓居作》では、静寂の中の凍てつくような孤独が表現されています。

    しかし、蘇軾の魅力は、この先の心の在り方にあります。

    左遷先の黄州で、蘇軾は暮らしのために田畑を耕しはじめます。
    官僚として過ごしてきた身には勝手の分からない農作業に苦戦し、近所の農民に教えを乞う日々。

    地位や名誉という「幸福」の欠乏は、依然として変わりません。
    それでも蘇軾は、そんな生活の中で少しずつ自分を取り戻していきます。

    そして、その心境の変化を象徴する出来事が訪れます。

    ある雨の日、友人と出かけた帰り道。
    その体験から生まれたのが、《定風波・莫听穿林打叶声》でした。

    ここで蘇軾は、外形的な条件が何であれ、大事なのは心の在り方なのだという境地へと近づいていきます。

    ③「不幸・幸福感あり」に通じる境地です。

    自分の財産を1日分の生活費ずつに分けて糸に通し、軒先にぶら下げておく。日々少しずつ節約できた分は、竹筒に入れて酒代にする。

    そんな貧しい暮らしをしながらも、その後の蘇軾の作品にはどこかユーモアがあり、自分の心の在り方と向き合うような表現が増えていきます。

    家童のイビキを雷鳴に例え、家を閉め出された不運から「このままどこかへ消えてしまいたい」という気持ちの揺れを描いた《临江仙・夜归临皋》は、クスッと笑えて、共感が止まらない名作です。

    そんな蘇軾の心の在り方は、思いがけず、友人が連れていた歌妓によって言語化されます。

    その出来事を描いたのが《定风波・南海归赠王定国侍人寓娘》です。

    芊中ぎ

    「此心安処是吾郷(心が安らぐ場所こそ、私の故郷です)」

    という七字に、大事なことがすべて詰まっているように思えます。

    その後、蘇軾は罪を赦され、朝廷に復職します。
    しかし、旧法派が勢力を盛り返す中、派閥の象徴として扱われることに嫌気が差した蘇軾は、地方への赴任を願い出ます。

    外から見れば再び「幸福」な立場に戻りました。
    しかし、蘇軾の心は、もう昔の蘇軾ではありませんでした。

    この頃創作した《浣溪沙・细雨斜风作晓寒》は、もはや地位や名誉から幸福感を得られなくなった蘇軾の心情を表現しています。

    「人間有味是清歓(人の世で本当に味わい深いものは、こうした清らかな喜びだ)」

    と語る蘇軾は、人生において「幸福」かどうかはもはや重要ではなく、自分が何に「幸福感」を味わえるのか、それこそが大事だと教えてくれているようです。

    その後も、蘇軾は波瀾万丈の人生を送ります。
    派閥間の政争の渦中にあった運命からは逃れられず、広東の恵州や海南島の儋州へ左遷されます。

    まだこのブログでは紹介しきれていませんが、その暮らしの中でも、蘇軾は数々の素晴らしい作品を残しています。

    それでも、その基本姿勢はぶれません。

    人生には、自分では変えられないことがあります。
    それでも、心の在り方だけは、自分で選ぶことができる。
    蘇軾が最後にたどり着いたのは、③「不幸・幸福感あり」という生き方でした。

    では、その境地は、あの雨の日に、どのようにして生まれたのでしょうか。

    4.蘇軾はあの雨の日に何を得たのか


    その日、蘇軾は、買い求めていた田畑を見に外へ出ていました。

    その帰り道、突然、雨が降り出します。
    雨具を持っていなかった人たちは、慌てて雨宿りを探し、右往左往し始めます。

    そんな人々の様子を見ながら、蘇軾は思います。

    この程度の雨なら、蓑でもあれば十分だ。
    慌てることなどない。
    気にせず、鼻歌でも歌いながら歩いて行けばいいじゃないか。

    その瞬間、蘇軾の中で、何かが変わったのではないでしょうか。

    左遷によって地位も名誉も失い、その現実に心まで縛られていた蘇軾は、長い間、幸福感を失ったまま生きていました。

    何か嫌なことがあると、そのことばかりが頭から離れず、一日中気持ちが晴れない。そんな経験は、現代を生きる私たちにも、決して珍しいことではありません。

    しかし、「雨が降る」という出来事は、自分ではどうすることもできない外的な出来事です。

    雨に狼狽える人々の姿を見ながら、蘇軾は、そこに自分自身を重ねたのではないでしょうか。左遷という、自分では変えられない現実に心を奪われ、沈み込んでいた自分の姿です。

    だからこそ、彼は気づいたのではないでしょうか。

    雨は止ませることはできない。
    けれど、雨に心まで支配される必要はない。

    雨音が激しく響いていても、自分の歩幅で歩くことはできる。
    周囲が慌ただしく動いていても、自分の心まで慌てる必要はない。
    その自由だけは、自分の中に残されている。

    これを四象限に置き換えるなら、外的な「幸福」に、心の中の「幸福感」まで明け渡してはいけない、ということなのかもしれません。

    そもそも、「幸福」と「幸福感」は別のものです。

    これまで見てきたように、幸福だから幸福感があるとは限らず、幸福であっても幸福感を失うことはあります。逆に、不幸な状況にあっても、幸福感を持って生きることはできます。

    だとすれば、自分らしく生きていくために本当に大切なのは、「幸福か、不幸か」を気にし続けることではありません。

    「自分は、何をすれば幸福感を感じられるのか。」

    その問いに向き合うことではないでしょうか。

    そもそも、自分が人生を楽しめるかどうかは、雨が降っているか、晴れているか、そんなことと本来あまり関係がないのかもしれません。

    蘇軾は《定風波・莫听穿林打叶声》を通じて、今もなお、私たちに静かに問いかけ続けているように、私は思えてなりません。

    5.雨の日にも自分らしく生きる


    約1000年前を生きた宋代の文人・蘇軾。

    彼が残した達観は、今を生きる私たちの心にも、静かな道標を灯してくれます。

    現代の社会でも、理不尽な出来事は絶え間なく起こります。

    食べるものに困らなくても、嫌なことはあります。
    SNSで見た同期の活躍に、自己肯定感が下がることがあります。
    上司の何気ない一言で、一日中気持ちが沈むこともあります。

    でも、そんな時こそ、「自分が幸福かどうか」と、「幸福感があるかどうか」を切り離して考えてみることは、大きな助けになるのではないでしょうか。

    自分の力では変えられない出来事に心を奪われ続けるよりも、「どうすれば、自分はもう一度幸福感を取り戻せるだろう」と考えること。

    その方が、ずっと前を向いて生きられる気がします。

    自分がどんな時に幸福感を感じられるのかを、あらかじめ知っておくことは、とても大切だと思っています。

    美味しいものを食べること。
    好きな本を読むこと。
    大切な人と話すこと。
    空を見上げること。

    人それぞれ、その答えは違うでしょう。

    嫌なことがあった時は、反省すべきことはきちんと反省する。

    でも、それだけを抱え続けて、自分の毎日や、自分自身の価値まで傷つける必要はありません。

    指摘されたことを受け止めたら、その後は、自分の心をいたわることも同じくらい大切なのです。

    ショーペンハウアーは、人間の幸福を左右する三つの要素のうち、「その人が何者であるか」が最も重要だと説きました。

    財産や評価が幸福につながるかどうかも、結局は、それを受け止める自分自身のあり方によって決まるからです。

    自分でコントロールできるものに目を向け、自分自身と向き合うこと。

    それは、蘇軾が《定風波》でたどり着いた境地とも、どこか重なっているように思えます。

    あなたが何を持っているか。
    どんな地位にいるか。

    それももちろん大切です。

    でも、それ以上に、

    あなたは、何に幸福感を感じる人なのか。

    その問いを持ち続けることが、雨の日にも、自分らしく歩いていく力になるのではないでしょうか。



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    《 「蘇軾をゆく」シリーズ 》

     
     
    福岡在住|中国滞在歴10年|中国全省・自治区・直轄市・特別行政区を踏破。 『福岡人、中国をゆく』運営。 中国、福岡、東アジアの街を歩きながら、歴史・漢詩・文化・食・人々の営みを綴っています。 中国と福岡、そのつながりの中にある物語を探しています。

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